第三十三話『和解』
掲げられた真紅の刀身に、黒い雷が走った。
紅い瞳の女の子が振り下ろした鍵型の武器の軌跡に、切り裂かれた空間の傷のように残ったそれを見て、夏樹がその意味を思い出すのと同時に、傷は爆発的に膨張して夏樹たちを包み込む。
その直後に黒い傷は急速に収縮して、辺りの景色を、夏樹が見慣れた故郷のそれに塗り替える。
異空間と現実世界を切り替える『扉』を開いた鍵型の武器は、周囲の風景が変わりきるとともに光の塊のような姿になって、持ち主の手の中でガラスの砕けたような音を立てて砕け散る。
どうやら、夏樹たちと事を構えるつもりはないらしい。
ユーリエの落ち着き払った様子の理由に納得する夏樹に、紅い瞳の女の子が何かを放って寄越す。
夏樹は虚を突かれて驚きながら、胸で受け止めたそれを両腕でかき抱く。
ばくばくと騒ぐ心臓を落ち着けるようにゆっくりと確認してみれば、それは夏樹が服とともに異世界の中に忘れていた、携帯電話や財布だった。
「……ネニニフレウニレリ、ネニネヘリムニレリユレメネイレメ、ミメテテンリュルミヘエネムユ。イツルユムヘヘニテミツヒネンヘミ、イヒヘイヘヒリミユチミツヘニテユヘミネンヘレメ、リメレヘミウムムヒウミテネイヘヒュウ?」
「ミ……ミメテエルレヘリ、ユヘミヘヒニンネンニミルフヘム! ヘンミメレニリヒリニユレムレヒムユウネリヒユムメペ、ミンペフネルヘミレムユ!」
身に纏った夏樹の服を摘みながら、首を傾げて何かを言う紅い瞳の女の子に、ユーリエが食い下がるように抗議する。
恐らく、財布や携帯電話は返すけど、服は私が貰うと言っている女の子に対して、駄目です服も返してとユーリエは言っているのだろう。
ユーリエが若干弱腰なのは、言い分としては紅い瞳の女の子のほうが正しいと思っているからかもしれない。
「……あ、そっか。そういえば落し物って、拾ってくれた人にその一割を、謝礼で払うものなんだったっけ」
紅い瞳の女の子が拾ってくれた分の一割が、正確に服の上下一式分なのかは分からないけれど、そのくらいは確かに、お礼として渡して然るべきかもしれない。
何より、紅い瞳の女の子の着ていた服も相当汚れていたので、女の子が女の子でなかったとしても耐え難かったことだろう。
そんな風に考えると、ユーリエに紅い瞳の女の子へのいちゃもんをつけさせてしまった直前の自らの振る舞いが、恥ずかしくさえあった。
「ごめんね、ユーリエ。色々言わせちゃった後で申し訳ないんだけど、あの服はあの子にあげることにするよ。……どの道、肌の上に直接着てるっぽいあの服を返してもらっても、どんな顔して着ればいいのかわからないし……」
「なつき……!」
ユーリエの肩を軽く叩いた夏樹が浮かべた曖昧な笑みから、ユーリエは夏樹が何を言いたいのか察したらしい。
夏樹の判断に抗議するような声音で夏樹の名を呼び、紅い瞳の女の子がそれを見て満足そうに頷いている。
「チメ、ニミュチンレメリミウイツヘイムニヘレメ、リメテユヘミニリニツヘリヒヘインイヘミュウ? エネヘヘツヘミイフメニツミニネイツルユリヘイムニニ、ユヘミヘレネリメツヘメイレネイネンヘ、エレミニリツリウテイチュネイレミメ」
「ユヘミテメイリュウヒヘムミ、リニイツルテなつきニイルメレレメユツツヘイヘヘイヘリニヘ、エネヘニユウニヌムルリヘイネリヒユミヘヘニイメヘリニヘテエミレメン!」
得意げな顔で何かを言う紅い瞳の女の子に、ユーリエは恐らく、それは違うと訴える。
昨夜の一件で、互いに歩み寄りを見せたような気がしていたが、二人の間の溝が埋まっただけで、距離が縮んだわけではらしい。
後者への落胆か前者への安堵か、あるいはその両方かがはっきりしな苦笑を浮かべる夏樹の隣で、肩を落としたユーリエは未だに納得できないらしく、まだ何かを小さく呟いている。
謝罪や弁解の言葉を向けようにも、ユーリエが何をそんなに嫌がっているのか、夏樹には今いち分からないので、言葉の選びようがない。
ひょっとしたら紅い瞳の女の子は、ユーリエにとって不倶戴天の天敵なのかもしれないなと考えることでひとまず納得し、夏樹は念のため財布の中身を確認する。
……小銭が何枚か抜き取られていたが(無事だったのは五十円硬貨、五円硬貨と、一円硬貨が何枚かだった)、お札は一枚も手をつけられていなかった。
