第三十一話『逸出(いっしゅつ)』
例えば、『押すな危険』という張り紙のされている正体不明のスイッチを見たら、押してみたくなるのが人情だろう。
赤信号は無視して渡りたくなるし、学校は理由もなく休みたくなったりする。
マンガやライトノベルに、主人公の同性や肉親をメインヒロインに据えた作品が途絶えることが無いのも、その類型ではないだろうか。
誤解を恐れず、言葉を選ばない言い方で乱暴に一括りにすれば、布かれた規則を犯す『罪』や、社会の普遍性と噛み合えない『異端』などの『悪』に、人の心は魅せられやすい。
それはある意味、夏樹が異世界に召喚されることを夢想していたことと通じるものがあるように、夏樹は思う。
人は皆、自らを縛りつける『常識』の檻から、解き放たれたいと思っているのではないかと、そう思う。
……さて。
なぜ唐突に、こんな中学二年生みたいな、しょうもないことを夏樹がつらつらと考えているのかといえば、それはその日の朝、朝食の席で、檸檬から告げられた一言がきっかけだった。
「……夏樹、今日から外出は禁止だから」
「何でさぁーーーーっ!?」
頭を抱えて叫ぶ姿は、どちらかといえば、『熱はあるけれど元気も有り余っていて、ただ寝ていることに飽きて駄々をこねる子供』と表現したほうが、近かったかもしれなかった。
◇
最初の頃と比べれば言葉を覚えてきたユーリエだが、まだ知っている単語は限られている。
そのため、夏樹と檸檬の会話には参加できず、白米をスプーンで掬って口に運んでいたが、その顔に心配や不安の色はない。
むしろ呆れているようなそれなのは、二人のやり取りが、それらの感情を抱くような類いのものではないことが分かっているからだろう。
檸檬の禁止令に異議を申し立てる夏樹にジト目を向けてさえいるので、『また夏樹が何かしょーもないことを言ってるんだな』と思っている可能性すらある。
「いやいやいや、わけがわからないよ! 何で僕、朝起きたらいきなり謹慎処分にされてるの!?」
「……聞きたいなら、聞かせてあげる」
夏樹の抗議に対して、明らかに怒りを抑えている獰猛な声で、呻るように檸檬が言う。
驚くべき早さで現在の環境に適応したユーリエに、助けを求める視線を黙殺された夏樹は、恐々としながら胸中で心当たりを挙げていく。
怒りを通り越して、怨嗟の念すら込められていそうな声音で檸檬が語った内容は、それとほとんど同じだった。
「……昨日も一昨日も、夏樹は外に出るたびに裸になってる。異空間なんて危ないところに何度も入って私を心配させるし、いつの間にか私の知らない女を作ってるし……!」
「待って! 最後の一際聞こえの悪い容疑は何!? シスターさんのことを言ってるなら、あの人はそういうんじゃないからね!?」
確かに自分が心配している相手が異性と談笑していたら『お前ふざけんなよぶっ殺すぞこの野郎』と言いたくなる気持ちも分かるが、それにしたって安易にそういう方面に話を結びつけ過ぎではないだろうか。
昔からそういう所での早とちりが多かったので夏樹は今さら気にしないけれど、これから大人になった時に他のコミュニティでもこの調子では、無用のトラブルを招く気がする。
幼馴染みの将来に一抹の不安を覚えながらも(現に、中学校では朝日を含めて、二人しか友達がいなかった)、夏樹は何とか外出禁止令を解こうと試みる。
別に特に外出しなければならないような用事はないのだが、駄目と言われると出かけたくなってくるのだ。
「でも檸檬、異空間なんて例の黒いやつを開かなければ行くことなんてないよ? ユーリエはもうその辺りをコントロールできるし、あの紅い子とも昨日和解できたっぽいから、もう何も怖くないと思うんだけど……」
最後の部分で自信無さげになってしまったのは、胡散臭いものでも見るような檸檬の視線に耐え切れなくなったからだ。
ユーリエは自分の名前が出たときにちらりと夏樹を見たが、夏樹が自分に話しかけているわけではないことが分かると、またむくれたような顔で朝食に戻ってしまった。
どうやらユーリエも心境的に檸檬の味方のようで、夏樹を助けてくれるつもりはないらしい。
