師走 大雪 慈姑(前編)
十二月。
先月、店長に母からの手紙を渡したけれど、店長はまだ手紙を読んでいない。
読む資格がない、と言って手紙はレシピ本に挟まれたままになっている。
母から祖父母は死んだと聞かされて育った。
でも、目の前の店長は僕の祖父で、その祖父は亡くなってもうすぐ二年が経つと言う。
「あんたがここへ来た時に『子守』と名乗ったじゃろ? 珍しい苗字じゃけぇ、もしかしてとは思っとったが……」
ってことは、店長は初めから僕が孫かもしれないと疑ってたんだ。
店長が名前を言いたがらなかったのは、祖父だと気づかれたくなかったから?
「わしは娘とは喧嘩別れしたまんまじゃったけぇね」
「喧嘩って……?」
「娘が……あんたのお母さんがお父さんと結婚する言うた時、わしは反対したんよ。今はどうか知らんが、写真家になるって言うとってな。じゃけど、写真で飯が食えるんはほんの一握りじゃろ。しかも、お父さんは早うに両親亡くして、お婆さんに育てて貰うとったみたいじゃが、そのお婆さんも大学生の時に亡くしとってじゃけぇね。家族がおらんけぇ、苦労しとってのは分かるし、偉いとも思うが……大学は中退しとるし、金もないような男に娘を嫁がせるんは苦労するんが目に見えとるけぇ。いくらええ人じゃ言うても、親としては認められんかったんよ。それで大喧嘩して、娘は家出して……絶縁状態のまんま、一度も会わずにわしはここにおる」
母が家出をした理由も、祖父が結婚を反対した理由も初めて知る。
店長が以前言った「娘がおったよ」の娘は僕の母のことで、過去形だったのは絶縁したからだったのか。
「あんたがここへ来たんは……やっぱり神さんの思し召しじゃろか。わしに罪を償う機会を下さったんじゃろか」
店長はそう呟いて、それきりこの話はしなくなった。
先月の十二日に店長のこと、手紙のことをいろいろ話した。
でも、その翌日から店長は何か考え込む様子が増えて、なんとなく話しかけにくい雰囲気になった。
見た目は三十代にしか見えないのに、実際は還暦をとっくに過ぎた僕の祖父で、そして、この世の人ではない。
そして今日、十二月十一日。
話題はいつものように明日のこと。
「店長の予想通りだったら、明日は店長が客になるけど……食材は何だと思う?」
「ワニのような気がするが……」
「ワニッ?」
「ワニを知らんか? まあ、県北の方でしかあんまり食べんけぇね。あのワニじゃのうて、サメじゃ」
微妙にイントネーションが違う。
「サメ? サメをワニって言うん?」
「ネズミサメじゃったか……なんか種類があるんよ。だいたい冬に食べよったと思うんじゃが、正月によう見る気がするのう」
「そういえば、テレビで見たことがあるような気もする」
「最近じゃ、この辺でもたまにスーパーで売っとることもあるけぇね」
「美味しいん?」
「わしは好きじゃが、癖があるけぇ、好みは分かれるかもしれんのう。刺身で食べると意外とあっさりしとるんじゃが。昔は冷蔵庫なんかないけぇ、山の方じゃ傷みにくいワニが重宝されたんよ。刺身で食える魚は貴重じゃったけぇね」
「へぇー。でもなんでワニって言うん?」
「わしも良う知らんが、サメ類を昔からワニって言うとったらしいで。その名残じゃろうが、本当かどうかは分からんね」
ちょっと食べてみたいような気もしてきた。
でも、ワニだったら僕には捌けない。
店長が客なら、僕が店長の役をしなくてはいけない。
なので、ワニではありませんように、と密かに願った。
十二日の朝。
その願いが通じたのか、カウンターに置かれていたのは見慣れぬ野菜だった。
「慈姑じゃね」
「慈姑って……おせちに入ってるやつ?」
「普段はあんまり食べることないけぇね。素揚げか煮込むかぐらいしかせんけど、炊き込みご飯とか田楽もええね」
店長が何を作ろうかと腕を組んだところで、紙が一枚、ひらりと落ちて来た。
『子守が猪原に一皿作ること』
