第三十五話『不安』
最初は形も分からないほど、それは小さかった。
鮮やかな緑色の刀身の切っ先に現れた黒点のようなそれは少しずつ膨らんでいって、握り拳くらいの大きさになる頃にようやく、それが黒い立方体だったのだと気付かされる。
黒い立方体は、なおも膨張を続け、ユーリエの頭より少し小さいくらいの大きさまで膨らんだ辺りで膨張を止めて、今度は増殖が始まった。
ぼこぼこと。
ぼこぼこと。
無秩序に、それでいて規則的に黒い立方体は増え続け、シスターと紅い瞳の女の子を遮るような壁を形作っていく。
それがユーリエの黒い球状の穴や、紅い瞳の女の子の黒い傷と同じ、異空間への『扉』なのだと気付いたのは、慌てたようにユーリエが、鍵型の武器を召喚したのがきっかけだった。
「なつき、れもん! リニイヒヘテレリリレメヘミレイレム、テユルテネメヘ……!」
「……え……っ? え……!?」
ユーリエの開く『扉』以外を見たことのない檸檬が、ユーリエの言葉の意味を汲み取れずに混乱する。
初めて見る形なので規模が想像しにくいが、異空間の『扉』は、範囲内にいる者全てを異空間に放り込む。
シスターと一緒に公園まで歩いてきた夏樹も、さっきまで紅い瞳の女の子と口論していたユーリエも、それを近くで見守っていた檸檬も、どう考えたって『扉』の展開範囲内だ。
だから、可能な限り遠くに逃げろと言ったのだろうなと察することができた夏樹は、名前を呼ばれた時点で反応することができた。
檸檬が逃げ遅れていることに気付けたのは、それらの要因が精神的な余裕をもたらしていたからだろう。
けれど、だからといってシスターと紅い瞳の女の子の間に開いた壁のような『扉』を越えて檸檬を助けることができるかといえば、当然そんなことは不可能だ。
せめて自分も一緒に巻き込まれて、異空間内で檸檬を守れるようにするべきかと、夏樹は一瞬迷う。
かなりの大きさまで育って、視界を塞いだ黒い壁の向こうからユーリエの声が響いたのは、ちょうどその時だった。
「なつき、たいちょぷ!」
「っ!!」
夏樹とユーリエは、互いに互いの言葉が分からない。
だから、相手が何を伝えたいのかが分からず、それは相手の言語を使用した場合でも変わらない。
言葉の壁に阻まれて意思の疎通が図れないせいで、相手が自分の知っている言葉と同じ意味で使ったかどうかなど、確認のしようが無いからだ。
けれど、夏樹は知っている。
以前、戦う力を失ったユーリエが、自身を囮にして夏樹を逃がそうとした時にその言葉を使ったことを。
化け物の蹴りをもろに食らってしまったユーリエを心配する夏樹にその言葉を向けたことを、覚えている。
私は大丈夫だと。
だから、安心してほしいと。
ユーリエがその言葉を、夏樹たちとほとんど同じ使い方をすることを、夏樹は知っている。
「分かった! 檸檬をお願い、ユーリエ!」
私が檸檬を逃がすから大丈夫と言ったのか、私が一緒に異空間に行くから大丈夫と言ったのかまでは分からないが、いずれにせよ、ユーリエが大丈夫だと言ったのだから、大丈夫なのだろう。
安心に迷いを溶かされた夏樹は地面を蹴って、全力で黒い壁から距離を取る。
ほぼ同じタイミングで黒い壁も動き出し、シスターの鍵型の武器の切っ先を中心にして、回転扉のようにくるりと回った。
「うわぁぶなっ!」
「きゃっ……!?」
すんでのところで『扉』の回転から逃れた夏樹の間抜けな悲鳴と、『扉』を挟んで向こう側にいる檸檬の短い悲鳴が重なる。
『扉』は回転の速度を上げながら、紅い瞳の女の子と緑眼のシスターを呑み込んで収縮していき、最後は形も分からないほどに小さくなって消えた。
「……あっ……そうだ、檸檬!」
直前に聞こえた悲鳴を思い出して、夏樹はそちらに目を向ける。
硬直している檸檬を抱え上げているユーリエは空いているもう片方の手に、光の剣を纏った鍵型の武器を握っている。
どうやら、鍵型の武器の能力で強化されたユーリエが抱え上げて大きく飛び退ったことに驚いただけらしいと悟り、夏樹はひとまず安堵して駆け寄った。
「二人とも……檸檬もユーリエも、大丈夫?」
まとめて呼んだらユーリエに伝わらないと思った夏樹は、名前で呼びなおして二人の無事を確認する。
ここ数日で大分荒事に慣れてきたユーリエはすぐに微笑みを返してくれたし、突然の出来事に茫然としていた檸檬も、遅れて返事をしてくれた。
「ユヘミテテイリヘム。ミンペイミヘルヘメツヘ、エリネヒウニテイレム」
「……え、ええ……大丈夫、何ともないわ……」
「そっか。良かった……」
二人が特に怪我などをしていなさそうなことを確認して安心した夏樹は、ついっと視線を横に滑らせる。
何の気なしに動かしたそれが、先ほどまでシスターと紅い瞳の女の子がいた場所で動きを止めると、不安げな檸檬の声が夏樹の耳を打った。
「……夏樹……何を見てるの……?」
まさか、あの二人を止めに行きたいなんて言わないよね?