「……そこまで言うなら、条件付きで出かけてもいいけど……」
「えっ……ホントに?」
想像以上にあっけなく(むしろ、さして期待していなかった)檸檬からの譲歩に、夏樹は思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
普段の檸檬なら、夏樹がごねれば簀巻きにして部屋に放り込み、扉に鍵をかけるくらいはしていたはずなのに、どんな心境の変化があったのだろうか。
ともあれ、余計なことを言って檸檬の機嫌を損ねれば、せっかくの奇跡みたいな譲歩を取り消されてしまうかもしれない。
檸檬の気が変わらないうちに、夏樹は檸檬の言う『条件』が何なのかを聞いておくことにした。
「……夏樹の手足を手錠で拘束してから鎖で簀巻きにして、目隠しと猿ぐつわを着けた上で首輪に繋がれた状態でもいいなら……」
「ちょっと待って! それ明らかに外に出られる格好じゃないよね!?」
どうやら、譲歩する気は全く無いらしい。
夏樹が落胆とともに胸中で前言を撤回していると、畳み掛けるように檸檬が、自分の着ている服を摘みながら別の提案をしてくる。
「……それが嫌なら、代わりに私の服を着るだけでもいいけど」
「犯罪度が減ったのはありがたいけど、それ危険度は何も変わってないよね!?」
せめて中学の頃の制服であれば『卒業して浮かれていた弾みで』などと言い訳できるのに、私服の女装では受験に疲れて目覚めてしまった人にしか見えない辺りが、特に。
「……大丈夫。私が代わりに、夏樹の服を着るから」
「僕、檸檬の『大丈夫』はもう、金輪際信用しないからね!!」
どう考えても、ダメージ量が釣り合っていない。
異性の服を着た時の外見的な違和感の差に不公平なものを感じる夏樹に、檸檬は珍しく、拗ねているような表情を浮かべて反論してきた。
「……夏樹の『大丈夫』のほうが、信用できない。あの紅い子が何を言ってるのか分からないのに、どうして和解できたって言えるの」
「それは……」
反射的に言い返そうとして、言葉に詰まる。
紅い瞳の女の子がユーリエと仲良くなったように見えたのも、紅い瞳の女の子の言葉や視線から険が消えたように感じたのも、全て夏樹の主観でしかない。
だからそれを疑われてしまったら、夏樹の主張は拠り所を失ってしまう。
そんなの気のせいだろうと言われてしまったら、そんなことはないと言い返せるだけの根拠が、どこにもないのだ。
「……一応、私もあの紅い子を見かけたら確認してみる。私は夏樹ほど印象にないだろうから、下手につつかなければ危険もないと思うから」
それでも何とか何か言おうと言葉を探す夏樹に、檸檬がフォローするようなことを言う。
顔を上げて目を合わせても『代わりに女装しろ』などと言わないので、今度は本当に譲歩してくれたらしい。
「……だから、ほとぼりが冷めるまでは、家にいて。私はおばさんたちからこの家の留守を預かってるんだから、夏樹に危ないことをさせるわけにはいかないの」
……なぜ息子の夏樹ではなく、その幼馴染みの檸檬が六連星家の留守を預かっているのかを拗ね気味に問いたい衝動に駆られるが、そういう雰囲気でもなかったので、ぐっと堪える。
檸檬も檸檬で、そんな台詞に『早く食べないと、朝ご飯が冷める』と付け加えて、議論は終わりだというように、味噌汁の入った器を口元に運ぶ。
承服しがたい思いは未だ胸中に燻っているが、夏樹は檸檬に心配をかけた立場なので、これ以上強く出ることもできない。
夏樹は焼き魚に箸を伸ばすと、その身をほぐして、白米と一緒に呑み込んだ。
◇
会話に参加していなかった分早く食べ終わったユーリエが、食器洗いの任を買って出る。
檸檬は焼き魚を乗せていた皿だけは洗剤を使うように説明してから、夏樹に外出する旨を伝えてきた。
「……昨日、夏樹が勝手に持ってきた朝日の携帯を、返してくる」
ついでにお店で、携帯電話のカタログを貰って来るから、帰ってきたらどれがいいか選んでと言い残して、檸檬は玄関の扉を閉める。
その時に夏樹は遅まきながら、服と一緒に携帯電話や財布まで異空間に忘れてきたことを思い知った。
「うわぁー……携帯はともかくとしても、財布はキツいなぁ……。今月はもう何もできないよ……」
