6章 1話 天国に一番近い場所
俺の母親はいつもニコニコしている、笑顔の絶えない人だった。
原初の記憶では、転んで泣いている俺の手を引き、微笑んでいる。
そんな母は俺が小さいとき、具体的には八歳のときに亡くなったと聞いている。
交通事故に遭ったそうで、昼寝をしていた俺は、死に目に会えなかった。
しばらくの間、俺はふさぎ込んでしまって、葬式の日もずっと隅の方で下を向いていた。
俺が最後に見た母の姿は、俺を寝かしつけているところだ。
今でもあのとき眠らずに、母と一緒に出かけていれば、もしかしたら何か違ったのかもなどと考えてしまう。そんなこと誰にも言ったことはないけれど。
誰かの声がする。
「起きなさい」
母さん?
「起きなさい」
再び聞こえ、突然、強い光が視界を覆う。
人が近づいてくる気配がある。
「母さん?」
そして、俺は目を覚ました。
御影先生が俺の机の前で仁王立ちしている。
「さすがに、あなたのお母さんっていう歳じゃないと思うんだけど」
目が全然笑っていない。
マジのやつだ。
どうやら俺は先生の授業で居眠りしていたようだ。
「いえ、違うんです」
「三十路一歩手前の女の授業は退屈?」
「滅相もございません」
「本当なら廊下に立ってなさいと、怒鳴ってやりたいんだけど、時代錯誤ね。この授業の後、ノートを集めて職員室に持ってきなさい。いいわね?」
「承知致しました」
授業が終わってすぐ、ノートを集めて職員室へ持っていく。
先生は椅子に掛け、マグカップに入ったコーヒーを飲んでいた。
私物と思われるマグカップには、タキシードとウエディングドレスを着た二匹のうさぎが描かれている。
先生が使うと、何とも言えない気持ちになる。
「ご苦労様」
「さっきはすみませんでした」
居眠りはやはり良くない。
罰がノート運びというのは、温情判決と言っていいだろう。
教室に戻ろうとすると、先生は俺の方へ体を向け、
「藤堂さんのこと、ありがとう。近頃の藤堂さんは、表情が柔らかくなったわ。あれって木場くんが何かしたんでしょ?」
出雲さんも同じようなことを言ってたな。
「いや、俺は何も。藤堂が変わったのは、あいつが自分で悩みと向き合ったからですよ」
納得したかどうかは分からないが、御影先生はそれ以上聞いてこなかった。
その代わり、別の質問をしてきた。
「ところであなた自身はどうなの?」
「俺、ですか?」
どう? と言われても。
困惑する俺に、先生は尋ねる。
「あれだけ可愛い子がたくさんいて、何も思わないってことはないでしょう?」
「そりゃ可愛いなと思うことはありますし、……ドキドキすることもありますけど」
何を言っているんだ、俺は。
居眠りの反省のテンションのせいで、答えなければいけないという気になっているのか。
「恋は良いものよ。例えるなら――」
そこまで言って、先生は口を噤んだ。
「他人が口を挟むことじゃないわね。それに私は偉そうに恋愛を語れる立場じゃないしね」
「いえ、先生は絶対良い相手に巡り会えると思います」
「教え子にフォローされるほど、情けないことはないわ」
先生は冗談っぽく少し笑い、机に向き直った。
今度こそ教室に戻ろうと思ったとき、机の上の旅行用のパンフレットに目が留まった。
俺の視線に気づいた先生が、
「今年の夏、短い休みを利用して海外旅行に行こうと思ってるの」
そう言って、おもむろにページをめくる。
美しいエメラルドブルーの海に囲まれた島が載っている。
ニューカレドニア。
御影先生が感慨深そうな声で呟いた。
「――例えるなら、天国に一番近い場所」
結局こういうシーンを書きたくて、始めたんだよな。
初期衝動というか、原初の欲望。




