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そわか  作者: 空雲雛太
31/54

第三十話『逃走』

 力強く地面を蹴って押し出した体を、反対側の足が膝を曲げて受け止める。

 受け止められた自重(じじゅう)は足元に流れて爆発し、再び体を前へと押し進める。

 振り上げた足が地面を踏みしめるたびにこぼれる、荒い呼吸音が際立たせる闇夜の静寂の中に、唐突に無機質な電子音が鳴り響いた。

 足を止めて確認したディスプレイに映っていた文字は『夜凪檸檬』。

 じわり、と胸の内に染み付いた恐怖が広がるが、この電話からもたらされる怪異の位置情報は、生き延びるための貴重な手がかりだ。

 夏樹は震える自らの心を叱責すると、勇気を振り絞って通話ボタンを押した。


『……今、朝日たちと同じ場所にいる』


 現代の怪異と化した檸檬は夏樹の言葉を待たずにそう言うと、夏樹の返事も待たずに通話を切る。

 ついさっきまで自分のいた場所にいるという報告は背筋の冷えるものがあったが、あれからずっと走り通しだった夏樹は今、あの場所からだいぶ離れたところにいるはずだ。

 少なくとも、次の瞬間に檸檬が背後に現れるような距離ではない。

 それでも、だからといって安心するにはまだ早い。

 夏樹は深呼吸をして息を整えると、再び地面を蹴って駆け出した。


「ひゃっ!?」


「うわっと!?」


 曲がり角から顔を出した誰かにぶつかりそうになって、夏樹は大きく横に跳ぶ。

 すわ、早くも檸檬に追いつかれたかと夏樹は肝を冷やすが、(あお)いだ相手の顔は、檸檬とは何の関わりもない人のものだった。

 優しげな緑色の瞳に、慎ましやかな黒い修道服。

 顔立ちや落ち着いた雰囲気から想像される年のころは、夏樹よりも二、三歳年上といったところだろうか。

 異空間で、半ば見捨てるような形で別れてしまった相手との再会を嬉しく思いつつも、夏樹の声は怪訝そうなそれになってしまっていた。


「あれ、シスターさん? 何でこんな時間に、こんなところに?」


「………………」


 尋ねても答えが返ってくるわけもないのだが、草木も眠る丑三つ時に、住処を持たないはずの異世界の人が住宅街を歩いているのが、不思議だったので、思わず聞いてしまう。

 案の定、シスターは目を泳がせながら視線を逸らして、小さな声でごにょごにょと、異世界の言葉であることを差し引いても内容の判別できない何か(夏樹に対しての言葉にしては声が小さすぎるので、たぶん独り言だろう)を呟いている。

 ひょっとしたら、この辺りの誰かが、夏樹たちがユーリエにそうしたように、シスターに住む場所を提供しているのかもしれない。

 そんなことを考えてほっこりした気持ちになる夏樹の前で、シスターは未だに目を泳がせていた。

 ばしゃばしゃと音が聞こえてきそうな気さえする。

 注意深く見てみると、暗闇の中でも分かるくらい顔が赤いのが分かる。

 一体どうしたのだろうと夏樹が思っていると、ようやくシスターは夏樹のほうに視線を向けて(それでも絶対に目は合わせてくれない)、かろうじて聞き取れるくらいの声で何かを聞いてきた。


「エニ……ヘンミメレ? ネテリュウテ、イレミリニユリヒツヘイメメネイニヘムレ……?」


「あの……どうかしましたか?」


 明らかに夏樹のほうに関心を向けているのは間違いないのに、なぜかやたらと視線を周囲に散らせたがるシスターの挙動の意味が分からず、夏樹は感じた疑問を投げかける。

 言葉が通じなくても、声を発すれば、そこに含まれる響きから相手の感情くらいは読み取れる。

 しかし、だからこそ些細な発音の違いが、相手に誤解や不安を与えかねない。

 度重なるユーリエとのやり取りで得た経験から、夏樹は自身の声音に疑問以外の響きが混入しないよう細心の注意を払ったつもりだったが、どうやら失敗してしまったらしい。

 夏樹が声を発した直後、物凄い勢いで夏樹に向き直ったシスターは、ばたばたと両手を振って、心なしか早口に何かをまくし立てた。


「エヒ、リニっ! ヘンミメレネミウイツヘイムネヘネニテレイネネヒヘチンチヘイミレミヘミ、ミニリヒニヘイミヘユレミイリリヒユイヘイヘミネヒイヘミレメン! イヘミレメンレメヒ……イテンイレニレンレツヘヒリテ、イツルユイレミニネツヘイヘユウニリイルミヘイミレミヘリニヘ、ミニ……」