紅い瞳の女の子への奢りが、こんなに高くつくとは思っていなかった。
リビングのソファーでうなだれていると、洗い物を終えたユーリエが、どこか咎めるような響きを含んだ声をかけてきた。
「ミンネニイヒリレメムルメイネメ、メイミュレメエンネルヒュユネメメネイヘルヘメイ。ユヘミヘツヘヒヘリミンペイミヘニヘムレメ、れもんネイイレミニネムニリヒウテンヘム」
「あー、えっと……檸檬の名前が出てきたってことはさっきの朝食の時の話……だよね? なら、心配させちゃってごめんね……かな?」
たぶん、今朝檸檬に怒られたことで夏樹が凹んでいるものと勘違いして、苦言を呈しているのだろうと予想した夏樹は、ユーリエに謝罪する。
その語調が曖昧なのは、決して僕は悪くないと開き直っているわけではなく、単純に、自分の解釈が合っているかどうかに、自信が持てなかったからだ。
先ほどの檸檬の言い分ではないが、夏樹の解釈の根拠は、これまでのやり取りとユーリエの声音である。
それらから『ユーリエは檸檬に同情的らしい』ということと、『ユーリエは夏樹を、控えめに責めているらしい』ということから推測して、ユーリエはこういうことを言っているのではないかと解釈した。
けれど、それは所詮推測の上に成り立っている解釈であり、正しさの確証はどこにも無い。
ユーリエの言っていることが、実は全く別のことだとしても、確認のしようがないのだ。
「こっちからだって『財布を無くして凹んでました』って伝える方法は無いもんね……」
天井を仰ぎ、ソファーの背もたれに体を預けて、夏樹はため息とともにこぼす。
そんな夏樹の様子に怪訝そうに首を傾げながらも、ユーリエは夏樹の隣に腰を下ろす。
そして、檸檬から借りた携帯電話を口元を隠すようにして持ち上げ、窺うような上目遣いを夏樹に向けながら、躊躇いがちに口を開いた。
「エニ……ヒリミヘヘムネ、なつきニイネネイネエムニヘムレヒ……」
「ん……ほぇ? どうしたの、ユーリエ?」
何かを言いたそうな、それでいて言いにくそうなユーリエの様子に、夏樹は首を真横に折って疑問符を浮かべる。
そんな夏樹の仕草はどう映ったのか分からないが、ユーリエは少しの間逡巡した後、やっぱり言いにくそうにしながら、おずおずと携帯電話を差し出してきた。
「ヒウムメペ、メルユれもんヒなつきネユツヘイヘユウニ、リニテリニネレニテイメレムレ……?」
「んーと……? あぁ、携帯電話の使い方を教えてってこと?」
何でそんなことを言いにくそうに言うんだと、夏樹は思わず苦笑する。
ユーリエが何をそんなに遠慮しているのかは分からないが(もしかしたら、直前に夏樹ではなく檸檬の味方をした手前、頼みにくかったのかもしれない)、それくらいはどうということもない。
元より、檸檬に外出を禁止されて暇を持て余している身なので、夏樹は喜んで引き受ける。
ユーリエから携帯電話を受け取ると、設定をスピーカーに切り替えて、朝日の携帯番号を入力した。
「ほら、ここに数字が並んでるでしょ? これを順番に押してから、このボタンを押すと……」
『……もしもし、夏樹?』
「ひゃっ!? れ、れもん……!?」
携帯電話から響いた檸檬の声に、ユーリエが飛び上がる。
最初の頃は、何かを見るたびにこんな調子だったなと、夏樹は懐かしさに顔を綻ばせる。
久方ぶりに未知への恐れと好奇心に彩られた表情でユーリエの眺める携帯電話から、呆れたような檸檬の声が聞こえてきた。
『……夏樹。相手の知らないことを利用して、驚かせて面白がるのは悪趣味だと思う』
「むっ……! そんなんじゃないよ! そりゃ、ユーリエがびっくりしてくれるかなーとはちょっと思ったけど、僕はユーリエに、携帯電話の使い方を教えるつもりで……」
『……テレビの中の殺人現場に乱入しようとしていたあの子にはきっと、私が携帯電話の中から話しかけているように見えてる。そうじゃないって、夏樹はどうやって説明するの?』
「うぇ……っ!? っとぉー……」
全く考えていなかったとは言えるはずもなく、夏樹は答えに窮する。
