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皐月 立夏 アスパラガス(前編)

 五月。

 僕は相変わらず店の中で季節感も曜日も日付の感覚もなく暮らしていた。


 店長のタトゥーは客を迎える度に消えていくのに対し、僕の首のタトゥーは一向に消える気配がない。

 何をやっても上手く行かなくて、希望を見出してもすぐに潰されて。

 僕はすっかり外に出ようとする気力を失っていた。


 そして再び十二日が巡って来た。


 今回は大量のアスパラガスが店のカウンターに現れた。

 朝食後、店長は下処理を始めた。

 袴と呼ばれる部分を包丁で丁寧に取り除くと、何を作るつもりなのか、ほとんどのアスパラガスをピーラーで薄くスライスしていく。

 僅かに残した数本を除き、残りのアスパラガスは斜めに切った。


「今日は何を作るん?」

 僕はカウンターに座ったまま、それをぼんやり眺めていた。

「のんびりしとる場合じゃないで。あんたもそろそろ掃除したりせにゃあ」

 店長は作業を続けながらそう言ったが、僕が動く気配がないのを察すると、手を止めて顔を上げた。

「……もうやる気を失くしたんか。諦めるんがちぃと早いんじゃないか?」

「だってぇ……」

(はよ)うこっから出てやらんといけんことがあるって()うとったじゃろ? それはもうどがぁでもええんか?」

 尾道まで勇気を出して来たのはある人に手紙を渡すためだった。

 住所しか手掛かりがない人にどうしても会いたかった。


 でも、会ったこともない人に会いに行く、というのは僕には無謀なことだったかもしれない。

 だから、こんな不思議な店に足止めされて、行くな、と神様が警告しているのかもしれない。

 僕が会いに行くことを諦めたら、出られるのかもしれない。

 最近はそんな気さえして来た。


 この手紙もずっと出さずに仕舞ってあったものだ。

 それを勝手に持ち出して渡そうとしたのは、やっぱり間違いだったのか。


「この店が本当に神様の店なら、僕をここに足止めしたのが神様の意思なら……僕がしようとしとったことを止めるために神様が僕をこの店に閉じ込めたんじゃろか? そうだとしたら、こっから(はよ)う出んといけん理由はなくなるんじゃけど……」

 僕は正直に店長に打ち明けた。

「この店が何のためにあるんかはわしにも分からんが……わしは心を軽うしてくれる場所じゃって思うとる。軽うなったら出られるんじゃ思うで」

「心が……軽く?」

「ここに来る客は、みんな心に何かしら抱えとったじゃろ? 飯食って心が軽うなって出て行く。ほいじゃが、わしは食わんかった。食っとっても……多分、わしは出られんかったぁ思う」

「なんで?」

「わしは……抱えとるもんが他の客より大きかったか、重かったか……飯で浄化できるようなもんじゃなかったんじゃろ。じゃけぇ、ここで他の客をもてなすことで、自分自身を見つめ直すことで少しずつ浄化して行けっていう……まあ、ここはそういう神さんの最後の慈悲みたいな、そんな場所なんじゃないかねぇ?」

 神様の最後の慈悲。

 そうなんだろうか。


「神さんは悪い行いも見とるが、善い行いもちゃんと見とってくれとるけぇ。失敗は成功の基っちゅう言葉があるじゃろ? どんな失敗も無駄じゃないし、意味がある。失敗から何も学ばんかったら、そりゃ無駄かもしらんが。誰じゃったか忘れたが、『私は失敗したことがない。ただ一万通りの上手くいかん方法を見つけただけ』って言うた人もおったけぇね。何回失敗してもその度に何かしらの学びがあれば、それでええんじゃないか?」

 店長はそう言って優しく笑んだ。

「なんでそんなに前向きでおれるん? こんな変な場所に閉じ込められとって、いつ出られるかも分からんのに」

「後ろ向きでおったら、余計悪くなるだけじゃろ? 前を向くしかないが。どんな時も諦めたらそこで終わりじゃが、諦めんかったらなんとかなるもんよ。何もせんこうおったら何も変わらんけぇね。神さんの意地悪でここにおる訳じゃないと思うけぇ、いつかは出られるじゃろ。このアスパラも見てみぃ」

