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師走 大雪 慈姑(後編)

 じゅわっと揚がる油の爆ぜる音だけが店内に響く。

「水気をしっかり切っとるけぇ、油はそんなに散らんじゃろ。じゃけぇ、もちっとしっかりしゃんと立ちんさい」

 店長に言われ、無意識に自分がへっぴり腰になっているのに気づいた。

 だけど、油が跳ねる度に一歩引いてしまう。

「そろそろええんじゃないか?」

 店長に言われてカラッと揚がった慈姑を箸で掴もうとするも、上手く掴めず、そうこうしてると油が跳ねて……

「熱っ」

「恐る恐るやるけぇ、余計ども油が跳ねるんじゃないか? 腹括ってパッとサッと取りんさい」

 店長に叱咤されながら、僕は思い切って慈姑を掴む。


 油を切って皿に盛り、藻塩を添えた。

 今までで一番シンプルな一皿が出来上がった。


 カウンターに座る店長の前に出すと、じっと見つめてから静かに両手を合わせた。

「いただきます」

 そう言って箸を手に取り、藻塩をつけて慈姑を口に運ぶ。

 熱いので、はふはふと言いながらも美味しそうに食べる姿に思わず唾を飲み込んだ。


 店長は何も言わず、ただ黙って食べ進める。

 僕はただそれを横でじっと見つめていた。


「ごちそうさまでした」

 箸を置いて手を合わせた店長は「美味しかったよ」と僕の方を向いて笑顔を見せた。


「タトゥー、消えた?」

 僕が問うとシャツを捲って腹を見せてくれた。

 そこにはまだタトゥーがしっかりとあった。

「店長が店を出たら消えるんかね?」

「タトゥーがあったら出られんじゃろ」

「試してみようよ」

 僕が促すと渋々と言った感じで立ち上がり、戸に手を掛けたが、びくともしなかった。


「まだ何かせんといけんことが残っとるんじゃろうなぁ」

 そこで僕は「あっ」と声を上げた。

「手紙っ。まだ読んでないでしょ?」

「ああ……」

 店長は暗い表情になる。

「読まないの?」

「わしはもう死んどるし、娘も出す気はなかったんじゃろ? あんたが届けんかったらわしは読むことはなかったもんじゃ。それを……神さんの前で読んでもえんじゃろうか?」

 店長はそんなことを気にしていたのか。

「いいに決まってるよっ。僕がここにいるってことは見ていいよってことなんじゃない? だって、神様は僕が牡蠣が食べれないの知ってて店長に牡蠣を出させたんでしょ? それって手紙を見せるために僕をここに閉じ込めたってことじゃない?」

 僕の言葉に納得したようで、店長は「確かに」と呟いて、レシピ本を取りに行った。

 そして、そこに挟んでいた手紙を取り出し、カウンターに置いた。


 僕は既に中身を読んでいる。

 家の中で手紙を見つけた時、封筒に尾道の住所だけがあって、なんだろう? と思って好奇心から勝手に中身を見た。

 一枚目は祖母へ、二枚目は祖父へ宛てた内容が書かれていた。

 祖母とはスマホで連絡を取り合っていたようで、突然連絡が取れなくなったので、心配になって手紙を書いた、という出だしから始まり、僕が学校に行かなくなったという近況が少し書かれていた。

