EP 2
前世店長の尊厳破壊と、規格外のバレンタイン家
(……よし、まずは現状の『SWOT分析』から始めよう)
転生から数日後。
ベビーベッドの上で仰向けになりながら、俺――リアス・バレンタイン(前世:秋野幸人、三十歳)は、天井の木目を見つめて思考を巡らせていた。
SWOT分析。すなわち、強み(Strength)、弱み(Weakness)、機会(Opportunity)、脅威(Threat)の四象限から、現在の自分の立ち位置を客観的に評価するビジネスの基本フレームワークである。
前世でエリアマネージャー候補だった俺にとって、新しい店舗(環境)に配属された際に最初に行うルーティンだ。
まずは『強み』。
これは明確だ。俺が生まれたバレンタイン家は、このルナハンという街においてかなり裕福な部類に入るらしい。父親のゴルディは、大陸屈指の大企業「ゴルド商会」のルナハン支店長。しかもゴールドランクの商人だという。ゴルド商会といえば、食料から日用雑貨、武具、土地の売買まで何でもこなし、商会の顔パスで他国にも入れるという超巨大インフラ企業である。前世の知識(簿記1級やFP1級)と、この財力という資本があれば、俺の悲願である「究極のホワイトライフ」の構築は極めてイージーモードと言える。
次に『機会』。
あのタバコ臭い芋ジャージ女神から適当に押し付けられた【ホームセンター】というユニークスキル。まだ赤ん坊の身体なので魔力が足りず発動できないが、これが仕様通り「ホームセンターのあらゆる商品や概念を具現化できる」なら、異世界の常識を根底から覆すブルーオーシャン市場を独占できる。
ここまでは完璧だ。素晴らしい。輝かしい未来しか見えない。
だが、問題は次だ。
『弱み』。
――首が、座っていない。
冗談でも比喩でもなく、文字通りの意味である。
俺は今、自分の意思で寝返りすら打てない完全な「要介護状態」だった。移動手段はゼロ。コミュニケーション手段は「泣く」のみ。圧倒的リソース不足。
そして最大の『脅威』。
それは――。
(……っ!? しまった、下腹部に急激な膨張感が……!)
突然の尿意。
しかも、大人のそれとは比較にならないスピードで臨界点に達しようとしている。
(ま、待て! 落ち着け俺! 休日、日曜日の昼下がり、レジが長蛇の列でクレーム客に八時間拘束された時だって、俺の膀胱は耐え抜いたじゃないか! あの地獄のシフトを乗り越えた精神力があれば、これしきの生理現象……っ!)
俺はデール・カーネギーの『人を動かす』の一節を思い出そうとした。批判も非難も文句も言わない。己の感情をコントロールするのだ。
全身の筋肉、特に括約筋に全神経を集中させる。
いける。いけるぞ、秋野幸人!
ちょろっ。
(あっ)
俺の鋼の意志とは無関係に、赤ん坊の未発達な自律神経は、あっさりと防波堤を決壊させた。
生温かい感触がおむつ(異世界の布製)に広がっていく。
(や、やっちまったぁぁぁ……っ!!)
三十歳の、しかも五十人のパートやアルバイトを束ね、次期エリアマネージャーとまで呼ばれた男のプライドが、音を立てて崩れ去った瞬間だった。
「ふえぇぇぇっ! ああぁぁぁぁぁっ!」
泣くつもりなんて微塵もないのに、不快感に反応した赤ん坊の身体が勝手にアラート(号泣)を発する。
「あらあら、どうしたのリアス? ああ、おしっこね。偉い偉い、いっぱい出たわねー」
バタバタと足音がして、部屋に飛び込んできたのは母親のマリアだった。
彼女は俺の惨状を見るなり、天使のような微笑みを浮かべて手際よくおむつを外しにかかる。
(やめて! 見ないで! 自分で拭けるから! 頼むから俺の尊厳をこれ以上奪わないでくれぇぇ!)
心の中で土下座しながら絶叫するが、当然マリアには伝わらない。
そこへ、父親のゴルディも豪快な笑い声を上げながら入ってきた。
「ガハハハ! 泣き声も一際デカいな! さすが俺の息子だ。おもらしの勢いも将来の大物ぶりを予感させるぜ!」
「もう、あなたったら。リアスは繊細なんだから、そんな大きな声を出さないで」
マリアは手早く汚れを拭き取ると、俺の新しいおむつをサッと替えてくれた。
その無駄のない動き。前世のクレーム対応で培った俺の観察眼(販売士1級)が、彼女の只者ではない手際を捉えていた。
(この母ちゃん、ただの専業主婦じゃない……)
それもそのはずである。
マリア・バレンタイン(28歳)。彼女は数年前まで、この世界でも一握りしかいない「元A級冒険者」であり、「賢者」の称号を持つ魔法使いだったのだ。
父親のゴルディは金と交渉術のプロ。母親のマリアは魔法と戦闘のプロ。
この規格外の二人の血を引いているという事実は、俺の『強み』をさらに盤石なものにしている……はずなのだが、今はただただ、お尻を拭かれたという屈辱感で死にたかった。
「よしよし、スッキリしたわね、リアス」
マリアが優しく俺の頭を撫でる。
その温かい手に、前世の孤独な社畜生活で荒みきっていた俺の心が、ほんの少しだけ解れていくのを感じた。
(……まあ、いいか。赤ん坊なんだから、おもらしぐらい当然のリスクだ。これもホワイトライフへの必要な投資、いや、イニシャルコストと考えよう)
俺はドラッカーの『マネジメント』を脳内で反芻し、この絶望的な状況を「組織(自分)の成長過程における不可避のプロセス」として無理やりポジティブに処理することにした。オン・オフの切り替え、これこそがエッセンシャル思考である。
すっかり綺麗になったおむつの感触に安堵し、俺は再び天井を見つめてうとうとし始めた。
だが、休日は絶対に働き込まない主義の俺を、この規格外の母親が放っておくはずもなかった。
「さーて。おむつも替えてサッパリしたし、今日も『日課』を始めましょうか」
マリアがニコリと笑い、俺の小さな身体の上に両手をかざした。
ゴルディも腕を組み、満足げに頷いている。
「おう、頼むぞマリア。こいつには最高のエリート教育を受けさせなきゃならんからな!」
(……ん? 日課? エリート教育?)
うとうとしていた俺の意識が、一気に覚醒した。
マリアの両手から、圧倒的な密度の魔力が淡い光となって溢れ出し、部屋の空気がビリビリと震え始めたのだ。
元A級冒険者の賢者が本気を出す時特有の、尋常ではないプレッシャー。
「大いなる光よ、この小さな命に世界を生き抜く器を与えたまえ――【限界突破・極大治癒】!」
(えっ!? ちょっと待て母ちゃん! 赤ん坊相手に何て物騒な名前の魔法を唱えて……ぎゃあああああっ!?)
心地よい眠気から一転。
俺の身体に、強烈な魔力の奔流が注ぎ込まれ始めた。
過労死店長の異世界スローライフ計画は、早くも初手から「気合と根性」のスパルタ物理教育によって、予想外の方向へ爆走し始めるのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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