第二十三話『決意』
家に帰った夏樹はリビングに入り、ソファーに身を投げ出してため息をつく。
遅れてリビングに入ってきたユーリエは、帰りに寄った商店街の写真屋で購入した使い捨てカメラのシャッターを切りながら、首を捻っている。
携帯電話のカメラ機能と違って、撮影した写真をすぐに確認できないせいで、何をするための機械なのかが分からないのだろう。
撮影よりもフィルムを巻くほうを楽しんでいるらしいユーリエの様子を見ながら、夏樹は紅い瞳の女の子のことを思い出して、安堵とも寂寥ともつかない曖昧なため息をもう一度つく。
結局夏樹は紅い瞳の女の子に、手を差し伸べなかった。
◇
どれだけ考えたところで、結論は絶対に変わらない。
悩む間もなく答えは既に出ていて、夏樹の言うべき言葉は、だから覆らない。
なのに夏樹が声にした言葉は、その結論に異を唱えるものだった。
「け……けどっ! ここでこの子を見捨てたら、この子はどうなるの!? こっちに歩み寄ろうとしないからこそ、こっちから手を伸ばさないと……この子は本当に、一人になっちゃうよ!」
「……その子が自分で選んだ行動の結果だから、仕方ない。私たちが助けなくても、他の優しい人とか、ユーリエみたいに同じ世界から呼ばれた誰かとか……その子を助けてくれる人は、他にもきっといる」
「僕がユーリエの力になりたいと思ったのは、ユーリエの事情を知ってたからだ! 何も知らずにこの公園で出会ったりしたら、誰だって手を貸そうとは思わないよ!」
紅い瞳の女の子を起こしてしまう危険性も忘れて、夏樹は声を荒げる。
詳しい事情を説明されていない夏樹の母がユーリエを家に置くことを渋ったように、いかに相手の境遇を哀れに思っても、だから力になろうと考える人は、まずいない。
縁もゆかりもない他人のために、人一人を養う労を背負いたくないというのは勿論、一度関わってしまえば、相手のその後の人生にも責任を負わなければならない恐怖だってあるだろう。
世界は、優しさだけで回ってはくれない。
夏樹がユーリエを助けようと思えたのは、情けないけれどきっと、養われる身の上ゆえの、緊張感の無さが大きい。
「同じ世界出身の人なら、確かに助けてくれるかもしれないけど、それじゃあ意味がないでしょう!? この世界の誰かと繋がりがなければ、この世界の枠組みから外れたままなんだから!」
「なつき、ヒウレイヒフイヘルヘメイ! ミニイリュウヒネレユメレミヘミレツヘメ、レヘなつきヘヒネリレンネレニエツヘミレイレム!」
「この子だってきっと、来たくてこの世界に来たわけじゃない……! ユーリエと同じように、無理やり連れて来られた被害者なんだ! なのに……!」
「……夏樹っ!!」
感情に任せて捲し立てる夏樹を、檸檬が一喝して黙らせる。
不穏な雲行きにオロオロするユーリエは、間近で騒がれ続けて目が覚めつつあるのか、低く呻いて身動ぎをする紅い瞳の女の子と、沈黙が下りて睨み合う形になった夏樹と檸檬に、忙しなく交互に視線を移す。
不安げなユーリエに見守られる中で、檸檬は静かに言った。
「……夏樹は、その子のことは助けるのに……私たちのことは、守ってくれないの?」
「………………っ!!」
今にも泣きそうな顔で檸檬の言った言葉に感情だけで反論しようとする。
けれど、そのための言葉はどれだけ探したって見つからず、夏樹は勢いで開いた口を、ゆっくりと閉じる。
どんなに考えたって、結論は絶対に変わらない。
悩む間もなく答えは既に出ていて、夏樹の言うべき言葉は、だから覆らないのだ。
「……商店街にさ、写真屋ってあったよね?」
「………………?」
突然何を言い出すんだと、檸檬は僅かに身構えながら首肯する。
そんな檸檬の様子に苦笑しつつ、夏樹は言うべき言葉を言った。
「じゃあ、行こうか。ユーリエ、写真を撮るのが気に入ったみたいだからさ。使い捨てくらいしか買えないけど、ユーリエにカメラをプレゼントしようよ」
