第三十八話『悔恨』
それは、時間が止まってしまったかのような感覚だった。
あるいは、足元が崩れ落ちていくような。
もしくは、頭の中が真っ白になってしまったような感覚だった。
「ネニユユツヘイムニ!? チヒニムネヘヘイムユミリ、レニニユウネレンニムネヘヘイムチウネ、ヘンヘレイユムイヘミュウ!? レメレ、イレメレヘンヘレイヘルネイヘネンヘイウフリミチュ……」
「ユレメネイユ! リュウニ、ムネヘネヘリヘネルネツヘ……!」
紅い瞳の女の子とユーリエの言い合う声が聞こえるが、夏樹にはそちらに関心を向けられるほどの余裕はなかった。
なにせ、状況が最悪過ぎる。
紅い瞳の女の子はシスターのスキルで動きを封じられているし、ユーリエのスキルでは決定打に欠けることが立証されてしまった。
その上、出力が最大の状態である変身中のユーリエですら押し切れなかったのに、ここにきてユーリエの変身が解除されてしまったのだ。
様子を見る限り、ユーリエに考えがあって、わざと解除したという風でもない。
しかもどうやら、シスターと紅い瞳の女の子の戦いを仲裁するために割って入ったことが誤解を招いたようで、シスターは夏樹たちに敵対的になってしまっている。
それはつまり、ユーリエはスキルの通じない相手を前にして、スキルの出力低下と、夏樹という弱点を抱えて戦わなくてはならなくなったということだ。
「い……いやいやいや、落ち着こう僕、一旦落ち着こう。大丈夫だって、無理に戦う必要なんかないんだ。別にシスターさんを倒すのが目的じゃないんだから、隙を突いてひとまず逃げれば……」
戦闘では何の役にも立てない夏樹だが、相手が異世界の人間であれば、多少は意表を突くことができる。
機動力では依然としてユーリエや、どころが夏樹ですらもシスターより優位なのだから、その隙に逃げるというのは決して無茶な計画ではない。
問題があるとすれば、シスターのスキルに拘束されてしまっている紅い瞳の女の子だろう。
地面に縫い付けられたままの紅い瞳の女の子を置いてはいけないが、不明なスキル効果の詳細によっては、助けるためにはシスターを倒さなければならない、といったような展開も考えられる。
とはいえ、一度はシスターのスキルを浴びたはずのユーリエが現在動けているのだから、恐らくは拘束効果も永続ではない。
あるいはユーリエの浴びたスキルの影響を消したのが、ユーリエの変身能力の恩恵だったとしても、以前シスターのスキルを浴びた異空間の化け物が抗って立ち上がって見せたのだから、全く動かすことができないわけではないはずだ。
であれば必要なのは、紅い瞳の女の子の安全圏に退避させるための時間稼ぎか。
そう判断した夏樹が具体的な手段の検討を始めようとした矢先、ユーリエがその思考を制するように、そっと夏樹の腕に手を添えた。
「……なつき……」
「えっと……大丈夫だよ、ユーリエ! 危ないことをするつもりはないから、安心して!」
不安げなユーリエに、夏樹は精一杯の笑顔とサムズアップを向けて応じる。
鍵型の武器を振るうシスターを相手に、生身で時間を稼ごうとすることがすでに『危ないこと』ではあるのだが、だからといって何もしないわけにはいかない。
今回はまだ姿を見せていないけれど、異空間の中の危険はシスターだけではないのだ。
鍵型の武器さえあればそれほど怖い敵ではない化け物が相手の時ですら、夏樹を守りながら戦うユーリエは苦戦を強いられていた。
ユーリエの変身能力によって力を借りて、その弱点を克服した状態でも敵わなかったシスターが相手なら、夏樹という足手まといの存在は致命的なものになる。
紅い瞳の女の子と同様に、現代文明に不慣れであろうシスターになら携帯電話によるこけおどしが通用するはずだから、夏樹だってきっと、多少は力になれる。
間違ってもシスターの間合いに入らないようにと心の中で繰り返しながら、夏樹はポケットの中の携帯電話に手を伸ばす。
