第二十七話『臨戦』
黒い異空間の中では、ふとした折に音が消える。
大地を吹き抜ける風や、その風にそよぐ草木が存在しないためだ。
化け物が地面を踏みしめる足を止めた瞬間や、咆哮を上げる直前などに生まれる僅かな間は、だから不気味なほどに静まり返っていた。
「「「――――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」」」
「〜〜〜〜〜〜っ……! チュレユミネイヘルヘメイ! ユヘミテなつきニ、イメツリュウミヘイリヒネ、ヘルメンエムンヘムっ!」
初めてこの空間を訪れた時には、聞くだけで空気とともに震えさせられた化け物の咆哮にも怯えることなく、ユーリエは『やかましい』とばかりに何かを言って鍵型の武器を操作する。
小さな鍵を捻る方向が夏樹のそれと逆なのを見て、夏樹は武器の能力は小さな鍵を捻る向きで決定するのだと知った。
「やぁぁーーーーーっ!!」
鍵型の武器から伸びる光の剣の切っ先を地面に向けたユーリエは気勢を上げて、直前に蹴り倒した足元の化け物ごと、近くの化け物を逆袈裟斬りにする。
血潮代わりの黒い粒を散らして崩れ落ちる化け物の背後では、後続の化け物が巨大なほうの腕を持ち上げ、夏樹たち目掛けて振り下ろそうとしている。
化け物の両腕のサイズはちぐはぐだ。
小さいほうは夏樹と同じくらいの長さで骨と皮しか無いみたいに細いのに対し、巨大なほうは化け物自身の身長と同じくらい長くて人一人分くらいに太い。
振り下ろされれば逃げ場の無い凶器を前に、しかしユーリエは後退した。
鍵型の武器を操作しながら夏樹の側まで下がったユーリエは、霧のような紫色の光を纏ったそれを間合いの外の化け物目掛けて振り抜く。
霧のような光は衝撃波となって化け物に襲いかかり、人の胴回りほどに太い巨大な腕の付け根の辺りを切り裂いた。
「――ァァァァァァァァァァァァァァァァァァァ!!」
「すご……。あの霧みたいなやつ、失敗とかじゃ「なつきっ!」ぃいっ!?」
先ほどまで自分で使っていた能力の正しい使い方に感心する夏樹の体を、衝撃が襲う。
まさかと思った時には、夏樹を突き飛ばしたユーリエを映していたはずの目は、ユーリエの体を蹴り抜く黒い獣の足を映していた。
「………………っ!」
「ユーリエ!!」
夏樹たちから見て、腕を振り下ろそうとしていた化け物の反対側から、巨大なほうの腕で体を持ち上げて放った化け物の蹴りに吹き飛ばされて、ユーリエは通路を隔てる黒い箱の山に激突する。
背中を強く打ち付けて咳き込みながらも、ユーリエは自身を蹴り飛ばした化け物を鋭く睨み付けて、霧のような光を纏った武器を振るう。
刀身を包む紫色の光が滑空して化け物の喉元に飛び込み、黒い粒を派手に散らせる。
首が急所なのは化け物も人間と同じらしく、喉元を大きく抉られた化け物は、ぐらりと姿勢を崩して倒れ伏した。
「ユーリエ! ユーリエ、大丈夫!?」
「けほっ……たいちょうぷ。ユーリエ、たいちょうぷ」
駆け寄ってユーリエに声をかける夏樹に、ユーリエは気丈に微笑んで応える。
その間にも化け物は次々と通路の前後に降ってきて、その数を増やしていく。
際限なく増えていく化け物の群れを前に夏樹の胸中では、ユーリエが鍵型の武器を残して姿を消した時の恐怖が再燃していた。
「ごめんユーリエ! さっきみたいに、武器に変身できる!? ユーリエが嫌じゃなければ、ユーリエの力を僕に貸してほしいんだ!」
鍵型の武器をぺしぺしと叩きながら、夏樹は膝をついて呼吸を整えているユーリエに訴える。
現在戦場となっている異空間の通路はユーリエにとって、決して不利な場所ではない。
道幅の狭さは化け物の群れから数の優位を奪うし、体の大きな化け物よりも小回りの利くユーリエのほうが、動きの自由度も高い。
力も速さも、身体能力を強化できるユーリエが太刀打ちできないほどではないだけでなく、強力な武器を持つユーリエに対して、化け物は丸腰だ。
それでもなおユーリエが化け物に押され気味な原因は、どう考えても夏樹にある。
ユーリエが夏樹を守りながら戦おうとすると、単純に夏樹の存在が弱点になる他にも、行動に制限が生まれてしまうからだ。