その指示に僕は「えっ」と声を上げると同時、やっぱり、とも思った。
毎日店長と一緒に料理をするようになったとはいえ、まだ一人で客に出せるような代物は作れない。
「素揚げだけでええよ。手は出さん方がええ思うが、口は出してもええじゃろ。油使うが、味付けもいらんけぇ、大丈夫じゃ」
そう言われても、揚げ物ってなんだかレベルが高そう。
それにこの慈姑、切りにくそう。
僕が手に取って慈姑を睨みつけていると、店長がニヤリと意地悪く笑う。
「それはな、芽の部分を切ったらいけんよ。慈姑は芽が出るけぇ『めでたい』って意味がある縁起物じゃけぇね。それに出世や子孫繁栄、長寿の意味もあった思うで。じゃけぇ、おせちに欠かせんのよ」
この芽の部分を残すとなると、さらにハードルが上がる。
「大丈夫。素揚げにするんなら、皮も剥かんでええ。綺麗に洗って水気を切ったら、そのまま揚げるだけじゃけぇ」
眉間に皺を寄せる僕に店長が楽しそうに笑った。
でも、それじゃ手間がかかってない。
初めて店長に作るのに素揚げだけなんて……
「そがぁに心配せんでも、しっかり水気を切りさえすりゃ、油跳ねも怖いこたぁないけぇ」
「ち、違うよっ。素揚げだけじゃ、つまらん思って……」
「さえんこたぁないよ。あんたが一人でわしのために作ってくれるんじゃけぇ」
「素揚げだけじゃ、お腹空くじゃん」
「感慨深うて、それだけで腹も太うなるよ」
店長になんだかんだ言いくるめられ、僕はとりあえず慈姑の素揚げを作ることにした。
めでたいって意味の慈姑が店長に用意された食材なら、店長はこれで店を出られるってことなのか。
それにしても長寿という意味もある慈姑を既に亡くなっている店長に出すのはどうかとも思う。
僕は複雑な気持ちで慈姑を一つ一つ丁寧に洗った。
「店長はなんで若い姿なん?」
洗った慈姑を今度は一つ一つ綺麗に拭きながら、ふと疑問に思ってたことを訊いてみた。
「さあなぁ? 爺さんの姿だとあんたにすぐわしが誰か分かってしまうけぇかねぇ?」
「写真とか見たことないけん、顔も知らんかったけど? それに分かったらなんで駄目なん?」
「わしも孫の顔は知らんかったけぇ、あんたが来た時、まさか孫じゃとは思わなんだが。一月にすぐにお互いが誰か分かってしもうたら、手紙を渡して終わりじゃったろ? そうならんかったのは……やっぱりわしの裁判のせいじゃないかと思う」
店長は真面目な表情でそう言った。
「前から裁判、裁判って言うけど、三途の川とか閻魔様とかって本当なん?」
死んだらどうなるのか。
誰もが死ぬまで分からない永遠の謎。
それを祖父から直接聞けるのは貴重だ。
「わしは死んで町を歩いとったら、この店が気になってな。入ってみたら、急に戸が閉まって出られんようになったんよ。死んだらなんも触れんようになったのに、ここじゃ生きとる時と同じで、感覚がある。戸にも触れたが、びくともせん。そうしょうったら紙切れが降って来て、料理を食べろと書いてある。カウンターを見たらご馳走が並んどって、ええ匂いもした。じゃがな、こがぁな得体の知れん場所で得体の知れん物を食べたら、悪いことになるっちゅう昔話を思い出してな。食べんっと宣言したら、今度は店長になれと書いた紙が降って来た。それで、ここにおるんよ。じゃけぇ、わしは三途の川も見とらんし、閻魔様にも会うてない」
思ってたのとは違う答えに僕はいつのまにか止まっていた慈姑を拭く手を再び動かす。
「じゃあ、なんでこれが裁判だって思うん? それに裁判するのって神様じゃないよね?」
「こがぁなことができるんは神様じゃとわしは思うとったが、最近になって裁判かもしれんと思うたら、ここにおってのは十王じゃろうのう」
「十王?」
「閻魔様もその十王の一人で、確か……五番目くらいじゃったかのう?」
「最初か最後だと思ってた」