がしゃり、と音を立てて鍵型の武器を地面に突き立て、それを杖の代わりにして紅い瞳の女の子が立ち上がったのは、その矢先だった。
「……レニニユウネレンニムネヘユレエメメネイネメ、ミニイヒリテリンリレメチウミヘムペリチュネイ? ユヘミテエネヘユミミイフニリヒユミメネイレヒ、リンリニイイヘイルヒネニレユミヘレムリヒテ、ミメヘリユレムユ」
鍵型の武器で体を支えて体を起こす紅い瞳の女の子は、近づいてくるシスターを睨みつけながら何かを言う。
それはどうやら、ユーリエに向けられた言葉であるらしく、夏樹の隣で僅かに息を呑んでいる。
夏樹には、ユーリエにそうさせた言葉とは何なのかを理解することはできない。
夏樹にできることは、その苦しげな表情から、不確かな想像を広げることだけなのだ。
「……ミヘレム、ヘネンヘリヒペユフレユネイヘルヘメイ。なつきテ、ユヘミヘヒニリユエンチヘルメヘイムニヘム」
「イユメミイリヒネ。ミイフニメイヘ、エネヘテイレ、ネレレニリミメメミウニネツヘイムツヘイウニニネ」
弱々しく何かを言い返すユーリエに、紅い瞳の女の子はどこか優しげな声音で応じて、鍵型の武器を操作する。
拘束スキルに抗いながらの操作ゆえだろう、緩慢な動きの紅い瞳の女の子に向けて、再びシスターが霧のような緑色の光を放った。
「危な……っ!!」
「………………っ!?」
「なつき!?」
夏樹は反射的に紅い瞳の女の子の首根っこを掴んで、巻き取るように後ろに引く。
拘束スキルに抗うことに意識を割いていたせいか、紅い瞳の女の子はあっさりと体勢を崩して夏樹を巻き添えに倒れ込んだ。
手っ取り早く緑色の光を避けるなら転ばせたほうが早いという判断は間違ってはいなかったらしいと、頭上を通過する緑色の光を見て夏樹は思う。
しかし残念ながら、些か思慮が足りなかったことを認めざるを得ないのも事実だった。
「重……っ! 失敗した、相手を地面に磔にするスキルの性質から、こうなることを察するべきだった……!」
「……ヒウミヘレミメネ。イレインネニリヒミヘ、ヘンリリウニミネレメペネメネイユウネリネミヘニヘレメヒ……?」
それでどうして走れなくなるのかは分からないが、シスターのスキルの正体は、重力を操るような類いのスキルなのだろう。
圧し掛かる紅い瞳の女の子の体の下で、呻きながらそう推察する夏樹を、紅い瞳の女の子は恨みがましげな視線で射抜く。
重いのは私ではなく、シスターのスキルが悪いんだと言っていることが容易に想像できるような声音の恨み言(だと思う)に続いて、ユーリエが口を開いた。
「ルヒュテユレヘルへメイ、なつき……! イリュウヒメン、ミュウヒウチュメレテユヘミネエミヒレミレムレメ、ミニエイヘニなつきユミヒテイネネイミレム!」
夏樹と紅い瞳の女の子のそれぞれに何かを言い残して、ユーリエはシスターに肉薄する。
操作して光の剣を纏わせた鍵型の武器を、形や、胴体や、手足目掛けて叩きつけ、振り抜き、切り上げる。
一撃の威力よりも、手数の多さを重視した立ち回りなのは、打ち合いでは敵わないためだろう。
防戦一方で戦いにくそうにしているシスターの様子を見る限り、その狙いはどうやらうまくいっているらしい。
「……こっちの世界に来た時は、僕にすら怯えるくらい怖がりだったのにね……。僕が無茶なこと言ってなければ、ユーリエも戦い方なんて知らないままでいられたのかな……」
「レツヘル、ネニユミヘイムニユ……。エミヒレネンレムムユミリ、ミヒレヒュツヘチウネユチヒエンテンヘレルチフチュネイ」
普通の女の子であるユーリエが、戦い慣れていく様に苦い思いを覚える夏樹の上で、紅い瞳の女の子が何かを呟きながら体を起こす。
声色から内容を想像することはできなかったけれど、ふらふらしながら立ち上がって構えた鍵型の武器を操作し始めたので、あまり穏やかな内容ではなかったのだと思う。