 そう言って店長は袴を取った一本のアスパラガスを手に取って見せた。


「アスパラはな、常に上を目指して成長する野菜なんで。収穫後も横にしとったら、光を求めて穂先が上を向こうとして曲がったりするくらいじゃ。それにな、根元の方は硬いけぇ、そのまんまじゃ食べにくいけど、厚い皮を剥いでやりゃあ、中から瑞々しくて甘いとこが出て来るんで。捨ててしまうもんもおるが、上手いことすりゃ食べれる。それに疲労回復にもええ食材じゃけぇ、今日の客よりあんたにピッタリかもしれんな」

 店長はニヤリと笑んで、再び手を動かし始めた。

 確かにここでじっとしてても何も変わらない。

 なら、足掻(あが)くだけ足掻いてみよう。

 僕は席を立って、店の掃除を始めた。


 すると、程なくして店の戸が開いた。


「いらっしゃい」

「いらっしゃいませ」


 出迎えた今月の客は若い男性だった。


「あの、一時間で食事して駅まで戻れますかね?」

 男は店に入るなり、そう訊いて来た。

「料理は十分程度で出せるけぇ、大丈夫じゃ思うけど」

 店長が答えると、男は「それじゃあ……」とカウンターの真ん中に座った。


「メニューはなくて、今日はアスパラガスを使った料理になります」

 そう説明すると、男は「アスパラ?」と怪訝な表情になった。

「アスパラ、嫌いじゃった?」

 店長が不安そうに問う。

「いえ。好き嫌いはありませんが、メインの食材じゃないでしょう? 普通は肉か魚じゃないですか?」

「まあ、そうじゃね。副菜のイメージがあるアスパラじゃが、メインにもなることを証明しちゃろう」

 店長がニッと笑ってみせると、男も「楽しみですね」と笑った。


 僕は急いでお茶とおしぼりと箸を客に出した。

「あの、時間を気にされているようですが、こちらには……?」

 勇気を振り絞って話しかけてみる。

etSETOra(エトセトラ)って知ってる?」

 何かニュースで見た気がする。

 なんだっけ?

「広島と尾道の海沿いを走る観光列車なんだけどね」

 ああ、それだ。

「確かスイーツとかお酒が楽しめるんですよね?」

「そうそう。事前予約が必要で別料金だけどね。行きはスイーツ、帰りはバーが楽しめるんだけど、往復の時間が決まってるから尾道にいられるのは二時間程度なんだよね。ランチは付いてないから尾道で食べることになるんだけど、何食べようかとうろうろしてたらあっという間に一時間経ってしまって……」

「それでここにいられるのは一時間もないってことですね」

「そういうこと。尾道といえばラーメンが有名だけど、今日はラーメンの口じゃなくて。体に優しいものが食べたい気分だったんだ。昨日は仕事で……私、実は琴奏者で、昨日は演奏会だったんだ」


「琴っていやあ、福山が有名じゃいね?」

 店長が反応する。

「よくご存じですね。私の琴も福山で作って貰っているんですよ。琴は龍に見立てられてて、各部位の名称も『龍』が付くものが多いんです。私の苗字も『龍』に『泉』と書いて『龍泉(りゅうせん)』というんですが、元々違ったんですが、代々琴をやるので何代か前に改名までしてるんですよ」

 客の名前を知って、僕はやっぱり『龍』がつく、と前回気づいた法則に確信を得た。

 客の名前には干支の動物が入っている。

 そして、干支の順に店に来る。


「それじゃあ、家元ってことかいね?」

「ええ、まあ。そんなところです。琴は女性社会なんで、小さい頃から女性に囲まれて育ちました。そのせいか、男友達が少なくて……男しかいない今のこの空間はなんだか新鮮です」

 龍泉さんはそう言って笑った。

 が、その表情はどこか疲れて見えた。


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