第十六話『衣服』
化け物の、低く太い咆哮が黒塗りの異空間に響く。
夏樹一人分ほどもある大きな腕が、唸りを上げて振り下ろされる。
夏樹とユーリエはスキルによって強化された足で力強く地面を蹴り、化け物の懐に素早く潜り込んでそれを回避する。
腕が地面を叩くのとほぼ同時に化け物の足下に駆け込んだ2人は、そのままそれぞれ左右から化け物の脇を通過し、広げた夏樹のパーカーと繋いだ2人の手で化け物の足を掬う。
化け物の足に引っ掛けて引っ張る時にパーカーが嫌な音を上げたが、狙い通りに化け物は体勢を崩して転倒した。
「よし、あとはこいつの足を括っちゃえば……! ごめんユーリエ、ここに手を当てててくれる!?」
化け物が倒れる直前に離した手を再び取って自らの首に当て、ポンポンと軽く叩きながら夏樹が言う。
ユーリエに意図が伝わったかどうかを確認する手間も惜しんで倒れている化け物の足を跨ぎ、一番縛りやすそうな足首の辺りにパーカーの袖で結び目を作る。
夏樹の言いたかったことをユーリエは読み取ってくれたらしく、おかげで夏樹はユーリエのスキルを借りながらも、両手を使って化け物の足を縛り上げることができた。
アンバランスな化け物の両腕は上体を起こすのに向いていない(というよりたぶん、何にも向いていない)し、上体を起こすことができなければ一纏めにされた足で立ち上がることもできないだろう。
「これであとは、今のうちにこの空間から脱出するだけだ……! できればあっちのシスターさんも一緒に出してあげたいところだけれど……」
だいぶ数の減った化け物の群れと戦っている緑眼のシスターに目を向けてぼやくが、残念ながら彼女が夏樹たちのいる場所まで戻ってくるのを待っている余裕はない。
とはいえ緑眼のシスターは、強力なスキルを使用できる鍵型の武器の所有者だ。
おそらくはユーリエと同じように『扉』を自在に開けるはずだし、まだ武器が使える状態ならば十全にスキルを振るうことができるはずなので、よっぽどのことがない限り空間からの離脱は容易だろう。
緑眼のシスターを見捨てているような罪悪感をそう考えて切り替え、起き上がろうとしてじたばたする足下の化け物から距離を取る。
『扉』に化け物を巻き込まない範囲まで夏樹が退いたのを確認したユーリエが、再び『扉』を開くために虚空に手をかざす。
……もしも狙ってやったのだとすれば、認識を改める必要があるだろう。
ユーリエが『扉』を開く直前に新たな化け物が落ちてきて、夏樹たちの拘束した化け物の上に着弾した。
落下してきた化け物に文字通り踏み潰された化け物の破片が散弾となって夏樹たちに襲いかかり、動きを牽制する。
ダメージこそ皆無に等しかったけれど、突如現れた化け物への驚きと警戒心が、ユーリエに『扉』を開くのを止めさせる。
それはほんの一瞬のことではあったが、新たに現れた化け物が夏樹たちに狙いを定めるには充分な時間だったし、化け物に現実世界へと出てきてほしくない夏樹たち(勝手にユーリエもくくってしまったけれど、まあ、たぶん間違ってはいないと思う)にとっては、それは『扉』を再び開くのを躊躇させるのに充分だった。
「くっそ……! 毎回毎回呼んでもないのにぽこぽこぽこぽこと……!」
半袖の肌着では拘束用に使いにくいだろうと判断して脱いだズボンを構えながら、夏樹は呻く。
それは、再び自力で化け物を縛り上げられるだろうかという不安の発露であり、また、再び新手が現れて、自分たちの努力が無駄なものにされてしまうことへの恐怖でもあった。
何より、次にまた出てこられたら、ユーリエに続いて夏樹まで半裸になってしまう。