言われてみれば、昨晩朝日の携帯に檸檬が電話をかけた時、ユーリエは朝日の携帯電話を破壊しようとしていた。
ユーリエが初めて刑事ドラマを見た時の反応と合わせて思い返してみれば、あれはきっと、携帯電話の中に檸檬が閉じ込められているのだと誤解して、助けようとしていたのだろう。
今現在携帯電話を眺めているユーリエの様子も、そう考えてみると、閉ざされた家の中を窺おうとしているように見えてくる。
『……それと、今さらな気もするけど、あんまり立て続けに色々教えないほうがいいと思う。いきなり今の環境に慣れさせようとしたら、狼に育てられた女の子の話みたいに、ストレスで死んじゃうかもしれないから』
さらっと物騒なセリフを残して、檸檬は電話を切ってしまった。
『狼に育てられた女の子の話』というのは、幼い頃に狼に育てられた女の子が人間に保護された時、二足歩行や食器を用いた食事に馴染むことができず、そのストレスで早死にしてしまったという逸話のことだろう。
ユーリエにとっては、学ぶことすら死因になりかねないという指摘に夏樹は顔をしかめる。
とはいえ、その逸話は創作的な部分が多いようなので、ユーリエにそのまま当てはめることはできないのではないかという思いも、夏樹の心に浮かび上がる。
いずれにしろ、携帯電話が檸檬から借りた一台しかないのでは、檸檬の言う通り、通話機能の説明はできない。
こんなことなら、携帯電話を持って歩かなければ良かったと、夏樹は再び凹む。
携帯電話を忘れてきた異空間のことや、ユーリエのこと、そして檸檬からの謹慎処分。
後悔の本末転倒さに気付く前にそれらのことが夏樹の中で繋がって、一つの結論にたどり着いた。
「そうだ、異空間に行こう」
檸檬はああ言っていたものの、知りたいと思ったことを知ることができないことだって、ユーリエにはストレスだろう。
せめて携帯電話がどういうものかだけでも説明したいし、財布だって取り戻せるものなら取り戻したい。
そのためには異空間に行かなければならないけれど、家の中から異空間へ移動する分には『外出』の定義には当てはまらない気がする。
「よしっ! そうと決まれば、さっそく……。ユーリエ、ちょっといい?」
「………………? イユピヘムレ、なつき?」
夏樹の呼びかけに、携帯電話を観察していたユーリエがきょとんとしながら応える。
あいにく家の鍵は財布の中なので、夏樹は身振り手振りのみで、どうにか『鍵型の武器に変身してほしい』と訴える。
それがどうにか伝わったらしいということは、ユーリエが物凄く嫌そうに顔を歪めたことで理解できた。
「リウイヒヒレンニテンミンムムユウニイツミュツヘイムニネメ、ヘメヘム。エンネニれもんレメイリメメヘペレミネニヘムレメ、ムリミヘレネレンミヘルヘメイ」
「大丈夫、無茶なことはしないから! 紅い子を見かけたら即座に逃げるし、いいでしょ!?」
完全に母親におもちゃをねだる子供の図だが、夏樹はそれでも食い下がる。
普段の扱いが扱いだけに、ささやかでも反抗の機会があるなら、見過ごしてしまうのはもったいない。
必死になって頭を下げる夏樹を前に、ユーリエは困ったような(というか、事実として困っているのだろう)顔をして、助けを求めるように視線を泳がせるが、檸檬の出かけた家の中に、他の誰かがいるはずもない。
ユーリエは結局、絞り出したような声で、唸るように言った。
「……ユレミレミヘレメ、チヒレツエヘレユエネヘルヘメイ……」
「引き受けてくれるんだね!? ありがとう、ユーリエ!」
諦めたような声音の言葉を聞いて、夏樹は弾かれたように顔を上げる。
眉を八の字に下げたユーリエは呆れたように微笑んで、目を閉じた。
瞬間、ユーリエの体は眩い光に包まれて、鍵型の武器へと姿を変える。
変身したユーリエを夏樹が手に取ると、たしなめるようなユーリエの声が脳裏に響く。
『リウ……。エヒヘれもんニイリメメヘリ、ミメネイヘムレメネ?』
「大丈夫だって! そうなる前に、戻ってくればいいんだから!」
きっと、檸檬にバレても助けてあげないからね、と言ったのだろう。
そう思いながら相槌を打った夏樹は、異空間への扉を開くために、鍵型の武器に意識を集中した。




