第三十四話『緊張』
檸檬から一通り暴行を受けた夏樹は、一人だけ家に帰らされていた。
別に無断外出の罰則というわけではなく、単純に靴を履いていなかったから。
そしてもう一つ、そのついでに家にあるもので、何か簡単な食事を用意して持ってくるように頼まれたからだ。
「せっかくこっちの話を聞いてくれるようになったんだしさ、この機会に親睦を深めて、こっちに敵意がないことを伝えておこうよ」
ことの発端は、一通り殴り倒された夏樹が、そう提案したことだった。
夏樹の言葉を聞いた檸檬は心底嫌そうな顔をすると、夏樹の視界を片手で覆って、その手で頭蓋骨を締め上げ始めた。
「って痛だだだだだっ!? ちょっ……ちょっと待って檸檬! 何で僕、流れるような動作でアイアンクローをされてるの!? 別に僕、何もおかしなことは言ってないよね!?」
紅い瞳の女の子と和解できたとはいえ、それでも夏樹たちとユーリエほどに信頼関係が築けたわけでは決してない。
だからささやかな機会を逃さずに交流を積み重ねていかなければ、ささいなきっかけで紅い瞳の女の子の敵意が再燃しかねないと、夏樹は思ったのだが。
「……私とユーリエをはべらせておいて、まだハーレムの人員が足りないと夏樹は言うの……?」
「言ってない! そんなこと一言も言ってないよ!? 檸檬の中の僕のイメージって、どんなことになってるの!?」
体の痛み以上に、心の痛みで泣きそうになった。
セリフの内容を鑑みるに、確実に中学校の夏樹の友達から悪影響を受けていると思われるので、高校ではきちんと友達を選ぼうと、夏樹は傷ついた心に刻み込む。
「ていうか檸檬、幾らなんでも、そういう方向に安易に話を結びつけすぎじゃない……? 僕は単純に、後顧の憂いを断つつもりで」
「……ならその後、『野放しにしておくと、生きるために通りすがりの人たちを襲ったりしそうで危険だから、家に連れて行こう』とか言い出さないって、私の目を見て言える?」
「…………………………」
自分でも言いそうな気がしたので、夏樹は無言で目を逸らした。
夏樹のセリフを先回りして封じるとは、さすが生まれた時からの幼馴染みである。
「……夏樹はバカで単純だから、このくらいは誰にでも予想できる」
「発言の撤回と認識の改善を要求します! 誰にでも予想できるのは僕がバカで単純だからじゃなくて、それが万人にとって正しいことだからだと「可及的速やかに黙って」
命の危機を感じて、夏樹は迅速に居住まいを正した。
夏樹の異議を捻じ伏せた檸檬は、小さく嘆息して呟きをこぼす。
「……まあ、そうやって後先考えずに手を差し出せるのは、夏樹のいいところだけど……」
「だ、だよね? 別に僕は悪く「黙ってって言ってるの」
どうやら最早夏樹には、相槌を打つことさえ許されないらしい。
道路上に正座して傾聴する夏樹に、檸檬は諦めたような響きを含んだ言葉を投げかける。
「……親睦会を開くだけ。それに了承しないなら、夏樹の案は受けられない」
「………………(こくこく)」
「……夏樹、返事は?」
「………………黙ってろって言ったのにとか言って、殴らない?」
「……その認識に対しては、拳を振るわざるを得ない」
「やっぱりどうあっても殴るつもりだったんじゃんかぁーっ!!」
夏樹が頑として口を開かなくても、何で返事をしないんだとか言って殴られていただろう。
心なしか楽しそうに拳を構えた檸檬に対して、夏樹は悲鳴のような抗議の声を上げる。
異世界女子の怪訝そうな顔と呆れ気味の表情に見守られる中で、檸檬は両手を当てた腰を折ると、覗き込むように夏樹に顔を近づけた。
「……じゃあ、殴る代わりに一つ、お願いしてもいい?」
言葉は疑問系だが、選択の余地などあるはずもない。
こうして夏樹は親睦会の料理担当を仰せつかり、一人靴下で家路を急ぐことになったのだった。
◇
普段、台所を檸檬に占拠されることの多い六連星家では披露する機会が少ないが、夏樹は料理が出来る。
小さい頃から料理を作るのが好きで、よく母親から教わって食卓に一品添えたりしていたからだ。
今は家の台所を基本的に檸檬が管理しているので入れないが、それでもたまに夜凪家の台所を借りて、檸檬の母親から料理を教わったりしている。
