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そわか  作者: 空雲雛太
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第十八話『平穏』

 ――カシャ、カシャ、カシャ。

 檸檬から借りている携帯電話でユーリエがシャッターを切る音が、まどろみのような午後の静けさを際立たせる。

 穏やかな時間の流れは、撮影の一段落したユーリエが夏樹に投げかける質問の声も包み込んで、緩やかに続いていく。


「……なつき。エメニネレエテ、ネンヘムレ?」


「ん……あれは、冷蔵庫。そっちは電話で、これはテレビ」


 凪の水面(みなも)のような今の空気が壊れないよう、夏樹も静かな声音で答える。

 ユーリエの視線がわずかに上を向いて焦点を失い、夏樹の教えた言葉を記憶に留めるためであろう沈黙が生まれる。

 口の中で転がすように反芻するユーリエの目に焦点が戻り、小首を傾げて夏樹を見ると、覚えた言葉を確認するように、復唱した。


「……れい、しょーこ……てーんわー……てーれ、ぴー?」


「うん、大体合ってる」


 どうやらユーリエは濁音の発音が苦手らしいということは、これまでのやり取りで何となく分かっていた。

 別に完璧な発音でなくとも、意味さえ通じれば何も問題はないと思って夏樹は気にしなかったのだが、ユーリエは納得できなかったようで、しきりに繰り返して練習している。

 ユーリエの負けず嫌いな一面の発見を意外に思いながらも、自分たちの言葉を覚えようと頑張ってくれるのが嬉しくて、夏樹は何も言わずにユーリエの様子を見守ることにした。

 窓の外からはそよ風の音と、時折郵便配達のバイクのエンジン音が控えめに響く。

 そんな平和で平穏な日常は、けれどいつだって、何の脈絡もなく唐突に終わりを告げる。


「……………………」


「ん? 檸檬、どうしたの? 何で僕の頭を握り拳で挟んだだだだだだだっ!? 何なに!? どうして急に僕は頭をグリグリされてるの!?」


「…………っ! ……………………っ!!」


「ちょっ……痛い痛い痛い!! 檸檬、お願いだからせめて説明を……いだだだだだだだ!!」


「れ、れもん、イヒフイヘルヘメイ! れもんネユリリヒユユルユウネリヒテ、ネニリネイヘムレメ……!」


「~~~~~~~~~~~~っ!!!!」


 ユーリエの仲裁が檸檬の拳を止めたのはわずか一瞬のことで、謎の折檻は拳の回転数を増量して続行される。

 謎過ぎて八つ当たりのようにすら思える突然の制裁に、夏樹とユーリエは目を白黒させる。

 とはいえ、今回は……いや今回だって、夏樹は檸檬に怒られるようなことは何もしていないのだから、きっと何か誤解があるに違いない。

 物理的な頭痛に息も絶え絶えになりながら、夏樹はそれの正体を見極めるべく口を開く。


「れ、檸檬……! よく分からないけど、たぶん誤解だよ! 僕は普通に、ユーリエに単語を教えていただけで……!」


「……そんなことは、分かってる……!」


 いきなり夏樹の仮説が全否定された。

 ならばどうして、こんな仕打ちを受けなければならないのだろう。


「……別に、理由なんかない……私はただ、夏樹が楽しそうなのがムカついただけ!!」


「薄々そうなんじゃないかとは思ってたけど、檸檬僕のこと嫌い過ぎない!?」


 十年以上共に過ごして(つちか)われた絆に、少しだけ涙が出た。

 兄妹同然に育った幼馴染との関係(と、現在進行形の檸檬の折檻)に夏樹が頭を痛めている隣では、可笑しそうに笑う母ではなく、泣きそうな顔のユーリエがオロオロしている。

 きっと、どうにかして檸檬を止めたいけど、どうしたら止まってくれるのかが分からないんだろうな、と、夏樹は妙に冷静にそんなことを考える。

 キャストを変えても変わらない自らの日常に、何か呪いのようなものを感じながら、夏樹はひたすら檸檬をなだめることに注力した。


  ◇


 頭蓋が陥没するかと思うような時間を乗り越えて、夏樹は未だに痛む気がする頭を抱えてテーブルに突っ伏していた。

 隣からは、そんな夏樹の様子を(うかが)っているらしいユーリエの気遣うような声が、優しく耳を打つ。