お札をお金だと思えなかったのか、お札にまで手をつけたらまたぞろ諍いになると思って残したのかは分からないけれど、餞別だと思えば確かに、許容できない範囲じゃない。
財布を落としてこの程度の被害で済むならむしろ僥倖だが、小銭を抜き取った犯人が目の前にいるのに何もしないのは、今後のためにならない。
牽制代わりにジト目を向けておくが、したたかな紅い瞳の女の子は、つい、と視線を逸らして、ちろりと舌を見せるばかりで、あまり気に留めた様子はなかった。
これからは落し物に気をつけようと決意を固める夏樹の隣では、紅い瞳の女の子の様子に気付いたユーリエが再び噛み付き、紅い瞳の女の子はうるさそうに顔をしかめている。
最初の出会いからは想像もできなかったような平和な光景に、夏樹はふっと頬を緩めて、やれやれとため息をついた。
「……夏樹、何をしてるの」
「ほぎゃぁぁあああああっ!?」
首筋に吐息の掛かるくらいの真後ろから響いた低く抑えられた声に、夏樹は悲鳴を上げて飛び上がる。
その弾みで転んでしまい、何事かと身を竦める二人の異世界女子の視線を集めてしまうが、そんなことを気にする余裕は、夏樹からは既に失われている。
転倒した勢いのままに、転がるようにその場からの逃走を図ろうとした夏樹は、声の主に首元を掴まれて引きずり戻されてしまう。
「人違いです!! 僕は六連星夏樹さんとやらではありません!!」
「……私、苗字までは言ってないけど」
身を守るために口をついて出た夏樹の戯言に、檸檬が律儀にも淡々と突っ込む。
その顔に表情は無いが、渦巻く怒気は吹雪のように鋭利な痛みを伴って夏樹の肌を撫でている。
「……こうして家の外に出た以上、手足を手錠で拘束してから鎖で簀巻きにして、目隠しと猿ぐつわを着けた上で首輪に繋がれても、文句は言えないよね……?」
「オーケー、ちょっと待とう一旦落ち着こう! 僕がそんな格好をしたら、檸檬はそんな格好の人の幼馴染みになっちゃうんだよ!?」
どこからか取り出した手錠を構えて有言を実行に移そうとする檸檬に、夏樹は必死の思いで命乞いをする。
さすがにそんな変態じみた外見の幼馴染みと並び立つのは嫌だったのか、檸檬は思いのほかあっさりと前言を撤回する。
「……なら、代わりに私の服を着るだけでもいいけど」
「いやいやいや、全然良くないでしょ!? 幼馴染みの私服で女装するやつの幼馴染みって立ち位置も、大概危険だと思うよ!?」
どうやら、夏樹を許すつもりは全く無いらしい。
提案の内容が今朝と寸分違わず同じな辺りに、夏樹への処罰に対する檸檬の強固な意志が見て取れる。
「……大丈夫。私も一緒に、夏樹の服を着るから」
「やばい……何がやばいって、檸檬が自分のダメージ度外視で僕を社会的に殺しに来てるのがめちゃくちゃやばい……!!」
首根っこを押さえる幼馴染みの捨て身の覚悟を目の当たりにして夏樹は戦慄し、何とか逃げ出さなければと頭をフル回転させる。
そのすぐ近くでは、夏樹と檸檬の会話内容が分からない異世界女子の二人が、のんびりとした調子で故郷の言葉を交えている。
「……ネンヘレ、エネヘニニミュチンメレネチニイレニエツヘイムリヘイヘレヒ……ヘムレネルヘレレユネイニ?」
「レレイレメン、れもんテなつきニイルメレヘムレメ。エンネニイルメレニニミンペイユイレレミヘイムニニ、レツヘルテンメイミヘルヘメメネイなつきネユムイニヘム」
「……ミウ。イルメレ……ネ」
視界の端で、ユーリエの言葉を聞いた紅い瞳の女の子が、何やら嗜虐的な笑顔を浮かべている。
その表情に不吉なものを感じるのと同時に、紅い瞳の女の子が夏樹に歩み寄り、すぐ隣にしゃがみ込んだ。
視線の高さを夏樹の位置まで下げた女の子の紅い瞳が、挑戦的に夏樹の目を覗き込む。
紅い瞳の女の子の意図が読めないのは夏樹だけではないらしく、檸檬とユーリエの表情にも緊張が走る。
痛みを伴うような静寂に包まれた数瞬の中で、紅い瞳の女の子は高圧的な微笑みを浮かべると、ぐっと夏樹に顔を近づけた。
「………………へっ?」
頬に訪れた柔らかい感触の意味が理解できず、夏樹の口から間抜けな声がこぼれる。
紅い瞳の女の子は顔を離して立ち上がると、にんまりといたずらっぽい笑顔を浮かべて夏樹に異世界の言葉を掛けた。