「大丈夫、下着までなら犯罪じゃない。下着さえ着けていればアウトじゃない……!」
自らの羞恥心はそうやって自己暗示で乗りきれるかもしれないが、下着姿の少年少女が公道を歩いているという衝撃のビジュアルを目の当たりにした人全てにそう言い聞かせるわけにもいかない(というか、柄パン一丁で弁明を試みる姿は、夏樹の犯罪じみた雰囲気を助長するだけのような気もする)。
せめて肌着だけでも現実世界に持ち帰れますようにと祈りながら夏樹がユーリエにズボンの片側を手渡した時、唐突に化け物は緑色の淡い光に包まれて、見えない何かに押し潰されるように地面に張りつけにされた。
「今の攻撃……! シスターさん!?」
「ヘンミメレネヘ! ユヘミネエルレユイメエレム! ヘムレメヘンミメレネヘテ、レヘエルレニイミユメムレエニ、レリニリルニテヒヘイチミヘルヘメイ!」
理屈は謎だが、駆けつけることはやはりできないらしく、歩むような歩みのペースはそのままに、緑眼のシスターは痛切な声で何かを訴える。
何と言っているのか夏樹には分からないけれど、シスターの言葉に弾かれたように、ユーリエが壁際に『扉』を開いたので、恐らくは『早く逃げろ』といったような内容だろう。
「なつき! イレニウヒニ、リニペミュレメヘイチミレミュウ!」
「ん、分かった……! それじゃあシスターさん、ごめんなさい僕たちは逃げます! シスターさんもお気をつけて!」
ユーリエに急かされて、夏樹は気休めにすらならない言葉を緑眼のシスターに投げかけ、『扉』の中に飛び込む。
できれば踏み潰された化け物を縛り上げるのに使ったパーカーを回収したいが、そこではシスターのスキルに抑え込まれた化け物が暴れているので、諦めたほうがいいだろう。
二体目の化け物を縛るつもりで脱いだズボンを履き直すのも後回しに夏樹は『扉』をくぐり抜け、現実世界へと回帰する。
真っ黒な空間から脱出し、抜けるような青空と生い茂る緑の中に出た夏樹は素早く周囲を見渡して、自らの現状把握に努める。
多少動いてしまったためだろう、出たのはやはり異空間へと突入した場所から少し離れた、公園の中だった。
とはいえ、園内を彩る木々に隠れて見えないものの、少し大きな声を上げれば携帯電話を使わなくても檸檬とやり取りが出来る程度の距離だ。
檸檬を呼ぶために息を吸い込んだ夏樹は、ズボンの覆いが外れた両足をそよ風に撫でられて、しかしそれはマズいと踏み留まる。
大声を出せば檸檬以外の人からも注目を浴びてしまい、そうなったら夏樹以上に、ユーリエに恥をかかせてしまう。
だから夏樹は、残った半袖の肌着も脱いで、ユーリエに差し出した。
「ぇっ……エニっ!? なつきテヒウミヘ、リンネヒリミヘイレミリニユヌネメヘイムニヘムレ!?」
「とりあえず、檸檬に連絡を取るまでだけでも着ていてよ。女の子が外でそんな格好をしてたら駄目だよ」
倫理的な問題の他にも、まだ寒さの抜けきらない時期だという実際的な問題がある。
檸檬に見られたら『誤解→死刑』というコンボが回避できないという夏樹の生命的な問題もあるが、それは電話で檸檬を呼べば、その時の説明の仕方次第で回避できるので、理由としてはついでの域を出ない。
ともあれ、そんなわけで夏樹はユーリエに自分の服を貸そうとしたのだが、何となく予想していた通り、ユーリエはそれを拒んでしまった。
「ユヘミテテイリヘムレメ、ミニイレミリニテなつきネリヘルヘメイ。ムリミテツレミイヘムレメヒ、テヘレヘテネイニヘムレメ」
お腹や太ももなどを隠そうとしながらも、柔らかく微笑むユーリエ。
