声
第五章 ― 声
その物音が響いたのは、夜明けがまだ完全には明けきらない頃だった。
ゼファーは飛び起きた。
ドアへと駆け出し、階段を駆け下り、誰もいない居間を突っ切って、玄関の扉を押し開けた。
そして、その場に立ち尽くした。
家の前の空き地では、ジュリアスとルシアスが十歩ほどの距離を置いて向き合っていた。二人を囲む草はすでに掘り返され、地面に刻まれたいくつもの深い窪みが、この対峙が始まったばかりではないことを物語っていた。
「ああ、おはよう、ゼファー」
背後から聞こえたアイリスの声に、ゼファーはびくりと肩を震わせた。彼女は椅子に腰掛け、実に落ち着いた様子で熱い紅茶のカップを手に、この光景を何度も目にしてきた者の表情で空き地を眺めていた。
「一体何が起きてるの?」ゼファーは尋ねた。
アイリスは紅茶を一口すすった。「ただの手合わせよ。あの二人の実力を拝める、ぼうやにとっては良い機会じゃない」
「あの茶色い髪の人って、もしかして……」
「ルシアスよ。会うのは今日が初めてよね」
外では、ルシアスが片手を上げ、そしてゆっくりと下ろした。
途端、ジュリアスの周りの地面が沈み込んだ。
地盤沈下ではない。重力そのものが増しているのだ。草も土も、ジュリアスを中心に放たれる見えない力によって押し潰されていく。まるで巨大な手が上から押さえつけているかのように、彼の周りの空気が圧縮されていた。
「今、何が起きたの」ゼファーは驚いた。
「ルシアスは重力魔法の使い手なの。簡単に言うと、今ジュリアスの周りは物凄い力で押し潰されているってわけ」
ジュリアスの動きが止まった。膝が少し折れ、体が前のめりに傾ぐ。
だが、すぐに順応し始めた。
ゆっくりと、体を起こしていく。
「相変わらず重いな」ジュリアスは肩を回した。骨の鳴る音がした。「次は俺の番だ」
二つの魔法陣が同時に現れる。青白と赤橙、互いに逆方向へ回転していた。ジュリアスの背後の空気が見えない熱波によって歪み、膨大な熱量が引き抜かれ猛烈な速度で後方へと放出される中、彼の背後の草が僅かに焦げついた。
青白い魔法陣から、氷の結晶が空気中に形成されていく。それらは刃のように鋭い翼を持つ鳥の形へと自ら組み上がり、朝日を浴びて煌めいた。
鳥たちはまっすぐルシアスへと飛びかかった。
ルシアスは避けなかった。ただ、それが迫るのを見つめていた。
そして、指を一本立てた。
氷の鳥たちは一羽、また一羽と、突然石のように、鉛のように、まるでこの世のものではない何かのように重くなっていった。鈍い音を立てて地面に落下し、幾千もの破片となって砕け散った。
「相変わらず美しいな」ルシアスが言った。
「どうも」
そしてジュリアスが突っ込んでいった。
魔法は使わない。ただ二人の男が至近距離でぶつかり合い、殴り、躱し、組み合うだけだった。ルシアスの動きは正確で無駄がない。ジュリアスの動きは自在で不規則、まるで岩の隙間を流れる水のようだった。互いを知り尽くしているからこそ相手の死角を見つけられず、互いを知り尽くしているからこそ、それをどこに探せばいいかを知っていた。
やがてジュリアスが後ろに下がり、ルシアスとの距離は二十歩ほどになった。
「よし、このへんにしておくか」彼は微笑んだ。「最後に一発決めてから飯にしよう。腹が減った」
「いいだろう」ルシアスは頷いた。「私も腹が減っている」
ジュリアスが両手を掲げると、二つの魔法陣が同時に現れた。青と赤橙、互いに逆方向へ回転する。背後の空気は見えない熱波に歪み、膨大な熱量が引き抜かれて猛烈な速度で放出される中、彼の背後の草がわずかに焦げていく。
氷の結晶が彼の目の前の空気中に形成され始める。ゆっくりと、やがて速く、ジュリアスの頭の中に描かれた構造に従って自ら組み上がっていく。薄い花弁となり、幾重にも層をなし、そして大樹ほどもある一輪の蓮の花となって宙に浮かび、朝日を受けてきらめく光の帯を放っていた。