「……なつき、イレネンテイレネヘムレ?」


「ん……大丈夫だよ、ユーリエ。ちょっとこめかみが抉れたような気がして痛みが全然引かないだけだから……」


 ユーリエを安心させようと思って笑顔を向けるが、頭痛の辛さに抗いきれずにいくらか引きつった笑みになってしまった。

 明らかな夏樹のやせ我慢をどう思ったのか、ユーリエは再び口を開いたが、檸檬の持ってきたお皿から漂う甘い匂いが、それを中断させる。

 ちょうど小腹の()き始める時間になっていたので、きっと間食を用意してくれたのだろう。

 けれど、普段食べているお菓子は、ここまで分かりやすく美味しそうな匂いを立ち上らせたりしない。

 それで夏樹も気になって、顔を上げて檸檬のほうを見る。

 少し拗ねたような表情の檸檬が持ってきたお盆には、何らかの果物を煮詰めたらしきものが盛られた小皿と、仄かに湯気のたなびく紅茶が乗せられていた。


「……ねえ檸檬、これ何?」


 夏樹、ユーリエと、自分が座るのだろう夏樹の対面の席に、果物の煮物(仮称)と紅茶を配膳する檸檬に、夏樹は遠慮がちに尋ねる。

 先ほどの正体不明の怒りは現在の様子から察するに、恐らくこの果物の煮物(仮称)を作っていたためにユーリエの勉強会に参加できず、仲間外れのような形になってしまったがゆえにいじけていたのだろう。

 どうやらまだ機嫌を直してはくれないようで、怒っているのだから話しかけるなという無言の圧力を放ちながら着席し、紅茶のカップを傾けている。

 毎度のことではあるのだが、それでも地味に凹みながら、夏樹は檸檬が果物の煮物(仮称)を小さめのスプーンで(すく)って口に運んでいるのを真似て、果物の煮物(仮称)を小さなスプーンで掬う。


「…………りんごのジャム」


「えっ?」


 唐突に零れた檸檬の呟きの意味を図りかねて、夏樹は思わず声を上げる。

 むくれたままの檸檬は答えてくれなかったが、小さなスプーンで掬った果物の煮物(仮)を紅茶に入れてかき混ぜているのを見て、それが果物の煮物(仮)の正式名称なのだと理解した。


「……ジャムって、パンに塗って食べるものだと思ってたけど……紅茶に入れたりもするものなの?」


 そのまま食べるのは、市販のものと比べて大きめの果肉が見えるので、分からなくもないのだが。


「……ロシアンティーの真似。パンは作ったことがないから、今回は無し」


「パンが無いのは全然いいんだけど、パンの無い理由が何かおかしくない!?」


 ジャムはともかく、なぜパンすらも手作りであることが前提となっているのだろう。

 確かに檸檬は昔から料理を作るのが好きだったが、ここまでの料理狂いだったことなど、落ち込んでいる時か不機嫌な時くらいしかなかったのに。


「……って、あれ? もしかして檸檬、何かあったの? もしくは僕、何かした?」


「……人が一生懸命料理してる時に、他の女の子といちゃいちゃしてた」


 思い至った可能性に肝を冷やして尋ねるが、檸檬はいじけたような口調でそんな事を言うだけだった。

 『いちゃいちゃしてた』に対する言いたいことと、『人が一生懸命料理してる時に』に対する後ろめたさが()()ぜになって苦笑いの零れる夏樹だったが、それを話してくれたことや口調などから察するに、そのことについてはもうそれほど怒っていないらしい。

 そもそも理由がそれなら、夏樹の危惧する『嫌なことや悲しいことがあって料理に没頭しようとしている』という理由だと時系列的な矛盾が生じる。

 つまり、今現在檸檬がやたらと料理を作りたがるのには、夏樹の心当たりの外に理由があるということになる。

 長い付き合いの中で始めての事態に夏樹が頭を捻っていると、意地を張るのに疲れたらしい檸檬が、脱力したような笑顔を浮かべて、種明かしをしてくれた。


「……別に、大したことじゃない。ユーリエがこの世界の人じゃないなら、食べ物には気を遣ったほうがいいかもと思っただけ」


「食べ物に……? あっ」


 言われて、初めて気がつく。

 夏樹たちは普段当たり前に口にしているので全く気にならなかったが、市販の食べ物というのは基本的に、日持ちを良くさせたり味を整えたりするために、多くの化合物が使われている。