化け物の攻撃を防ぐ手立ての無い夏樹を守ろうとすれば、化け物からの攻撃を回避することができない上に、夏樹を優先的に防御しなければならない。
夏樹を守るためには夏樹から離れられず、距離を取る相手に追撃ができないし、戦っている近くで何も出来ずに立ち尽くしていては、端的に言って邪魔だろう。
それに加えて、今は紅い瞳の女の子も非戦闘員だ。
ユーリエは嫌がるだろうけれど、夏樹が紅い瞳の女の子を守ろうとして動き回っても、ユーリエはきっと、夏樹を見捨てられない。
そして、ユーリエの迷惑になることが分かっていても、夏樹は紅い瞳の女の子を切り捨てることができないのだ。
「わがままを言ってごめん……迷惑をかけて、本当にごめん。でも、だから僕は、ユーリエに力を貸してほしいんだ!」
身勝手な願いだと自覚しながらも、言葉を止められない。
ユーリエに変身してもらって夏樹自身が戦えるようになれば、少なくとも夏樹の存在が弱点ではなくなる。
ユーリエが元に戻る前の戦闘を思い返す限り、鍵型の武器に変身している間はユーリエも痛みを感じないようだったので、変身中はユーリエの身も安全なはずだ(万一武器破壊が起きたら分からないが)。
夏樹が足手まといではなくなり、ユーリエを戦闘の危険から守ることができる(万一武器破壊が起きたら分からないが)。
だから夏樹には、それはとても理想的な解決策に思えたのだけれど、立ち上がって武器を構えたユーリエは、ものすごく嫌そうな渋面で夏樹を見た。
「……レヘなつきニレンニネムユウニイツミュツヘイムニヘミヘメ……リ、リレレ……メン」
おっかなびっくりと……それでいて、はっきりと。
詳しい内容は分からないが、ユーリエが言葉に込めた否定的な感情が、声の響きを通じて伝わってくる。
人に怒りを向けることに慣れていないのか、相変わらずユーリエの表情や声音は、拗ねているようにしか感じられないほど迫力が無い。
「ヘツヘなつきテ、ミニイリュウヒユレリムヘレニ、ユヘミニヒレメユフレウニヘミュウ?」
「へっ? あー……うん、まあ……?」
「……ヘミヘメ、なつきレメニリユウレイヘエツヘリ……ミヘネイヘル、ネイヘム」
たぶん、紅い瞳の女の子を助けるために戦うのかと聞かれているのだろう。
そう感じた夏樹が曖昧ながらも肯定を返すと、ユーリエは夏樹から目を逸らして、ごにょごにょと文句(と思われる何事か)を言う。
確かに夏樹が紅い瞳の女の子に手を差し伸べなければ、今夜の異空間内での全ては起こらなかったのだから、それでもなお女の子を守ろうとする夏樹に呆れや怒りを覚えるのは当然だ。
やっぱり拗ねているようにしか見えないユーリエのしかめっ面を見ながら、夏樹は短く息を吐いて気持ちを切り替える。
何かと夏樹を目上の人間として扱っている節のあるユーリエは、夏樹のそんな行動をどう思ったのか、叱られた子どものように不安げな視線を夏樹に向ける。
言葉の壁が縮めることを許さない距離感に一抹の寂しさを感じながらも、夏樹はユーリエに笑いかけて言った。
「大丈夫だよ、ユーリエ。ユーリエが嫌だと思ったなら、嫌だって言って断っていいんだ。僕たちは同じ家に住んでいる、家族みたいなものなんだから。ユーリエが僕に、変に遠慮することないんだよ」
ユーリエの不安を取り除けるよう、できるだけ優しく、なるべく柔らかく声をかける。
家族みたいなものなんだから、遠慮することはない。
ユーリエに向けたはずのその言葉に、しかし夏樹自身も心が軽くなるのを感じた。
「そうだよね……僕たちは、同じ家で暮らしているんだものね。心配をかけるのは良くないけど、そんな殊勝な理由で母さんや檸檬に意見を譲ったことなんて、今まで一度も無いじゃんか!」
あるいは、開き直ったとも言う。
……母と檸檬が家族枠で並んでいるのは冷静に考えるとおかしいのだが、ユーリエが来る前から半分夏樹の家で暮らしていたような幼馴染みが他人というのも、それはそれで無理があるだろう。
いずれにせよ、些か強引というか、身勝手な論理で心を武装して、夏樹は自らの迷いを断ち切る。
ユーリエや檸檬の意見は、尊重する。
この空間を脱出したら、もう紅い瞳の女の子の力になろうとは考えない。
