命に宿る書
第六章 命に宿る書
庭は家の裏手にあり、低い木製の柵に囲まれていた。
ゼファーはイリスの後について中に入り、そこで足を止めた。
美しさに目を奪われたわけではない。もっとも、この庭は整然とした、いかにも意図的な美しさを備えてはいたが。何かがおかしかった――良い意味で。
りんごの木は、まだ夏の始まりで収穫の季節でもないのに、枝がしなるほど実をつけていた。ぶどうはプラムほどの粒が房となって重たく垂れ下がり、異様なほど濃い紫色をしていた。地を這ういちごは、まるで手で並べたかのように、真っ赤な実を規則正しくつけていた。
「摘んでみて」イリスは振り返らずに言った。
ゼファーは手を伸ばし、りんごをひとつもいだ。
かじる。
噛む速さが、ふと緩んだ。
そして、手の中のりんごを見下ろした。
「……うまい」
「何か変じゃない?」イリスが尋ねた。
「これ……」ゼファーはもう一口かじりながら、言葉を探した。「甘いけど、しつこい甘さじゃない。それに、種がない」
イリスがふっと笑った。
「他のりんごより甘いから、じゃないわ」彼女はいちごの畝のそばにしゃがみ込み、手際よく黄ばんだ葉を摘み取っていく。「あなたが、きちんと手をかけられたことのないりんごしか食べたことがないだけ」
「きちんとって?」
「植物も人間と同じよ」イリスは葉を一枚ちぎり、指先でくるくると回した。「何を必要としているか分かっていれば、育ち方は変わる」
「どんなふうに?」
イリスはしばらく黙り込んだ。どこから説明すべきか、考えているようだった。
「双子でも、なぜ違う人間に育つか知ってる?」
ゼファーはイリスを見た。
「知らない」
「あらゆる生き物の内側には、説明書のようなものがあるからよ」イリスは立ち上がり、ぶどうの木のほうへ歩み寄ると、実の房をそっと持ち上げた。「体がどう育つべきかを教える、一冊の本みたいなもの。背丈はどれくらいか。葉の大きさはどれくらいか。甘いか酸っぱいか。種があるかないか。全部、その本の中に書かれているの」
イリスはゼファーにぶどうをひと粒差し出した。
口に入れた瞬間、動きが止まった。
甘い。だが刺々しさも酸味も一切混じらない、まるで砂糖水のように純粋で、それでいてこれまで食べたどんなものより瑞々しく、澄んでいた。
「私の仕事はね」イリスは呆然と立ち尽くすゼファーを見て微笑んだ。「その本を、思いどおりに書き換えるだけ」
ゼファーは手の中のぶどうを見つめ、それからイリスを見た。
「木の育ち方を変えられるのか?」
「木だけじゃないわ」イリスはいちごの畝に向き直りながら、まるで天気の話でもするような口調で言った。「内側に説明書を持つ生き物なら、何でも」
ゼファーはしばらく立ち尽くしたまま、まるで別の目でこの庭を見渡した。
季節外れに実をつける木々。異様に大きなぶどう。種がなく、切っても一日じゅう傷まないりんご。
まるでおとぎ話の庭のようだった。
もし人間だったら――
ゼファーは言いよどんだ。
「イリスさんも、直せるのか?」
イリスは彼を見つめた。
「できるわ」
「知能も?」
「……できる」
「記憶も?」
「どこを直せばいいか分かっていればね」
「病気も?」
「それもできる」
ゼファーは黙り込んだ。
「じゃあ、人間を少しずつ犬に変えるとしたら?」
「ぼうや、面白い例えを持ち出すのね」イリスは微笑んだ。「理論上は、できるわ」
――――――
夕暮れ、瓦屋根が黄金色に染まる頃、ジュリアスは縁側にルキウスを訪ねた。そこは彼がいつも本を読んでいる場所だった。
「なあ。ひとつ頼みがあるんだが、いいか?」
ルキウスは本から顔を上げなかった。
「何だ?」
「あのゼファーってガキに、魔法を教えてやってくれないか」
ルキウスは本を閉じた。指はしおり代わりに、ページの間に挟んだままだった。
「意外だな」彼はジュリアスを見た。「お前が誰かに頼み事をするなんて、珍しい」
ジュリアスは軽く肩をすくめた。
「人間、いつかは自分が何でもできるわけじゃないと認めなきゃならない時が来るもんだろ」
ルキウスが小さく笑った。
「お前が初めて人に頭を下げた時のことを思い出すよ」
ジュリアスは薄く笑っただけで、何も答えなかった。
「なぜ自分で教えない?」
「試したさ」ジュリアスは戸枠に肩をもたせかけた。「だが、どうも駄目らしい。俺の教え方は、ゼファーには合わないみたいだ」
ルキウスは一瞬、口をつぐんだ。視線が右手の遠くへと流れていく。そこでは、さほど高くない草の丘の上でゼファーがイリスの隣に座っていた。イリスは夢中で何かを語り、ゼファーはただ静かに耳を傾け、時折小さく頷いていた。
「そういえば、ゼファーは魔法を使えるのか?」
「ああ。霧術だ」
ルキウスはジュリアスへと視線を戻した。
「面白いだろう?」ジュリアスが笑った。
「いいだろう」ルキウスも微笑んだ。「引き受けよう。ただし週末だけだ。学院での授業もあるからな」
「それで十分だ」ジュリアスは頷いた。「助かる」
ルキウスはしばらく彼を見つめ、それから小さく笑った。
「はは、お前、だんだん父親みたいになってきたな」
ジュリアスは彼を見た。
「誰が父親なんかになりたいものか。自分のことすらまともにできていないのに」
ルキウスは吹き出すように笑うと、再び本を開いた。その視線は、すぐに文字の中へと沈んでいった。
ジュリアスは縁側の柱に背をもたせかけ、淡い橙色に染まっていく空を見上げた。
刈られたばかりの草の匂いを運んで、風がひとつ吹き抜けた。
それ以上、言葉を交わす者はいなかった。
時折ページをめくる紙の音と、暗さを増していく空を横切る鳥の声だけが、そこにあった。