 幼い頃から食べ慣れているこの世界の人間ならばまだしも、別の世界からやってきたユーリエに対しては毒となる可能性は、考慮して然るべきだった。


「……もっとも、食べ物が毒になるようなら、たぶん空気だって体に悪いはずだから……無駄な抵抗だとは思うけど」


 己の迂闊を悔やむ夏樹に、自らの不幸を語るかのように苦々しい口調で檸檬の語った推測が、夏樹の頭を打ち付ける。

 曰く、この世界を満たす大気の成分や空気中の微生物に対する抗体が、ユーリエにはきっと無い。

 だから最悪の場合、ただの風邪菌にすら抵抗できずに死んでしまうかもしれない、と。

 当然、菌の進化に合わせて強化改良を重ねられてきた、この世界の薬などを投薬すれば、どれほどの劇薬としてユーリエを(さいな)むか分からない。

 想像すらしなかったユーリエの絶望的な現状予測に愕然としていると、二人の会話の内容が分からないユーリエが、隣で不安そうに二人の様子を窺っているのが目に映る。


「ん……ああ、ごめんね。何を言ってるのか分からないよね。何でもないから、紅茶が冷めちゃう前に――」


 檸檬の作ってくれたジャムを食べようか、と言いかけて、夏樹は思わず口をつぐむ。

 直前の会話を思い出して、食べさせても大丈夫なのかどうか、わずかに迷ってしまったのだ。

 パンすら自分で作ろうとするほどに檸檬が気を遣って作ったジャムなのだから問題ないと、頭ではそう思っている。

 けれど、一度その可能性を聞いてしまうと、どうしても微かな疑念がまとわりついて離れない。

 どうしたらよいのか判断がつかずに夏樹は数瞬沈黙するが、『何か食べさせなければ結局死んでしまう』と自分に言い聞かせる形で無理やり納得し、迷いを押さえ込むための笑顔をユーリエに向けてジャムと紅茶を勧める。

 ユーリエ自身もその可能性に気づいているのか、僅かにためらうような素振(そぶ)りを見せた後、遠慮がちに口を開く。


「……リニエレイレイミニムムヘペリニヒ、イヒュ……ユヘミネイヘヘイヘリ、ユミミイニヘムレ?」


「……食べたくなかったら、無理しなくてもいいけど……」


 檸檬も夏樹と同じように弱腰になっているらしく、ユーリエの言葉に対する首を傾げながらの相槌も、いままでより後ろ向きだ。

 自分たちの行動が相手の命を左右しかねないのだから、それも当然だろう。

 檸檬の仕草と相槌から何を読み取ったのか、ユーリエはやはり躊躇うように、紅茶とジャムを見下ろす。

 それから、意を決したように口を引き結んで顔を上げると、なぜか泣きそうなのを堪えるような表情で、決意の灯火に輝く紫色の瞳を夏樹と檸檬に向ける。


「エニっ……ヒウミヘユヘミニ、リンネニユメミルミヘルヘメムニヘムレ?」


「……ユーリエ、こういうの、嫌だった?」


「ヘヒエペ、リュウ、エルレニミウルフヘヘエツヘミュウヒウチュメレニユウニ、ユヘミユミレイレンネレヘテヘルメンイメミヘテツヘム。……イツヘミテヒウミヘ、ユヘミユエメンヘルヘメツヘニヘムレ……?」


「……え……っと……?」


 感情と抑揚の乏しい檸檬の表情と声音に僅かな困惑の色がにじみ、何にそんなに戸惑っているのだろう、と、夏樹は頭を捻る。

 話の流れというか、ユーリエの躊躇(ちゅうちょ)を見れば、このお茶会(?)にユーリエがあまり乗り気でないことは伝わってきそうなものだけれど、やはりせっかく作ったジャムを食べてもらえないのは残念なのだろう。

 しかし直前の会話のこともあるし、檸檬の手作りジャムは美味しかったので、ユーリエが食べない分を引き受けるという名目でたくさん食べられるのは正直嬉しかったため、夏樹は特に深くは考えず、ユーリエの分のジャムが入っている小皿を回収しようと手を伸ばす。


「………………!」


「……あれ?」


 小皿を掴んで自分のほうに引き寄せたら、悲しそうな顔をされてしまったので夏樹は動きを止める。

 もう一度ユーリエのもとに小皿を押し戻してみると、慌てたように首を左右に振って、弱々しい笑みを浮かべる。

 ……どうやら単純に、遠慮しているだけらしい。

 夏樹は己の迂闊さを呪うが、それで夏樹の失敗がなかったことになるわけではない。

 気遣い屋のユーリエにはどうやら、檸檬に色々と面倒を見てもらっているのが負い目になっているようで、こういった嗜好品まで貰うのは気が引けたのだろう。

 そんなつもりではなかったとはいえ、夏樹がユーリエの分を貰おうとしたのが決定打となって、ユーリエは自身の引け目に確信を得てしまったらしい。

 すっかり畏縮してしまったユーリエの様子は、この世界に来たばかりだった昨日の姿を思い出させた。


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