……下着を晒していることに対して恥じらっているわけではなさそうな辺り、ユーリエの故郷は下着を見られても平気な文化か、下着そのものが無い世界だったかのどちらかなのだろう。
ユーリエがそれで良くても、この世界でその感覚では、いろんな意味で非常に困る。
「いーいーかーら! ユーリエだって寒いでしょ!? 幸い服なら今日買いに行ったやつがあるんだから、檸檬にそれを持ってきてもらうまでは、これを着てて!」
「ヘレヘム、イレミヘリレメン! ヘンミレメヘエムなつきユメミイイヘ、ユヘミネイツルユリニレヒウネンヘ、ヒンヘリネイヘム!」
「むぅ……この頑固者! そんな格好で表を歩いてたら危ないんだってば! むしろ僕が危ないんだよ!?」
夏樹とユーリエの、互いが互いを思う気持ちは、きっと伝わっている。
だからこそ、きっと言葉が通じていたって、互いに引かなかっただろう。
自分のことはいい。
どれだけ恥ずかしくたって、我慢すればいい。
けれど、だからこそ相手にそんな思いをさせるのは嫌だ。
通じないと分かっている言葉に、それでも二人は、相手に服を着てほしいという気持ちを込めて投げかける。
「なつきネネンヒイツミュツヘイムニレ、テンネンネネメユヘミニテユレミレメンレメヒ……! ユヘミテメイリュウヒヒミヘ、なつきニミンネレツリウユメメムユレニテ、イレネインニヘムっ!!」
「だぁーーーっ、この分からず屋!! いいよ分かったよ、ユーリエがそういうつもりなら、いっそのこと僕が着せてあげるよ!!」
言葉が通じないことを差し引いても進まない会話(ひょっとしたら偶然そうだったように見えているだけかもしれないが、今までが通じ過ぎていただけという説もある)に業を煮やした夏樹は、強行手段に出る。
まずは着せやすい肌着から被せればユーリエも抵抗を諦めるだろうと踏んだのだが、何がそんなに嫌なのか(夏樹が着ていたからという理由は、この際考えないことにする)、ユーリエも本気でそれを阻止してくる。
「ヒウミヘミリレヘ、ニンネンニユヘミユユウメンミヘミレウニヘムレ!? リウネツヘメユヘミリ、チヒミニメイリュウヒヒミヘ、ルミユミニヘリなつきニ、イレミリニユリヘイヘヘリレム!!」
「あっ、この……っ! 暴れないでよ、服が腕に引っ掛かって、上手くいかなくなるじゃんか!!」
「ぅぅ〜〜〜〜〜〜〜……っ! れもん! れもんレメリ、なつきニイツヘリレメヘルヘメイ!!」
「……………………………………………………ゑ?」
唐突にユーリエが口にした死神の名前に、思わず夏樹は動きを止める。
それから、ぎぎぎ、という音が聞こえてきそうなほど錆び付いた動きで、ゆっくりと振り返ると、背後で能面のような無表情を浮かべる檸檬の姿が目に入った。
「……………………………………た……ただいま」
「………………………………………………おかえり」
ゴミを見るみたいに冷たく輝く檸檬の瞳に気圧されながら、夏樹は生き残るためにとにかく言葉をひねり出す。
対する檸檬は、まるで腹話術でもしているかのように、ぴくりとも口を動かさずに返事をする。
半裸の少年少女が一枚の服を挟んで言い合っているこの状況は、誤解を招く材料に事欠かない。
夏樹だって当事者でなければ、間違いなく男のほうを強制わいせつで通報するだろう。
ひりひりと、物理的な痛みを伴って夏樹の肌を撫でるのは、怒りの炎か殺意の冷気か。
「……………………………………………………夏樹、弁解は?」
いずれにせよ、この後のことは思い出したくもなくなるだろう。
言葉とは裏腹に、全く話を聞くつもりのなさそうな臨戦体勢の檸檬を見て、夏樹はそう思った。