……なぜ自分の家の台所を使わないんだとは夏樹自身何度か疑問に思ったが、自らが幼い頃に交わした約束が今のおかしな状況のきっかけであることを思うと、夏樹も檸檬に突っ込める立場ではない。
閑話休題、久しぶりに使う我が家の台所に夏樹はテンションを上げるが、檸檬やユーリエたちを待たせるのも悪いので、今回はあまり手間のかかるものは作れない。
おかずはポテトサラダや和え物、きんぴらなどの手軽に作れるものを中心に、朝の残りの白米で作ったチャーハンをメインに据える。
おかずの品数と量を多めに作って、四人で食卓を囲えるくらいのボリュームを確保した夏樹は、それらをタッパーなどに詰めて、手提げ袋にまとめた。
「……よしっ! こんだけ作れば、足りないってことはないよね!」
料理を詰めた容器を目一杯に押し込んだ、B4くらいのサイズの手提げ袋を見て夏樹は満足げに頷く。
こちらに召喚されて以降まともな食事をしていないであろう紅い瞳の女の子が沢山食べるのではと思っての判断だったのだが、冷蔵庫を空っぽにした罰で檸檬から折檻を受けるのは、また別の話である。
さておき、かなりの重さになった手提げ袋を持って夏樹は我が家を後にし、檸檬たちの待つ公園に足を運ぶ。
誰かから声をかけられたのは、あの三人は何をして時間を潰しているのだろうと想像しながら歩いて少しした辺りだった。
「エニ、ヘンミメレ!」
「……あっ、シスターさん! 昨日ぶりです」
わき道から聞こえた異世界言語に振り向いてみれば、黒衣に身を包む緑眼のシスターが目に入る。
シスターはぎこちない足取りで(恐らく、駆け寄っているのだろう)夏樹に近づくと、夏樹の全身に視線を走らせてから、ほんのりと頬を染めて、控えめに口を開いた。
「リンニヒテ、イツルユイレミニネツヘイムニヘムネ。ヘツリミ、ヘンミメレテメヘイヘムニメメムニネツフウネニレヒイリツヘイミレミヘ……」
「……何でだろう……何を言われてるのか分からないけど、何か不本意なことを言われてる気がする……」
直前のシスターの一連の行動から察して具体的に言えば、今日は服を着ているんだねといったようなことを。
よっぽどそれは違うと弁解しようかと思ったが、日本語の分からないシスターに何を言っても混乱させるだけなので、夏樹はその衝動をぐっと呑み込んだ。
恥ずかしげな上目遣いで夏樹を見ていたシスターが、ふと視線を下げて、夏樹の持っている手提げ袋に目を向ける。
顔を上げたシスターの声音は、夏樹に何かを尋ねるような口調だった。
「……エニ、ヘンミメレ。メミヘネレミイユウヘムネ、ユへミネミヒメニイヘニリフユイリヒイへミレミュウレ?」
「ああ、これですか? 実は、今からちょっとした親睦会を開くので、そのための料理です」
シスターが手のひらで指し示した手提げ袋を持ち上げて、夏樹はシスターの言葉に憶測で答える。
そんな夏樹の言動がどう見えたのか、シスターは顔を綻ばせると、手提げ袋に手を伸ばして取っ手を掴み、夏樹の手から持っていってしまった。
「ミメヘテ、イヒリメメヘイへヘリレム。リンニヒテヒヒメニイメツミュムニヘムレ?」
「……えーっと……? 公園まで持ってくれるってことなのかな……?」
指示を仰ぐように振り返るシスターの様子を見て、夏樹はシスターの言葉を間違って解釈していたのだと悟る。
やはり、少なくない時間を共に過ごした、ユーリエのようにはいかないらしい。
あるいは、今までは偶然齟齬が表面化しなかっただけで、ユーリエともこんな感じだったのかもしれない。
互いに互いを誤解していて、それは今も続いているのかもしれない。
背筋に走った冷たいものを、夏樹は首を振って払う。
大丈夫。
これまでも何とかなってきたのだから、きっと大丈夫。
自分にそう言い聞かせることで、夏樹は一歩、前に踏み出した。
◇
誤解とはいえ、自分から渡した荷物を奪い取る(『やっぱり僕が持ちます』と言っても伝わらないせいで、そういう印象を与えてしまう)のも憚られたので、夏樹は公園まで手ぶらで歩く羽目になった。
言葉が通じないのだから会話などあるはずもなく、女性に荷物を持たせて手ぶらで歩く気まずさに、夏樹はこれでもかというほど苛まれる。
とても長いように感じられた公園までの道のりに終わりが見えた時、夏樹は危うく安堵のため息をつきそうになった。