 祖父には子供を持つ親となって初めて親心が分かるようになったとあり、祖父がなぜ結婚を反対したのか、今なら少しは分かると書いてあった。

 その上で子供に祖父母が本当は生きていることを話し、会わせたい、だからその前に会って仲直りをしたい、と書いてあった。


 だから、僕はこの手紙を祖父母に届けたいと思って、尾道に来た。

 母はきっと出したいけど、出す勇気がなかったんだと思う。

 長い間、会ってないと例え家族でもどう接していいか分からなくなるんだと思う。

 だから、僕が代わりに届けないとって思ったんだ。


 店長は少し躊躇ってから、手紙を読み始めた。

 少しして手紙を持つ手が震え、それから眉間を摘まんで涙を堪える様子を見せた。


「もちっと(はよ)う……いや、もちっと娘の目を信じてやりゃあ良かった」

 店長は俯いて声を震わせた。

 そういえば、手紙には僕の父がどんなに素晴らしい人か、そして今どんなに幸せかということも書いてあったんだった。

 僕の父はプロの写真家で、著名人から指名が来ることもある。

 それに家族を大切にする人で、家族をテーマにした写真でも名が知られている。

 店長に反対された当時は無名で、アルバイトをしながら生活していたようだが、写真で飯が食える一握りの人間になっている。


 しかし、手紙を読み終えても店長のタトゥーは消えなかった。

 僕のただ揚げただけの慈姑にも満足してくれたはずだけど。

 今までの客は料理に満足し、心の重荷を話してスッキリして帰って行った。

 そこでふと店の片隅に置かれた箱が目に留まった。


「筆っ!」

 僕は声を上げた。


「巳岡さんがくれた筆、手紙の返事を書けってことだったんじゃない?」

 何を書いても何も起こらなかったけど、このことを神様は言ってたんだ。

 そう確信した。

 店長も納得した様子で片隅に置いていた箱を取りに行く。

 そして店長が箱から筆を取り出すと筆先に墨が滲んだ。


『この筆で書け』


 あの答えが分かった。


 紙に筆を走らせる。

『娘へ』と達筆な文字で書く。

 が、そこで手が止まる。


「……どうしたん?」

「なんて書いたらええか……思いつかん」

「返事なんだから、書いてあることに対して答えたらいいんじゃない?」

「それは分かっとるが……」

 眉間に皺を寄せて悩む店長の姿を僕はじれったくなった。


「まずはおばあちゃんが連絡できなかった理由を書いたら? スマホを水没させて買い換えたせいで、データが飛んで連絡先が分からなくなったんでしょ? 僕の家の正確な住所も知らなかったから手紙も出せなくて、それで店長が亡くなったことも伝えられなかったって。新聞に載せることもできたけど、そこまで気が回らなかったって」