「咲いて、散れ」ジュリアスが声を張り上げた。《天華・氷河紀》
花が散っていく。
一枚一枚の花弁がゆっくりと縮こまり、折り重なり、滑らかな動きで姿を変えていく。まるで本物の花が夜に閉じていくかのように、ただし逆再生のように。形は丸みを帯びたものから細長く、柔らかなものから鋭く、静から動へと変わっていった。
一羽の氷の鳥が、まっすぐルシアスへと飛びかかる。
大きく広げた翼、その羽根の一枚一枚がメスのように薄く鋭い単結晶で出来ていた。空気抵抗を完璧に削ぎ落とした流線形の体は、風を切り裂きながらも一切の音を立てなかった。
ルシアスはそれが迫るのを見つめた。
片手を上げ、掌を前へ向ける。
《タイダル・フォース》
ルシアスの前方の空間が、肉眼では捉えられない形で変化した。それは、そこに飛び込んだものに何が起こるかを通してしか感じ取れないものだった。
氷の鳥がその空間に触れた。
潮汐力が鳥の頭部を前方へ引っ張ると同時に、尾の部分をその場に引き留める。氷の結合はその相反する二つの力に耐えきれず、空中で瞬時に砕け散った。
鳥はダイヤモンドのように煌めく細かな氷の粉塵となって砕け、空中に散らばり、地に着く前に消え去った。
ジュリアスは鳥が消えた場所をしばらく見つめていた。
「今回はお前の勝ちだ」彼は言った。
「毎回そう言っているだろう」ルシアスが手を下ろした。
二人は連れ立って家へと歩き出した。
突然、異様なまでに強い風が北から吹きつけた。丘の草がすべて一方向へとなびくほどの強さだった。
「そこまでだ」
声は上空から厳かに響いた。
二つの人影が空に浮かんでいた。風魔法で体を宙に留め、マントが風にはためいている。二人とも魔法管理局の制服を纏い、胸元の入れ子の円形の紋章が朝日を受けて光っていた。
「この一帯から異常な魔力を感知した」左側の人物が硬い声で言った。「王都近郊でこれほどの規模の魔法を展開した理由を説明していただけますか」
ジュリアスは空を見上げ、それからルシアスへと視線を移した。
ルシアスもジュリアスを見返す。
「お前が説明しろ」ジュリアスが言った。
「なぜ私が」
「お前は学院の講師だろう。その方が肩書きがある」
「先に魔法を使ったのはお前だ」
「だが最後に使ったのはお前だろう」
上空の二人は、この問答を何とも言えない表情で見下ろしていた。
ジュリアスとルシアスは、どちらが説明役を務めるべきかで、なおも言い合っていた。上空の二人はすでに地上に降り立っており、その表情は厳めしさから、自分たちが一体何を相手にしているのか分からないといった様子へと変わっていた。
しばらくして、二人はようやく事情を説明した。ルシアスは身分を証明するため、学院の教員証を差し出した。
「魔法管理法第三十七条により、王都周辺の安全圏内で災害級魔法を行使した場合、最大十年の禁固刑に処される可能性があります」抹茶色の髪をした人物が言った。
ジュリアスとルシアスは固まった。二人ともどうすればいいのか分からなかった。
「今回は負傷者が出ていないため、見逃すことにします」
『ルシアスという名の者に教えを乞うがいい、汝よ』
ゼファーはルシアスを見つめた。彼は今、管理局の二人に問い詰められている最中だった。
『あの者ならば、必ずや汝の望みを叶える助けとなろう』
ゼファーの動きが止まった。
(今のは、自分の考えじゃない。)
(断じて、自分の考えじゃなかった。)
ゼファーはそっと拳を握りしめた。
冷たいものが背筋を駆け抜け、現れた時と同じ速さで消えていった。
「……ゼファー?」
アイリスの声が、彼を現実へと引き戻した。
「え?」
「何ぼうっと突っ立ってるの、ぼうや? 見世物はもう終わりよ、朝ごはんにしましょ」
ゼファーは何度か瞬きをした。
