卯月 清明 サヨリ(後編)
天ぷらを揚げる音が店内に響き、油の匂いが広がる。
サヨリの天ぷらはすぐに揚がるので、今日の一皿はすぐに出来上がった。
「おい」
店長に料理を盛り付けた皿を差し出され、僕は反射的に受け取った。
いつもは店長がカウンター越しに提供するのに、今日に限って僕に渡すなんて。
そう思って店長を見つめたら、ちょいちょい、と店長が首を指さした。
ああ、そうか。
接客をする機会をくれたんだ。
お盆に皿と醤油瓶を載せて運び、僕はおずおずと「お待たせしました」と皿をカウンターに置いた。
「サヨリのお刺身、天ぷら、握り寿司です。天ぷらはそちらの藻塩で、他はこちらの醤油をお使いください」
事前に店長から聞いてたので、料理の説明もできた。
でも、相変わらず女性は何も言わず、スマホをカウンターに置いて、食べ始めた。
気まずい。
話しかけるな、というオーラを纏って武装しているようで、店内には彼女が食事をする音だけが響いている。
「尾道にはお仕事で来んさったん?」
不意に店長が女性に話しかけた。
女性は食事する手を止め、不思議そうに店長を見上げた。
「……仕事、休んじゃった。ズル休み」
「たまにゃあ、そがぁな日も必要じゃいね」
「職場が広島駅の近くなんだけど、駅まで来たらなんか遠くに行きたくなっちゃって。会社に休むって電話して。で、なんとなく乗った電車で尾道で降りたの。特に目的もなく、うろうろしてたらお昼になって、お腹空いたぁって思ってたらこの店を見つけたってわけ。でも、ズル休みはしたけど、別に会社で何かあった訳じゃないの。ホント、ただなんとなくでこんなとこまで来ちゃったの」
そう言って彼女は不意に僕を見た。
「ねぇ、あなた。平日の昼間にバイトしてるってことは大学生?」
問われて僕は答えに少し詰まった。
大学生じゃない。
そう答えたら高校生かと訊かれる。
でも、高校生でもない。
僕は中学三年の終わりから三年間引きこもってた。
一応卒業だけはできたけど、高校は受験してない。
大学も勿論、受験しない。
「こいつもズル休み中じゃ」
俯いてしまった僕に代わって、店長がそう笑った。
ざわついた胸が店長の言葉で少し落ち着いた。
けど、彼女の目はその嘘を見透かすように真っ直ぐ僕を見た。
「会社って学校とは違うと思ってた。実際、そりゃ違うんだけどね。でも、人間関係ってところはそう変わらないのよね。私ね、転職三回してるんだけど、お陰で悟ったわ。別に無理に同僚やクラスメイトと友達になる必要はないって。たまたま同じ部署、同じクラスになっただけ。卒業するまで平穏無事に過ごせれば、それでいいのよ。だけど、やたらと『協調性』を主張してくる人が多いじゃない? なんか友達にならないとダメみたいな。輪を乱すのは良くないと思うけど、だからって不必要に仲良くする必要もないと思うのよね。そう思わない?」
彼女に問われ、僕はコクコクと首を縦に振った。
彼女の言葉がストン、と僕の中に落ちて来て、心の奥底にあった錘が少し軽くなった気がした。
さっきまで無口だった彼女が打って変わって喋り始めた。
いや、語り始めた。
「でも人って見た目でしか判断しないっていうか、できないからさ。こうやってコスプレしてんの」
「コスプレって……?」
店長が小首を傾げる。
何かのキャラクターを真似ているのか。
僕には東京のセレブな女性にしか見えない。
「ハイブランドを身に着けた若い社員って周りはまず引くのよね。無駄に話しかけられないし、飲み会も誘われない。例え誘われても、普通は一番下のペーペーが断ったら上の世代には多少角が立つのよ。でも、私みたいなのはどうせ来ないだろうって初めから思われてるから、断ってもなんとも思われない。だから、これは私にとっては単なるコスプレなの」