小さい頃みたいに気弱な声は、言外にそう尋ねている。
直接言葉にして尋ねないのは、望まない答えが返ってくるのを恐れているからだろう。
優先順位を間違えてはいけない。
みんなが笑っていてくれればもちろん、それがベストだが、大切な人を悲しませてまでそこにたどり着こうとするのはきっと、正しくない。
だから夏樹は、苦笑にも似た笑顔を浮かべて言おうとした。
大丈夫。
もう、檸檬を心配させるようなことはしないよ。
そんな言葉を声に変えるために、喉の奥に準備した矢先だった。
「……リウ。なつきツヘペ、チンヒウニミレヘニネイレヘヘムネ……。エメヘレリレンネレニエツヘ、エンネニイリメメヘニニ、レツリュルテンメイミヘルヘメメネイネンヘ」
呆れたような笑顔を浮かべて、ユーリエが立ち上がった。
言うと思った、という声が聞こえてきそうな微笑みを湛えたまま、ユーリエは鍵型の武器を両手で握って構える。
とっさに檸檬がその手を取ったのは、檸檬もユーリエが何をしようとしているのか、予感したからかもしれない。
「……ユーリエ、どうしたの……? ほら、夏樹がご飯を作って持ってきてくれたから、一緒に食べよう……?」
言葉が通じなくても、望まない未来への怯えに歪んだその笑顔が、檸檬の言いたいことを伝えたのだろう。
だが、それでもなお、ユーリエは『扉』を開くことを選んだらしい。
苦しそうにしかめた顔に、じわりと微笑みをにじませて、ユーリエは言った。
「……ニレンネメイ、れもん。れもんニイリリヒテ、ユヘミリユレムフリミヘム。レメヒ、イレニウヒニヘフヘツヘイレネイヒ、なつきテユヘミヘヒニレルメヘ、リレンネリヒユミユウヒミヘミレウヒイリウニヘム。ミメニ……」
ユーリエの口から自分の名前がこぼれたことに、夏樹は愕然とする。
夏樹はユーリエと出会ってから、度々無茶な願いを押し通してきた。
丸腰の状態でユーリエと一緒に戦おうとしたり、こちらに敵対的だった紅い瞳の女の子を助けようとしたり。
夏樹が無茶をするたびに、ユーリエは逃げろと言っていたり、反対したりしていたけれど、夏樹はそれらを聞き入れずに自分の意見を押し通してきた。
右も左も分からない夏樹たちの世界の中で、それらの経験はユーリエの行動の指針となったのだろう。
詳細は推測するしかないけれど、ユーリエが『扉』を開こうとしている理由は、間違いなく『今まで夏樹がそうしてきたから』だ。
後先考えずに、目の前にいる誰かの力になろうとしてきたからだ。
だからユーリエはきっと今回も、夏樹がそうするだろうと予測して、『扉』を開こうとしてくれている。
明らかにそれに反対している檸檬に、困ったような笑顔を向けているのは恐らく、心情的には檸檬の意見に近いが、放っておいたら夏樹が何をしでかすか分からないと思っているのかもしれない。
一度言い出したら夏樹は聞かないから、せめて何かあった時にどうにかできるよう、目の届くところにいるべきだと思っているのかもしれない。
「ユへミネエニリユへムレヘエネネイヒ、なつきテリツヒレネミンヘミレイレムレメ」
「……待って……! やめて、ユーリエ!!」
檸檬の手を取って、柔らかな微笑みを浮かべるユーリエに、今にも泣き出してしまいそうな声で檸檬が訴える。
檸檬を悲しませたくない気持ちに、嘘は無い。
けれど、そのために夏樹がこれまでの自分の行動を否定すれば、それはユーリエの行動指針の否定にも繋がってしまう。