紅い瞳の女の子の力にはなりたいが、檸檬やユーリエを危険に晒したくはない。
檸檬の言う通り、紅い瞳の女の子にはこちらに歩み寄るつもりがなく、夏樹が手を差し伸べれば、その手を噛み千切ろうとするだろう。
そうなった時、夏樹は自分で自分の身を守ることができず、結局ユーリエを頼って怪我をさせてしまうのが目に見えている。
失敗することが分かりきっていて、その後始末を自分ですることができないのなら、厄介ごとに首を突っ込むべきではないのだ。
夏樹の答えを聞いて、ユーリエはなぜ急に自分の名前が出てきたのかが分からずにわたわたし始め、檸檬は力なく笑う。
悲しそうで、今にも泣いてしまいそうな、何も間違っていないのに謝るようなその笑顔を見たくなくて、夏樹はもう一度、行こう、と言って檸檬の手を取り、公園の出入り口に向かって足を進める。
言葉が分からないために状況の変化に付いていけないせいだろう、ユーリエは檸檬とは違った意味で泣きそうになっていた。
◇
『問題を提起することは既に解決すること』と、誰かが言ったらしい。
確かに問題を見つけることができなければ解決することもできないけれど、問題を見つけることができたからといって、それで即座に解決するわけでもない。
当たり前のことだが、問題を解決するためには解決のための行動を起こさなければならず、それが実を結ぶかどうかは、行動を起こした者の能力に左右される。
斯様に考えると汎用性に一抹の不安が残る言葉だが、夏樹はこの言葉を気に入っている。
檸檬に言ったらご都合的な解釈だと言われてしまったけれど、この言葉を残した誰かは、人の強さや優しさを、心から信じていたように思えるからだ。
提起された問題は、解決する努力を積み重ねなければ、当然解決しない。
力が及ばなければ、努力したって解決できないこともあるだろう。
にも関わらずこの言葉は、提起することは解決することと、ともすれば傲慢に聞こえるほどに言い切っている。
それはきっと、問題に直面した人はその解決するために全力を注ぐだろうし、それでも届かない時には、手を貸してくれる人がきっと現れると信じていたからではないかと、夏樹は思う。
困難に立ち向かう強さや、頑張る誰かを助ける優しさを、人は誰しも持ち合わせていると信じていたからこそ、それが世界の真理であるかのように、断言できたのではないだろうかと、そう思う。
残念ながら現実にはそんなことはなくて、問題に挑み続けるよりも問題の解決を諦めるほうが有益なことだってあるし、助けを求める手を振り払わなくてはならない場面というのも、少なからず存在する。
それでも自分の信じた道を諦めきれない時、夏樹は胸中でこの言葉を呟くのだ。
「……ごめんね、檸檬」
夕食を済ませた後、一番風呂を檸檬に譲った夏樹は、玄関で靴紐を結びながら独り言つ。
檸檬とユーリエを、危険には晒せない。
けれど、だからといって紅い瞳の女の子を見捨てることも、夏樹にはできないのだ。
「……なつき。ヒヒメニイレメムニヘムレ?」
「っ!? ユーリエ……!?」
振り向くとユーリエが、険しい表情で夏樹を睨んでいた。
怒っているのに迫力がなくて、どちらかといえば泣きそうなのを堪えているように見えるその眼差しに、胸を締め付けられる。
行かないでほしいと訴える紫色の瞳に射抜かれて、心が千々(ちぢ)に乱れる。
それでも、夏樹は靴紐を結び終えて立ち上がると、ユーリエに向き直って、微笑んだ。
上手く笑えたかどうかは分からないけれど、それを見たユーリエは、目を見開いて口を引き結んだので、夏樹の言いたいことは伝わったらしい。
「レメレなつきテ、エニイリュウヒユムルイニイレメムイフリミネニヘムレ?」
「……うん。ごめんね、ユーリエ」
責めるような口調で、恐らくは夏樹が紅い瞳の女の子を助けようとしていることを咎めるユーリエに、夏樹は僅かに目を伏せて謝る。