コスプレだと彼女は言うが、それは武装してるってことじゃないかと思った。
「このバッグも本物なんだけど、最近はレンタルできてそんなに高くないのよね。しかも何個もとっかえひっかえできるから、結構便利なのよ。ただ、靴はねぇ……」
そう言って彼女は視線を足元に落とした。
高そうな服に似合わない薄汚れたスニーカー。
「男には分かんないだろうけど、通勤で毎日履くのにハイヒールは疲れるのよ。だから、社内で履き替えてるんだけど、靴は値段もヒールも高いのは私には向かないわね。スニーカーが一番楽だし、雨も気にせず履けるし……」
そう言って彼女は僕に笑顔を向けた。
「なんだか話したらスッキリした。ずっとお腹の中がモヤモヤしてる気分だったの。会社に行く度にお腹の中に何かどす黒いものがどんどん溜まっていくような気がして……きっとこんなコスプレして自分を偽ってたせいね。気持ちを楽にするために違う自分を演じてたのに……失敗しちゃった」
明るい声とは逆に彼女の笑顔は少し寂しそうに歪んだ。
が、すぐにその目に明るさが戻る。
「そうだ。せっかくだから尾道観光して帰ろうと思うんだけど、千光寺以外にこの辺のオススメスポットってどこ?」
尾道といえば千光寺公園の桜が有名だ。
ロープウェイがあるが、上りはロープウェイ、帰りは歩きという人も多い。
道中にカフェなどもあって、散策する楽しみもある。
小さい頃に一回だけ両親と花見に行った記憶があるので、それは僕も知っていた。
僕の尾道の唯一の思い出だ。
「千光寺以外って言われるとなぁ……ま、千光寺の桜は見頃を過ぎとるじゃろうけぇね。他っちゅうたら商店街じゃろか。食べ物の店は割と知られた店が多いし、猫の町じゃけぇ猫の絵がついたもんが多いが……あとは駅周辺が割といろいろ新しいもんがボコボコできとって若いもんに人気らしいで」
店長は自分もまだ『若いもん』の範疇だと思うのだが、前回高校生に『オジサン』と呼ばれたのを気にしてるのか、それともやっぱり中身が本当にオジサンなのか、年上目線でそう言った。
「他にないの? 尾道は初めてじゃないから、駅周辺はだいたい分かるし。地元だから知ってる穴場スポットみたいなの」
そう言って彼女の視線が僕に向く。
「あ……僕はその……地元じゃないんで」
「そうなの? 地元じゃないって言ってもここで働いてるんでしょ?」
「こいつは最近ここに来たばかりじゃけぇ。それより穴場かどうか知らんが、回せたら願いが叶うっちゅう願掛け石がある寺あったな。千光寺以外にもあちこち寺があるけぇ、行ってみんさい」
「願掛け石? 回せたらってどういうこと?」
「本堂の前に大きな石があるんよ。普通に回しても回らんが、確か持つ位置と力の入れ方がコツじゃって聞いたことがあるな。腰で回すんじゃって誰かが言うとったわ。あと、あっこは御守も作れたんじゃなかったかのう?」
「えっ? 自分で御守作れるん? やってみたぁい」
前のめり気味に目を輝かせる彼女に「地図描いちゃる」と店長は店の奥から紙とペンを持って来て、彼女の隣に座って説明しながら地図を描き始めた。
紙とペンを見て、僕はエプロンのポケットにそっと手を入れる。
中には親へ宛てた手紙、というよりメモ書きがあった。
僕が今、尾道にいること、そして事情があってしばらく家に帰れないことを書いた。
僕の家の住所も書いてある。
それを彼女に託そうと考えていた。
でも、どう切り出してどうお願いしたらいいのか、言葉が見つからなかった。
それに彼女の笑顔を見ていたら、なんとなく頼み辛くなってきた。