「……それでも、ここから出るまでは……。みんなで生きて帰るまでは! 僕は僕の意見を、貫かせてもらうよ!」
付近の化け物に武器を振るうユーリエの表情は見えなかったが、嫌そうに呻いたのが聞こえた。
きっと、夏樹の声音から、夏樹が開き直ってわがままを言うつもりであることが分かってしまったのだと思う。
ひょっとしたら何らかの誤解が生じていて、夏樹の意図しない何かが伝わっている可能性もあるけれど、ひとまず夏樹はそう思うことにする。
「さてっ! 家族に心配かけてまで自分の意見を通すつもりでいるんだ。自分のことは、自分で何とかしなくちゃね」
なるべく気軽な調子で、自身に言い聞かせるように独り言を言って、気合いを入れ直す。
目の前の戦いに介入できるとは、思わない。
それでも、ユーリエが少しでも戦いやすいよう、化け物の動きを牽制するくらいは。
今回の異空間内で、化け物の群れをかいくぐってユーリエと合流しようとした時のことを思い出しながら、夏樹は大きく息を吐く。
あの時に化け物から視界を奪うために使った上着は置いてきてしまったので、残っている服は肌着とズボンの二枚だ。
靴も化け物の目を狙って当てれば一秒くらいは稼げるかもしれないので、夏樹のコントロール次第では頭数に数えられるかもしれない。
自分の使える手札を確認した夏樹は、素早く肌着とズボンを脱いでから、いつでも飛ばせるよう、浅めに靴を穿いて構えた。
「よしっ……! 来いよ、化け物!!」
「「ネ……っ!! ネニユユツヘイムニヘムレ(ンニユ)ーーーっ!?」」
異世界女子から総ツッコミを受けた。
戦っている最中のユーリエは絶叫するだけだったが、今の今まで沈黙を守っていた紅い瞳の女の子からは、頭頂部への平手打ちも頂戴するほどである。
「大丈夫だよ、分かってるって! 状況次第では出し惜しみしたりしないで、きちんとトランクスも使うから!」
「ネンヘイツミュツヘイムニレユレミレメンレメヒ、ミニヒリテリツヒ、チンヒウニチンヒウニイリミレムレメネ!?」
「ネンヘイツヘイムニレユレメネイレメヒ、ヘイメネイヘレチュネルヘヘイリンヘイネリネムムニユ!!」
夏樹の弁解も虚しく、猛然と抗議を続ける異世界女子二名。
落ち着いて考えたら、女子を相手にトランクスの使用も惜しまないとか言ったって、何の釈明にもならないよなと反省する夏樹をよそに、紅い瞳の女の子とユーリエが疲れたような口調で言葉を交わしている。
「……イリユツヘンヘイヒュツヘレメヒ、メムネニイレニテ、ユヘミテユムルネイヘミュウ?」
「……ミウヘムネ……なつきネミウイウレヘヘツヘユムメヘイヘ、ユヘミネユムイヘム……」
「ヒウミヘミウネムニユ……。ヒウレンネエヘツヘ、イリネミヌニヘミへリイフネユムイヘミュウネ」
「なつきニリヒユ、エレミユムルイユネイヘルヘメイ」
「おお……よく分からないけど、二人ともちょっとだけ仲良くなったっぽい?」
紅い瞳の女の子とユーリエの会話を間近で聞く夏樹の心に、ささやかな驚きと感動が訪れる。
倦怠感に包まれながらも穏やかな会話は、明らかにこれまでの口論とは違う。
内容が分からないのが残念で仕方ないが、二人はきっと今、確かに会話をしている。
「なつき」
「はいっ?」
こんな二人が見れたなら、文字通り一肌脱いだ甲斐があったかな、などと思っていたら、突然ユーリエに名前を呼ばれた。
何を馬鹿なことを考えているんだお前が脱いだのなんか関係あるかバーカと言われるのかと身構える夏樹に、ユーリエは逆手持ちにして刀身に近いところを握った鍵型の武器を夏樹に差し出す。
何のことか分からずに武器とユーリエを見比べると、ユーリエはほんのりと頬を赤く染めながら、拗ねているようにしか聞こえない、可愛らしい怒りの込められた声で何かを言った。
「……ニユウレイニミヘネイレムレメ、イツルユイレミニネツヘルヘメイ。ミンネレツリウユミヘイヘメ、レヘれもんニイリメメヘミレイレムレメ」
「うん、檸檬の名前が出てきたのが怖くて仕方ないけど……もしかして、力を貸してくれるってこと?」
尋ねながら、おそるおそる鍵型の武器に夏樹が手を伸ばすと、こくん、とユーリエが首を縦に振る。
夏樹が、ありがとう、と言って鍵型の武器を手に取ると、眩い光が辺りを包み込んだ。