ひょっとしたらユーリエの言葉は、夏樹の思っているようなものではないかもしれない。
互いの言葉が分からないのだから、そのくらいの行き違いがあっても、おかしくない。
けれど、ユーリエが夏樹のことを心配してくれているように見えるのは、きっと間違っていないはずだから。
「あの子がどうして、僕を憎むのかは分からない。自分をこの世界に召喚した犯人が僕だと思っているのかもしれないし、それとは関係のない理由があるのかもしれない。それでも僕は、あの子のことを放っておけないんだ」
どれだけ言葉を重ねたって、ユーリエにはその内容が分からない。
それでも夏樹は、こうして語りかけることが無駄なことだとは思わない。
「あの子もユーリエと同じように、突然この世界に連れて来られて、わけのわからない言葉や文化の中に放り込まれている。あの子が僕を攻撃するのは、あるいはそれらに対する不安や恐怖が理由かもしれない!」
声には、心が宿る。
今、夏樹がユーリエに伝えられるものがあるとすれば、それをおいて他にない。
だから夏樹は、言葉を紡ぐ。
伝えたい心を言葉に込めて、それがユーリエに届くようにと祈りながら、語りかける。
「このままあの子を見捨てたら、僕はユーリエの力になろうとしたことに胸を張れなくなる……! だから僕は、あの子の助けになりたいんだ!!」
「………………っ!」
夏樹の声を聞くユーリエの顔が、苦しげに歪む。
自分のことを心配してくれたユーリエを傷つけてしまったことに、夏樹も胸が抉られるような痛みに苛まれる。
けれど、夏樹は引き返さない。
ユーリエの紫色の瞳に背を向けて、玄関の扉を開こうとする。
「……なつきっ!! れもん、いってらっひゃい!!」
悲鳴のような声音と、投げかけられた言葉のちぐはぐさにびっくりして、夏樹は思わず振り返る。
紫色の大きな瞳に涙をにじませて、檸檬の入っているお風呂場のほうを指差しながら、ユーリエは引き裂かれるような痛みを伴う声で叫ぶ。
「なつき、いってらっひゃい! れもん、いってらっひゃい! いってらっひゃい、いってらっひゃいっ!!」
声音と言葉の不一致に困惑しながらもユーリエの叫びに耳を傾けていた夏樹は、ふと理解する。
ユーリエはどうやら、『いってらっしゃい』という言葉が『行かないでください』という意味だと思っているらしい。
恐らく、夏樹が紅い瞳の女の子のところに行ったりしないかと心配していたユーリエに檸檬が、『私がお風呂に入っている間に夏樹が行こうとしたら、いってらっしゃいって、言っておいて』といったようなことを言っていたのだろう。
当然ユーリエには檸檬の言葉の全容は理解できないから、自分の分かる範囲で推測するしかない。
その結果、『夏樹』に『いってらっしゃい』と言えば夏樹を止められるという、檸檬からのアドバイスだと勘違いしたと考えれば納得がいく。
ユーリエの声音と言葉からそんな想像をして、夏樹は僅かに肩を落とし、やれやれとため息をつく。
隠していたつもりだった夏樹の真意は、檸檬のみならずユーリエにまで、筒抜けだったらしい。
檸檬のほうはまだしも、出会ってまだ一週間も経っていないユーリエにさえ見抜かれるほど自分は単純な人間なのかと落胆する反面、夏樹は嬉しかった。
出会って数日しか経っていない夏樹のことを、本気で心配してくれているユーリエの優しさが。
自分の願いに反する夏樹の真意を知ってなお、不器用ながら夏樹を送り出してくれた檸檬の愛情が。
二人が満たしてくれた、必ずこの場所に帰ってきたいという自身の気持ちが――たまらなく嬉しかった。
「……ごめんね、ユーリエ」
言葉の分からないユーリエに間の抜けた役割をさせてしまったことを、後ろめたさではなく誓いを胸に抱いて謝る。
愕然としたように目を見開くユーリエに、夏樹は胸の内の誓いを笑顔と言葉に込めて向けた。
「行ってきます」