「…………はぁ」


 当然内容は全く分からず、夏樹の口からは間の抜けた相槌がこぼれる。

 当のシスターは相当余裕がないようで、夏樹の間抜けな相槌にも構わず、うにゃうにゃと言葉を続けている。

 何をそんなに慌てているんだろうと首を傾げる夏樹の手の中で、勝手に持ってきてしまった朝日の携帯電話が鳴った。


「ひゃっ!? イ……イレニイヒテ、ミニヒイメネイヘレメ……? ミメテイツヘイ、ネンネニヘミュウ……?」


「くっ、また着信……!? 早すぎるよ、もう追いつかれたの!?」


 さっきの着信が『ユーリエたちのいる場所』からだったことを思えば、決してありえない仮定じゃない。

 電子音に怯えて身を竦めるシスターをフォローできないことも手伝って、夏樹は手早く電話に出た。


「もしもし檸檬!? 今『……今、携帯の着信音が聞こえる場所にいる』


 底冷えするような声に弾かれて、周囲を見回した。

 けれど、夏樹が通ってきた道にも、夏樹の向かっていた方向にも、檸檬どころか人の姿そのものが見当たらない。

 しかし(朝日から借りた)夏樹の携帯電話の着信音が聞こえたというのなら、檸檬の現在位置は、夏樹からそう遠くないということになる。

 想像以上に速い檸檬の追跡速度に震えて後ずさる夏樹に、シスターが声をかけてきた。


「ヘンミメレ、リミユネニリニレニイユメヘイメメムニヘムレ……? レメレ、メンチフテイレミニネツヘイメメヘイツルユレヒツヘイメメネイニリ、ミニメイヘ……!?」


 シスターは夏樹の窮状を察したらしく、その口調には切迫した緊張感と、夏樹を気遣うような響きがある。

 何を言っているのか分からないせいで、『そうだ』とも『違う』とも言うことはできないが、気遣ってもらっていることは伝わってくる。

 そのことに対するお礼と、そろそろ行かなければならない(むね)をどう伝えたものかと逡巡する夏樹に、シスターは鍵型の武器を召喚し、(ひざまず)いてそれを差しだした。


「えっ、ちょ……っ!? シスターさん、何を……!?」


「リチメユイフレイルヘメイ、ヘンミメレ。ヒウイウユレネニレ、ユヘミテテミムリヒネヘリネルネツヘミレツヘイミレムニヘ、ヘンミメレニイフリミヘイレリミムムリヒネヘリレメン。ヘムレメ、メレヘ……」


「え……っと……。よく分からないけど、武器を貸してくれるってこと?」


 跪いて武器を差し出す姿勢のままのシスターが何かを言い終えてから、夏樹は恐る恐る尋ねつつ武器に手を伸ばす。

 その手が武器の握りに触れる段になってもシスターは何も言わなかったので、夏樹は自らの想像が外れていなかったのだと安堵した。

 詳細は分からないが、以前に見た限りシスターの武器の能力は、何らかの形で相手の動きを封じるスキルだった。

 檸檬から逃げる上でそのスキルを借りることができるのは、かなり大きい。

 僅かに見えた希望に舞い上がって、夏樹は揚々とシスターの武器を手に取るが、鍵型の武器は夏樹が持ち上げた途端に砕けて、シスターの手の中に再構築された。


「………………っ!? ミンネ……ヒウミヘ!? エニっ、ヒネウニヘムヘンミメレ! ユテミテ、リンネフリミヘテ……!」


「……今のって、前にユーリエから武器を借りようとした時と同じ……? あ、えっと、大丈夫ですから、落ち着いてください」


 武器の貸与不成立に狼狽(ろうばい)するシスターをなだめながら、夏樹は今起きたことを頭の中で整理する。

 ユーリエが変身した鍵型の武器を使っていたからすっかり忘れていたが、そういえば鍵型の武器は元々、夏樹には扱えない力だった。

 シスターの慌てようから察するに、彼女は恐らく、そのことを知らないのだろう。

 事実、ユーリエも最初に夏樹が武器を借りようとした時に変身能力を使わなかったし、今のシスターにもそんな素振りは見られない。

 つまり、鍵型の武器に変身する能力の存在は、何らかのきっかけがなければ知ることができないか、あるいは発動するために満たすべき条件があるかのどちらかなのだろう。


「まあ単純に、変身して僕に使われるのを嫌がってるだけって可能性もあるけど……」


 いずれにせよ、シスターから鍵型の武器を借りることはできないという結論は変わらない。

 ならば当初の予定通り、自力で何とかするしかない。

 どうやらシスターからも目上の人間か何かと思われているらしい夏樹は、すっかり恐縮してしまった様子のシスターにこれ以上の誤解を与えないよう、笑顔に親しみを込めて、シスターに手のひらを向けた片手を軽く上げた。