「あ……うん」
台所はさほど広くはないが、焼きたてのパンと野菜スープの香りが部屋いっぱいに満ちるくらいには暖かかった。朝の光が窓越しに差し込み、木のテーブルの上に淡い黄色の筋を描いていた。
少し遅れて、ルシアスとジュリアスが入ってきた。
ジュリアスは腰を下ろすなり、すぐさまパンを手に取った。
「腹が減って死にそうだ」
ルシアスは小さく笑い、向かいの椅子を引いて腰掛けた。
それが、ゼファーがその男をまじまじと見た最初の瞬間だった。
青灰色の髪はうしろで綺麗にまとめられている。穏やかな顔立ちには、ほとんどいつも薄い笑みが浮かんでいた。
ゼファーの視線に気づいて。
「やあ。君がゼファーだね」
「はい」
「この家に足を踏み入れたからには」彼は茶を一杯注いだ。「大人しく言うことを聞かないと、君を食べてしまうかもしれないな」
ゼファーは一瞬、固まった。
ジュリアスが声を上げて笑った。
「おいおい、いい歳して子供いじめか」
ルシアスがゼファーへ視線を向けた。
「そんなに構えなくていい。この家の連中は見た目こそ物騒だが……実際に君を食べるのは、ジュリアスだけだから」
「おい、それはどういう意味だ」ジュリアスが言った。
アイリスは微笑みながら三人を見つめていた。
「何笑ってるんだ」ジュリアスとルシアスが同時に言った。
ゼファーは目の前の光景を見て、思わず吹き出した。
三人はしばらくゼファーを見つめていたが、やがて三人とも釣られて笑い出した。
笑い声が収まると、アイリスがカップを置いた。
「そうだ」彼女はジュリアスの方を向いた。「この一年、どこに行ってたの?」
ジュリアスの目がぱっと輝き、ゼファーへと向けられた。
「帰ってきたら、俺の冒険を聞かせてやるって約束しただろう。よし、腹ごしらえもできたし、語る元気も出てきた」ジュリアスはにやりと笑った。「さあ、俺の愉快な旅の話をとくと聞くがいい」
誰の返事も待たずに。
彼は両手をテーブルについた。
勢いよく立ち上がる。
「ここからだ!」
ジュリアスは椅子から飛び降り、部屋の真ん中まで下がった。
「北の山脈に足を踏み入れたその時――」
彼は両腕を大きく広げた。
「でっかい魔物が……」
ジュリアスは天井を見上げた。
「……これくらいでかいんだ!」
ジュリアスはコンロの上にあった木製のお玉を掴んだ。
「これが剣な」
そして今度はテーブル拭きの布巾も手に取った。
「で、こっちがそいつの尻尾だ」
彼はくるりと体を回転させ、布巾を空中で勢いよく振り回した。
「そいつが一撃食らわせてきて……」
ビュン!
「……あわや崖から吹っ飛ばされるところだったんだぞ!」
ゼファーは食事も忘れるほど夢中で見入っていた。
ジュリアスは語りながら演じていた。
ある時は森の中を逃げ惑うように身をかがめ。
ある時は椅子の上に飛び乗り。
またある時はテーブルに片足をかけ、自分にしか見えない巨大な魔物と対峙するかのように、お玉を高々と掲げた。
「そして俺が一撃を繰り出した……」
彼はお玉を勢いよく振り下ろした。
「……ドーン!」
テーブルが大きく揺れた。
そのままの勢いで、ジュリアスは食卓に飛び乗った。
アイリスがため息をついた。
「今すぐテーブルから降りて。みんなまだ食事中なんだから」
「最後まで話させてくれ」
「降りて」
彼女がテーブルを強く叩くと、先ほどよりも激しくテーブルが揺れた。
ジュリアスは数秒、彼女を見つめた。
「……わかったよ」
彼は素直に降りた。
ただ……足が床に着いた途端、まるで話を遮られたことなどなかったかのように、彼はまた演技を続けた。
ルシアスは静かに茶をひと口すすった。
口の端が、わずかに上がっていた。
そしてゼファーは――
何年ぶりだろうか。自分でも何と呼べばいいのか分からない感情――不思議なほど温かいその感覚を、久しぶりに覚えていた。