鍔の鍵穴に小さな鍵を差し込んで捻り、外れた刀身をくるりと回す。
露になった鍔の中に小さな鍵を差し込んで刀身を戻すと、真紅のガラスは一層強い輝きを放ち始めた。
「……って、ちょっと待って!? これってまさか……」
「メネミネメイ、ルメメリイミ!」
夏樹が戦慄を言葉にするより早く、事態は駆け抜ける。
紅い瞳の女の子の声で、弾かれたようにユーリエが飛び退いた瞬間、紅蓮の炎がシスターに踊り掛かる。
驚愕に見開かれた緑色の瞳は瞬く間に覆われて見えなくなり、異空間の黒い空を火柱が引き裂いた。
「ネっ……ネンヘリヒユムムンヘムレ!! リメチュエ、リウ……」
「……ネメ、エニインネユチウツヘイイヘ、リニイヒリニムンヘイヘレヒユテレイメメムチウネユレツヘレミメ? ヘリヘイミュテヒヒニヒユリテメウニネ、メイリュウニユミレヘヘミュウ?」
半ば悲鳴のようなユーリエの叱責(恐らく)にも悪びれず、紅い瞳の女の子はつまらなそうに反論する。
感情のままにそれを否定しようとしたらしいユーリエだったが、そのための言葉が見つからないのか、荒れ狂う感情に翻弄されて声にできないのか、開いた口は息が上手く吸えないみたいにぱくぱくするばかりだ。
夏樹もまた、何も言うことができない。
みんなで楽しく食事ができるようにと、たくさん料理を作った。
成り行き任せになってしまっていたけれど、シスターにもみんなの輪の中にいてほしいと願っていた。
その挙げ句が、どうしてこんなことになるんだと、叫ぶことすらできないほどに悲しかった。
紅い瞳の女の子の手の中で鍵型の武器が砕け、ガラスの割れたような音が響く。
言葉を紡いだのは、紅い瞳の女の子だった。
「……エメヘレリチメヒュツヘンヘレメ、ミレヘネイユユ。ヒイウレ、エネヘテチプンニニミュチンメレユイヒミレヘエニインネユ、ユムメムニ?」
「……レリニヘリネ、レリニミリペヘエムユヘミニネニユユムムヒイウニヘミュウ?」
紅い瞳の女の子の言葉に反論した声を、夏樹は最初にユーリエのものだと思った。
そうではないのだと気が付いたのは、二人が視線を向けた火柱を緑色の閃きが払って、微笑みを浮かべたシスターが姿を現したからだ。
「エユレツヘミンリウユイヘルエネヘネヘヘテ、ユヘミニヘヘミメニテ、ヒイルイユペネイヒイウニニ」
「……チュウヘンヘミュウ……? ネンヘエメユウレヘ、テイテンヒミヘイメメムニユ、リニペレリニ……!」
恐らくは、紅い瞳の女の子の必殺技が命中する前に、重力を操ると目されているあのスキルで叩き落したのだろう。
危うげな微笑を浮かべるシスターに、紅い瞳の女の子は忌々しそうというより気味の悪いものを見る目を向けて呻く。
その様子にシスターは気を良くしたのか、くすくすと笑って言葉を続けた。
「ヒウテンニレツレヘム。ヘヘミリレリニミリペヘエムユヘミニテ、ヘヘミリレリニレニニレリメメヘイムニヘムレメ。エユレツヘミンリウニレヒユメメムエネヘネヘニレンヘテ、ユヘミニリツユフレミリヒネンヘヘリレメン」
「……ヒネイレムっ!!」
短く。
けれど、力強く。
シスターの長口舌を否定するように、ユーリエの声が響く。
いや、『ように』ではなく、そのものだ。
言葉の壁に阻まれてもなお確信できるほどにはっきりと、ユーリエはシスターの言葉を否定している。
「ユヘミヘヒネレヘネイニテ、ユヘミヘヒネレヒネツヘイムレメチュエミレメン! なつきテエルレネンレチュエミレメン……リンネニユメミイチヒユミンチムリヒネヘリネイチヒニチウネ、ユツピヒエルレヘム!!」
「……エユメヘムネ。リテユ、エルレニヘレメメヘイムリヒムメ、チレルヘリネイネンヘ」
真摯に響くユーリエの声は、シスターの逆鱗に触れる内容だったらしい。
その表情から笑みが消え、代わりに無色の怒りが広がっていく。