「ごめん、シスターさん! ちょっと急ぐので、僕はこれで! 武器を貸そうとしてくれたの嬉しかったです、ありがとうございました!」


「………………っ! リウ……ミユレ、エミレメン……メミヘネレミイレネユミヘミレイレミヘ……っ」


 ありったけの感謝と親しみを込めたつもりだったが、何やら悲しげな顔でお祈りのようなポーズをされてしまった。

 恐らく、片手を上げたのがマズかったのだろう。

 下手にボディランゲージに頼るべきではないと、ユーリエの件で学ばなかった自らの怠慢を悔やみながら、夏樹は足を止める。

 その瞬間を、まるで見計らっていたかのようなタイミングだった。


「……見ぃーつけた」


 嗜虐的な愉悦を含んだ冷たい声が響き、夏樹は脊髄反射で駆け出した。

 確かに、少しのんびりし過ぎたかもしれない。

 けれど、それにしたって早すぎる。

 夏樹は特にスポーツなどをやっているわけではないが、それでも男の子だ。

 夏樹に折檻を加えるときには常軌を逸した攻撃力を発揮するとはいえ、同じく体を鍛えているわけでもない檸檬と比べれば、体力的にはいくらか夏樹のほうが優位にある。

 ここまで全力疾走してきた夏樹に、だからこうも早く追いつけるというのは考えづらいのだ。

 と、そこまで考えてから、夏樹は自身が重大な見落としをしていたことに気が付いた。

 なぜこんな単純な事実を見落としていたんだと自らの迂闊を呪う夏樹を嘲笑するかのように、携帯電話から着信を告げる電子音が鳴り響く。

 無視して走り続けるべきかとも思った夏樹だが、二回、三回と電子音が繰り返されるたびに纏わりついてくる得体の知れない不安に負けて、電話に出てしまう。


「……………………? ……もしもし?」


 通話が始まってからしばらくの間無言が続き、怪訝に思った夏樹は自分から声を上げる。

 まさかこの電話は、夏樹の走行に僅かな不自由を生んで足を鈍らせるためのブラフだったのかと夏樹は戦慄するが、そうではなかったらしい。

 夏樹の上げた声に、電話の向こうで劇的な反応があったからだ。


「なつき……!? ユツペミ、なつきネニヘ……」


 全て聞く前に通話を切って、夏樹は走る速度を上げた。

 悪い想像が当たってしまった……考えうる限り、最悪の事態だ。

 檸檬がユーリエから身体能力強化の恩恵を受けているのなら、夏樹が逃げ切れる見込みなど皆無に等しい。

 けれど、だからといって逃げることを諦めれば、それはユーリエのスキルで強化された……凶化された折檻を受け入れることを意味している。


「そんなことしたら、今度こそ本当に死ぬ……っ!」


 湧き上がる恐怖に()かされるように、夏樹は闇夜を駆け抜ける。

 生きて、明日の朝日(夜明けに東の空に上るやつだ)を拝むために。


  ◇


 這い寄る恐怖に戦慄わななきながら、夏樹は息を潜めて耐え忍ぶ。

 心臓の鼓動がやたらとうるさく響き、微かな物音にも悪意を感じるほどに神経をすり減らす。

 夜凪檸檬と、ユーリエ・ユーリヒと、梔子朝日くちなしあさひ。

 夏樹が共に過ごし、共に笑った少女たちはもう、今はいない。

 必ず生き延びてやるという気骨と、早く終わりにしてくれという諦念。

 相反する二つの感情が夏樹の胸中でせめぎ合い、夏樹の心を苛み、夏樹の意志を蝕んでいく。

 静かな闇夜に、突如無遠慮に無機質な電子音が鳴り響き、夏樹は身を竦める。

 機械的に、淡々と着信を知らせる携帯電話を震える手で取り出した夏樹は、痛いほどにそれを握りしめる。

 電話に、出たくない。

 例えこの電話に出たところで、結果は変わらない。

 無意味に自らの恐怖心を煽るだけで、事態は何も好転しない。

 どれだけ自分にそう言い聞かせても、夏樹は手の中で鳴り続ける携帯電話から、目を逸らせずにいた。

 なぜ。

 どうして、こんなことに。

 もう何度繰り返したか分からない自問に支配された頭は、まともに働かない。

 夏樹は恐怖心に促されるままに、携帯電話の通話ボタンを押した。


『……もしもし、夏樹? 今――』


「――あなたの、真上にいる」


 頭上から響いた声が背筋に絡みついた直後、視界が大きく揺れてブラックアウトする。

 何だか、すごく眠い。

 薄れゆく意識の中でそう思ったことが、その日、夏樹の最後の記憶となった。


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