「……イツルヒヘペリニニイメイテ、リメチュヘミネイレミメ?」
「なっ……何でこんな……!? 君は……僕に一体何の恨みが……!!」
体感に留まらず、実際に気温を下げているのではないかと思えるほどの檸檬の怒りを肌で感じながら、夏樹は何とかそれだけ言う。
表情と声音から察するに、紅い瞳の女の子はどうやら、檸檬を怒らせて夏樹を怯えさせるために、あんなことをしたらしい。
「………………別に、いいんじゃない? ほっぺたにくらい、私もしたことあるし」
「別にいいと思うなら、僕の頭を締め上げてる手を放してくれないかな!?」
その目論み通り、頭蓋よ割れろと言わんばかりの握力で頭を握り締められて痛みに苛まれる夏樹は、涙目で檸檬に訴える。
二人の接点はほとんどないはずなのに、夏樹との短いやり取りを見ただけで何をすれば檸檬を煽れるかを看破したのだとするなら、紅い瞳の女の子の観察眼はかなりのもののようだ。
「……ところで檸檬。さっき、ほっぺたにくらいしたことあるって言ってたけど、それホント?」
「…………………………」
「ちょっ……どうして無言で僕の頭を締め上げる力を強めるの!? まさかホントにそんな……だから手を放してってばぁーっ!!」
いつも一緒にいた幼馴染みに、いつの間にそういう相手が出来ていたんだという戸惑いと、悔しさにも似たくすんだ感情は本人の手によって、文字通り握り潰される。
檸檬の知られざる一面を引きずり出した紅い瞳の女の子はその様を見てからからと笑い、ユーリエはわたわたと仲裁に入る。
基本的にユーリエは檸檬の味方だと思っていたのだが、そのユーリエから見ても今回の夏樹には非が無いということだろうか。
「イヒフイヘルヘメイれもん、リニチヒヒなつきニエイヘニテ、ネニリエミレメン! エネヘリ、ヒウミヘれもんニニレイユエヘエムユウネリヒユムムニヘムレ!」
檸檬の処刑を中断してくれたユーリエが、檸檬をなだめるための言葉(推定)に続けて、責めるような声を紅い瞳の女の子に向ける。
それを受けた紅い瞳の女の子はさほど気にした様子もなく、べっと舌を出しただけだ。
「ユヘミテエネヘヘヒニレミメレニレイニヘ、ムンヘイヘルメユユレメヘニユ? ツルミュウヒイリエペ、レユインイリニチュネイ」
「ヘレメミメテ、エネヘヘヒニミンリウネレヒネツヘイヘレメヘ……!」
再び言い争い始めた二人を見ながら立ち上がって、夏樹はやれやれとため息をつく。
少し前なら、言葉の代わりに鍵型の武器を交えていたことを思えば、二人が和解したという夏樹の解釈も間違ってはいないのだろう。
同じようなことを考えていたのか、隣でユーリエたちに視線を向けたまま、檸檬がぽつりと呟いた。
「……今回だけは、約束を破ったことを大目に見てあげる」
「ん、ありがと」
約束というのは、今朝の外出禁止のことだろう。
あの時檸檬は『紅い瞳の女の子と和解できたという保障はどこにもない』といったようなことを言っていたので、今のセリフにはきっと、そのことに対する謝罪も含まれていたのだと夏樹は思う。
口喧嘩では紅い瞳の女の子に軍配が上がったらしく、ユーリエが悔しそうに唸りながら、夏樹たちのほうにちらちらと、助けを求めるような視線を送っている。
口論と互いの主張の内容が分からない夏樹は曖昧に笑うしか出来ず、檸檬も微笑みながらユーリエの頭を撫でて、お茶を濁している。
夏樹たちからフォローが入らないことに落胆したのか、がっくりと肩を落とすユーリエに対して、紅い瞳の女の子が勝ち誇ったように胸を張る。
言葉の壁は、きっと越えられる。
夏樹やユーリエに対して、謎の敵対心を抱いていた紅い瞳の女の子と過ごす穏やかな時間の中に夏樹は、そんな未来への希望を見た気がした。
「……それはそれとして、白昼堂々公道でふしだらな行いをしていた分は、六連星家の留守を預かる者として、厳しく追及させてもらうから」
「追及する段階をすっ飛ばして、すでに処刑の構えに入ってるように見えるんだけど!?」
あれは誤解で不可抗力だとか、そもそも言うほどふしだらではないのではとか、檸檬にもそういう相手と経験があるなら、大目に見てくれてもとか。
夏樹の訴えは悉く打撲音に掻き消されて、檸檬には届かなかった。