鍵型の武器を握る手に力を込めて、未だ地面を舐める炎も意に介さずに歩き始めたシスターを見据えたまま、ユーリエは夏樹のほうに片手をかざす。
それが何を意味するのか、ここ数日をユーリエと共にに過ごした夏樹には、例え背後に収束する不思議な力の奔流が感じ取れなくても分かっただろう。
「……ダメだよ、ユーリエ……。檸檬だって、ユーリエの帰りを待ってる。二人がかりで戦っても止められなかった人を相手に、そんなの……」
「……なつき。イレンレヘヘルメンユメミルミヘルヘメツヘ、エミネヒウニテイレミヘ」
ユーリエの声は、とても穏やかだった。
どうにもならない現実への怒りに震える夏樹の声をしなやかに制し、柔らかいのにどこまでも響きそうなほど透き通った、透明な声だった。
「イリュウヒメン。なつきヒイツミュニルリウニリヒツヘメ、なつきネレヘリヒメニリネイユウニ、ヒュウイミヘイヘヘレレメンレ? なつきテヒリイミ、イヒミルルメイルヒュネリヒユミレムレメ」
「……ミュウメンテエムニ?」
「……ミペメルヘエヘイメペ、リツヒルミイエルレネイヒヘリレム。リンメンニネメペ、エムイテツヘ……」
紅い瞳の女の子の短い問いかけに、ユーリエは少し困ったような声音で答える。
その口調は……いや、紅い瞳の女の子に何かを託すような今のやり取り自体が、夏樹の嫌な想像を裏付ける。
「……ユレツヘユ。ミメヒ、イリュウヒツヘユプニテユレヘ。ユヘミニネレエテ、エミーリエ、ユ」
「エミネヒウニテイレム、エミーリエ。ユヘミニネレエテ、ユーリエ、ヘム。なつきニリヒ、ユミミルイネネイミレムネ」
ユーリエと言葉を交わして、紅い瞳の女の子は夏樹の背後に消える。
ユーリエが夏樹の後ろに開いた『扉』をくぐったのだろう。
嫌な想像への予感が確信へと変わるが、夏樹は動けない。
それは、下手に動いてはユーリエの迷惑になるからというより、信じたくなかったからだろう。
けれど、夏樹のほうに片手をかざしたままシスターを見据えていたユーリエは、振り向いて諦めのにじむ微笑みを見せた。
夏樹の抱いた嫌な想像を、肯定するように。
「……なつき。ユヘミニリヒユヘムレヘルヘメツヘ、チンヒウニエミネヒウニテイレミヘ」
「止めてよユーリエ、そんな……っ!」
最後まで言うことは、できなかった。
ユーリエに押されて、夏樹は背後に開いていた『扉』に呑み込まれる。
空間の境界を越えて現実へと押し戻されてすぐ、もう一度『扉』をくぐろうとした夏樹を、誰かが引き戻した。
「なっ……何するんだよ、放してよ!! ユーリエが、ユーリエが……!!」
「ユヘミテ、ミニユーリエニヘニレメヘレメ、エネヘユヒレヘイムニ! エニペレリニユエイヘニエネヘユレリミネネメヘンヘレツヘイヘメ、ミメリミユーリエテリミメメムユユ!?」
首根っこを掴む手を振り払おうとして暴れる夏樹に、紅い瞳の女の子が叱責を飛ばす。
まだシスターから受けた拘束スキルが抜けていないのか、ユーリエほどではなくとも鍵型の武器に身体能力を強化されているのか、夏樹を抑える紅い瞳の女の子はびくともしない。
それに、例え振り切れたとしても、大して意味はなかっただろう。
紅い瞳の女の子は、ユーリエが『扉』を閉めるための一瞬を稼げれば、それで良かったのだから。
「……ぁ……あぁ……!」
展開していた『扉』が収縮し、風景の中から超常の異物が消失する。
夏樹たちが異空間へと入った時とほぼ同じ場所に開いた非日常は消え失せ、夏樹には干渉できない存在となる。
「ああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
何もできなかった。
誰も助けられなかった。
無力な自分への怒りと呪いを込めて、夏樹は慟哭する。
最後に聞いたユーリエの声や、ユーリエが最後に見せた表情と共に、言えなかった言葉が夏樹の心に反響する。
あんな、遺言を残すみたいなことを、してほしくなかった。