「十王の中で閻魔様だけが有名じゃけぇね。わしも詳しゅうは覚えとらんが、確か三回忌で十王の裁判が終わるんよ。それ以降の法要はご先祖様の仲間入りするために行われるもんじゃったような……?」
店長は顎を掻きながら、思い出すように斜め上に視線をやったが、すぐに視線を戻して真面目な顔に戻る。
「あとこれはわしの勝手な想像じゃけどな、一周忌の行いの結果、孫をここへ連れて来てくれたんじゃないかぁ思う。ほんで、一緒に一年を過ごして次の三回忌でわしは最終判決が出るんじゃろ。娘からの手紙もその時に読むんがええと思う。本当じゃったら、手紙を読むことも孫の顔を見ることもできんかったんじゃけぇね。その機会を下さったっちゅうことは、ここでの行いにそれなりの評価が付いたってことじゃろ」
店長はそんな風にここでの生活を解釈してたのか。
「じゃあ、僕は完全に店長の裁判に巻き込まれただけってこと?」
店長は答えずにただニッと意地悪く笑みを浮かべた。
「わしがそう思うとるだけで、実のところは分からん。神さんかどうかも分からんし、ここが何なのかも答えてんないけぇね」
確かに。どれもこれも想像でしかない。
再び慈姑を拭く手が止まる。
そして、首に手を当ててみる。
「……今日で店長はこの店を出られるかもしれん。でも、僕は? 店長の裁判に巻き込まれただけなら、僕も一緒に出られると思う?」
「そりゃそうじゃろ。神さんの課題をきちんとこなしゃあ、出られる。今日のためにあんたの刺青は消えんかったんじゃあ思うで」
「そう……なんかな?」
「それ全部拭いたらお茶にしようや。昼飯まではまだ時間があるけぇ」
下ごしらえが一段落したところで、僕達はカウンターに並んで座り、ほうじ茶を淹れた。
昨日の夜、ふと思い立って焼いた愛宕梨のパウンドケーキを切り分けて出す。
愛宕梨は普通の梨の倍くらいの大きさで、普通の梨が夏に旬を迎えるのに対し、愛宕梨は冬が旬らしい。
水分が多く、穏やかな甘さで香りも控え目だ。
それを角切りにしてキャラメリゼして甘さを足し、パウンドケーキにした。
店長の誕生日が十二月だったのを思い出し、もしかしたら十二日にこの店を出ていくのかもしれない。
そう気づいたら、もう一緒にお祝いする機会はないのだと、無性にケーキを焼きたくなった。
キャラメリゼしてもシャリ感の残る梨の食感と甘さをほうじ茶の香ばしさが包み込み、穏やかで平和な時間が流れる。
二人共黙って茶を啜り、その時間を噛み締めるようにケーキを頬張った。
そして、ケーキを食べ終えて一息ついてから店長がやっと口を開いた。
「……ちょっと聞いてみるんじゃが、あんたのお母さんは……その、普段はどんな風に過ごしとるん?」
店長はとてもぎこちなく僕を見た。
「最近は……僕も部屋に閉じこもってるからあんまり分からないんだけど……」
「ああ、そうじゃったの」
「でも、優しくていつも笑顔で毎日楽しそうに過ごしてるよ。物心ついた頃からあんまり怒られたこともないし。父さんとは未だに新婚みたいに仲いいし」
「そうか……幸せそうか」
「うん。僕も家にいる時は幸せだよ。でも、自分でもよく分からないんだ。なんで学校に行けなくなったのか……ただ、お昼に一人で母さんが作った弁当を食べるのを想像したら……」
「そうか。確かにあんた見とったら、両親が良え人なんじゃろうなって分かるわ。良えように育てて貰うたの」
店長はそう優しく目を細めて僕の背を撫でた。
それから僕らは母について話した。
僕は小さい頃、貧乏だったので遊園地に行けずに家族と近くの公園でピクニックをした話を。
店長は母が小さい頃、家族でよく瀬戸内の島々で遊んだ話を。
たくさん話していると、あっという間に時間が過ぎ、ケーキを食べたのに僕のお腹がぐぅっと音を立てた。
「ほいじゃあ、腹時計が鳴ったけぇ、慈姑を揚げようかの」
笑いながら店長に促され、僕は重い足取りでカウンターの向こう側へ回った。
店長と過ごす時間の終わりが迫っていた。