公園の中に入ると、ユーリエは紅い瞳の女の子と何やら口論していて、夏樹たちが来たことに気付いたのは檸檬だけだった。
「……夏樹」
「お待たせ、檸檬。それじゃさっそく――」
「……私が言ったのは、あの紅い子以外なら家に連れ込んでもいいって意味じゃなくて……」
「檸檬、お願いだからもっと僕を信じて! 女の子に無節操な奴のイメージを定着させようとしないで!」
さすがに冗談だとは思ったけれど、何か言わないと本当にそういう奴として扱われかねない気がして、夏樹は思わず声を荒げる。
さすがに冗談だったらしく、檸檬は夏樹の反応を見て嬉しそうに口元を緩めると、シスターから手提げ袋を受け取った。
ようやく夏樹の存在に気付いたユーリエと紅い瞳の女の子が、口論を中断して夏樹に視線を移す。
その隣に緑眼のシスターの姿を認めた二人は、実に対照的な表情をそれぞれ浮かべた。
「……ヘンミヘレネンヘレニフフイヘ、リュウレイニニンネンメレレヘイレリエムムネンヘネ。レツヘルリウ、リツヒニリヘレメイユネレイペレミヘユ」
嫌悪感をたっぷりと塗りたくった顔で紅い瞳の女の子はそう言って、驚きと喜びの入り交じっていたユーリエの表情を凍らせる。
それぞれの反応と、険しくなったシスターの表情は今の言葉が、敵対的な内容であったことを誤解の余地なく示している。
それらは夏樹に、檸檬から恨みと焦りの込もった視線を向けられるまでもなく、自らの判断を後悔させるには充分だった。
「エ……エニっ、ミュウヒウチュメレ! リニチヒニチメイニフイヘテ、リヒメニヘンミメレネヘネイユムミミヘイムヒイウレ……リウミヘレリニリルニヘヒレネレメヘイムユレヘムミ、ルヒテユムイヘムレメヒ、ミンリウミンテヘミレネニレネヒ……!」
大慌てで仲裁に入ったユーリエが夏樹たちの様子を窺っているのは、和やかな空気を壊された二人を慮ってか、鍵型の武器を用いた戦いに二人が巻き込まれないように気を回してか。
確かなことは、ユーリエが夏樹たちを気遣ってくれていて、続く紅い瞳の女の子の言葉がそれを台無しにしてしまったらしいということだった。
「ヘヒニユムイチュウヘンヘユ。ミンリウミン? ユへミネリイフメニミンネリニユイヘイヘリヒネンヘ、イヒヒヘツヘネイユ」
「イネネイヘムレメ、ムリミヘレミツレニミヘイヘルヘメイ! ユへミテミウイウレンレユ、なつきヒれもんニイムヒリミヘユメネイへルヘメイツヘイツヘイムニヘム!」
「……ヘミレニ」
とことん喧嘩腰な紅い瞳の女の子に対するユーリエの叱責に、威圧するようなシスターの声が続く。
凛と響くその声は、明らかに紅い瞳の女の子を打ち倒すべき敵として見据えている。
「ヘミレニヘンミメレニインレエヘ、イリュウヒニミヘイネンヘフチュウネリニユリミネムユレニテレイミレメンネ……ネンニヘレニイウレネイイヘミレムネ」
シスターの手に、鍵型の武器が握られる。
双眸と同じ、鮮やかな緑色の刀身を紅い瞳の女の子に向けて持ち上げたシスターは、最後通牒らしき言葉とともに切っ先を突きつけた。
「……エユレツヘミンリウユエメヘレヘ、ヘヘミリレリニイミエニミヘネウイフリミテ?」
「あの……ふ、二人とも? どうしたの急に……?」
尋ねるような言葉になってしまったのは、『まさかそんなことをしないよね?』という、祈るような気持ちがあったからだろう。
ユーリエもそうだったが、シスターにもどこか、夏樹たちを目上の人間として扱っている節がある。
シスターが怒っているのは、だから恐らくは紅い瞳の女の子の態度に理由があるのだろうが、そんなことで争わなくてもいいはずだ。
少し前までならいざ知らず、今では紅い瞳の女の子の態度も軟化していて、夏樹の推測が正しければ、和解だって成立しているはずである。
争う理由は、もうどこにもない。
少なくとも、夏樹はそう思っていた。
「ヌリンネ。リヘエムレヘリネイユ」
毅然と言い放って、紅い瞳の女の子は鍵型の武器を召喚する。
ささやかな機会を逃さずに交流を積み重ねていかなければ、ささいなきっかけで紅い瞳の女の子の敵意が再燃しかねない。
そんな懸念を払拭するための夏樹の選択は、皮肉にも懸念を現実のものに変える結果となってしまった。