未知の存在に怯えながら、勇気を振り絞って歩いてきた正体不明の世界の中で、ようやく手に入れたであろう価値観を、否定することになる。
やっと明るくなってきたと思っていた世界が、再び無理解の闇に閉ざされる恐怖を想像して、夏樹はぞっとする。
そんなことになればきっと、ユーリエは再びこの世界に召喚されたばかりの頃の、些細なことにも身を竦める怖がりの少女に戻ってしまう。
そして、夏樹のせいでそんなことになってしまった場合、ユーリエは夏樹を、もう一度信じてくれるだろうか。
「………………檸檬」
答えの出ないまま、夏樹の口が頼りない声を絞り出す。
今にも震えてしまいそうな情けない呼び掛けは、残念ながら檸檬には届かなかったらしい。
すがるような目に涙をにじませて、ささやくみたいに小さな声で、檸檬は言葉を紡ぐ。
「……お願い、連れていかないで……。これ以上夏樹を、私から引き離さないで……!」
「………………!」
か細く、それでいて痛烈な悲鳴。
檸檬のそれを聞いて、夏樹は初めて、檸檬が本当に恐れていたことが何なのかを知った。
異空間で化け物と戦ったこと。
異世界の人たちと知り合ったこと。
ユーリエが夏樹の行動によって指針を得たように、それらの出来事は確実に、夏樹を変質させている。
元々、夏樹が自分の知らない女の子と話すだけで機嫌を損ねるくらい、『変化』というものを嫌う檸檬なのだ。
朝には布団を剥がれてベッドから引きずり落とされ、昼には人前であくびをするのはみっともないと注意され、夜には早く寝ないから朝起きられないのでしょうと小言を言われる毎日。
そんな、これまで当たり前に過ごしてきた『日常』が、夏樹の変化によって失われてしまうことが、檸檬はきっと怖かったのだ。
「……檸檬っ!!」
「………………っ!?」
夏樹は檸檬の肩を掴んで、驚きに見開かれた目を、真っ直ぐに見つめる。
気弱で泣き虫なのに、意地っ張りで強がりな幼馴染みに、心配ないよと、安心してと伝えるために、言葉に力を込める。
「僕は、あの二人の戦いを止めに行ってくる。けど、それはユーリエに連れられて行くんじゃなくて、僕が自分の意思で行くんだ」
「……夏樹……」
「だから、必ず帰ってくる!」
檸檬の瞳を揺らす悲しみを打ち消そうとするように、夏樹は檸檬の肩を揺する。
あるいはそれは、信じてほしいという気持ちを伝えたかったからかもしれない。
この言葉に、嘘は無いと。
檸檬を悲しませたくない気持ちは、本当なのだと。
「僕は、みんなを笑顔にするために行ってくる。だから、檸檬を笑顔にするために、必ず帰ってくる! 何があっても必ず帰ってきて、絶対に檸檬に、ただいまって言うから!」
だから、どうか、泣かないで。
言葉にならなかった夏樹の祈りが、檸檬に届いたかどうかは分からない。
涙のにじむ瞳で、檸檬は不思議なものを見るような眼差しを夏樹に向けて、すん、と鼻を鳴らす。
続く言葉には、仄かな希望の灯火が見えた気がしたので、きっと伝わったはずだった。
「……それは、約束?」
「うん、約束」
「……これからも、ずっと?」
「もちろん。いつまでも、ずっと」
笑顔で返した夏樹の言葉を、檸檬は拗ねたように小さく唸って受け取る。
つんと背けられた顔は、淡い朱色に染まっていた。
「……もう、知らない。行ってくれば?」
「うん。行ってきます!」
ありったけの感謝を笑顔に込めてから、ユーリエに視線を送る。
ユーリエは柔らかく微笑むと、再び鍵型の武器を構えた。