だけど、この機会を逃せばまた一カ月後。
それに親が心配してるだろうし、僕も家のことが心配だった。
渡して頼もう。
そう決意した瞬間。
触れていた紙の感触が消えた。
ポケットの中を探る。
中を覗き込んでもみた。
が、さっきまで確かに手に触れていた紙は跡形もなく消えていた。
僕は顔を上げ、店内を見回した。
見られてるんだ。
ポケットに突っ込んだ手が僅かに震えた。
僕の行動だけじゃなく、心の内も見透かされている。
外との連絡手段はどんな形であろうと許されない。
それを思い知らされた気がして、僕は足元から崩れ落ちそうになるのを必死で耐えた。
僕がそんな絶望に襲われている間に彼女は店長から地図を貰い、その上途中だった食事も終えていた。
「ごちそうさまでした。お幾らですか?」
彼女の声で我に返る。
まだ接客中だった。
「お代はいらんよ」
「え? いらないって……もしかして私に同情してくれたから?」
「違う違う。うちは誰からもお代を貰っとらんけぇ。完食して満足してもらえりゃ、それが何よりのお代じゃけぇ」
店長の言葉に彼女は疑いの目を向けていたが、やがて「じゃ、そゆことで」と席を立った。
「改めてごちそうさまでした。本当に美味しかったです」
そう言って彼女が深々とお辞儀をしたので、僕らも「ありがとうございます」とお辞儀をした。
「じゃ、今から教えて貰ったお寺に行ってみるわ。お店は何時まで?」
「もう閉めるが?」
「えー、帰る前にまた寄りたかったのにぃ」
「せっかくのズル休みを満喫せにゃ。うちに寄る時間が勿体ないが」
店長が笑うと彼女も笑った。
「それじゃ、行って来ます」
そう言って彼女が店の戸を開けると、雨は止んでいた。
そして、抜けるような青空が広がっていて、どこからか風が花弁を数枚運んで来た。
桜は既に散ってしまったと思っていたのに、まだどこかで咲いていたのだろうか。
一カ月振りに見た外の景色はすっかり春らしくなっていた。
そこに踏み出して行く彼女の顔も晴れやかで、来た時の冷たい印象は全くなかった。
大きく手を振って、店の戸が閉まる。
閉まった瞬間、「あっ」と気づく。
彼女の忘れ物に。
壺に入った彼女の傘。
どこにでもあるビニール傘にはキーホルダーが付いていて、そこには『兎川』と名前が書かれていた。
が、それを手に取ろうとした瞬間、傘もすーっと跡形もなく消え去った。
「また消えんかったな。今日は頑張ったのにな」
店長が憐みの目を向けて、自分の首を指さした。
「店長は?」
「わしはまた消えたぞ」
嬉しそうに左腕を見せてくれた。
手首から肘にかけて蔦のタトゥーが消えていた。
そういえば、牛尾さん、虎田くん、そして兎川さん。
みんな動物の名前がついている。
そして、僕も子守の『子』はネズミだ。
あれ?
ってことは、これって……
「店長、この店って……」
本当に神様がいるのか、そう訊こうとして止めた。
店長はそんな僕を見て、「わしらも昼飯にするかの」とぽんぽんと背中を叩いて促した。
それがまるでスイッチだったかのように、突如僕の目から涙が零れ落ちた。
いつになったら店から出られるのか。
親は今、どうしているだろう。
客が満足したら出られる。
接客が上手くできたら出られる。
出られなくても手紙を渡すことならできるかも。
そういう希望が悉く消えていって、もうここから一生出られないのかもしれない。
そう思ってしまったら、涙が溢れて腕で拭っても止まらなくなった。
店長はただ僕をそっと抱きしめて、何も言わず優しく背中をさすってくれた。
その手はとても温かく、春の陽だまりのようだった。