「でもそりゃ言い訳になるけぇ……」

「言い訳じゃないよ。事実じゃん」

「そんなことより、わしが死んどることを書かんといけんが、死んだもんが手紙を書いとるなんて信じられんじゃろ? 詐欺じゃと思われるんじゃないか?」

「僕がいるじゃん。僕が説明するよ」

「引きこもりのあんたが?」

「……そんなこと言うなら、渡さんよ?」

 僕が拗ねると「すまん、すまん」と店長が慌てた。


「伝えたいことは言葉にしないと。店長には伝える手段が手紙(コレ)しかないじゃん。思っとることは全部書いて、心残りを無くさないと」

「そうじゃの。あんたの言う通りじゃ。そのために神さんがくださった機会じゃけぇね。無駄にしちゃあいけんね」

 店長はそう言って、筆を握り締めた。

 それからは時々言葉を探して手が止まることはあったけど、黙々と筆を走らせた。


 しばらくして筆を置いた店長がお腹に手を当てた。

 そして、シャツを捲ってみると、タトゥーは消えていた。

 僕と店長は顔を見合わせ、次いで店の戸を振り返ると、戸がカラカラと音を立てて、勝手に開いた。


 出られる。

 それはずっと願っていたことだった。

 でも、それは同時に店長との別れを意味している。

 ここを出たら二度と会えない。

 せっかく僕の祖父だと分かったのに。

 店長も同じ気持ちのようで、なかなか椅子から立ち上がろうとしなかった。


「……これをあんたのお母さんに渡してもらえるか?」

 しばらくして、店長はそう言って書き終えた手紙を僕に差し出した。

 僕は「分かった」と頷いたものの、手紙を受け取るのを躊躇(ためら)った。

 受け取ったら、店長はきっと店を出て行く。

 店長はそんな僕の手を取って、手紙を僕の手に乗せた。

 その瞬間、僕の首に僅かに鈍い痛みが走った。

 反射的に片手を首に当てる。


「あんたのも(ようや)く消えたの」

 店長の言葉で僕の首のタトゥーが消えたのを知る。

 僕も店を出られるんだ。


「ほいじゃあ、一緒に出ようか」

 席を立つ店長を見上げる。

「そんな顔せんこう。お盆には会いに行くけぇ、酢蛸の一つでも供えてくれりゃあ……」

 そう言った店長も笑顔だったが、どこか寂しそうだった。


 そこに天井から紙がひらり、と落ちて来た。


『本日を()って、閉店する』


 ただそれだけが書かれていた。


 僕はここに来た時と同じ服に着替え、リュックだけを持って、店の戸の前に立った。

 リュックには店長の手紙を入れてある。

 店長は何も持たず、服もそのままだった。


「もっと話したかった」

「一年も一緒におって、えっと話したが」

「でも、僕のおじいちゃんとしてじゃないじゃん」

「これからも話してくれりゃええが。ちゃんと聞いとるけぇ」

「それじゃあ独り言じゃん」

 俯く僕の頭を店長は黙ってぽんぽんと撫でた。

「お母さんとお父さんによろしゅう伝えて。あんたも頑張りんさい」

 その言葉に僕は我慢していた涙が溢れて止まらなくなった。

 そんな僕の背を優しく撫でながら、軽く押された。

「そろそろ行こうか」

 店長に促され、僕は袖で涙を拭い、一歩踏み出した。

 店を出て周囲を見回す。

 店長の姿は消えていて、店の戸は容赦なくピシャリと閉まった。


 一陣の風が吹き抜け、その冷たさに思わず両手で体を抱きしめた。

「店長……」

 呟いてみるが、返事はない。

 吐く息の白さに外に出た実感が湧く。

 僕は坂道をゆっくり下り始める。

 遠くに海が見える。


 駅まで辿り着いて、人の多さに困惑した。

 ずっと店長と二人きりだった。

 それまでは部屋に一人きりだった。

 外に出るのが怖かったのに、割と平気な自分がいて驚く。

 電車が動き出すと、遠ざかっていく景色にまた涙が出そうになってぎゅっと目を閉じた。


 アラームの音で目を覚ます。

 うっかり寝てしまった。

 電車って座ってるのに寝心地が良い。

 ん? アラーム?

 僕は上体を起こす。

 自分のその行動に周囲を見回す。

 そこに広がる光景は電車の車内ではなく、僕の部屋だった。

 しかも尾道のあの家の部屋じゃなくて、広島の自分の部屋だった。


 スマホを探して、画面を見る。

 そこに映し出された日付は僕が尾道へと出発した一月十二日だった。

 時刻は朝七時。


「夢……?」


 (にわ)かに尾道が夢だったのか、今が夢なのか判断できなかった。

 尾道で過ごした一年間が長い夢だったとはとても思えない。

 でも、ベッドの感触、この部屋の空気も夢とは思えぬほどリアルだった。

「そうだ、リュック」

 僕は尾道に持って行ったリュックを探した。

 部屋の片隅に転がっていたのを見つけて中身を探る。

「……あった」

 取り出したのは一通の手紙。

 母が祖父母に宛てた手紙が。

 いや、違う。

 封筒がなく、剥き出しの状態の手紙を急いで広げる。

 それは母が書いた物ではなかった。

 筆で書かれた見覚えのある字。


 店長が、祖父が書いた手紙だった。


「夢じゃなかった……」

 僕は手紙を手に急いで部屋を出た。

 僕が見た長い夢を母に話そう。

 この手紙を見せればきっと信じて貰えるはずだ。

 そして、今日ならもしかしたらあの店にまた行って、祖父に会えるかもしれない。

 そんな希望と期待を胸に「母さんっ」と叫んで、キッチンに飛び込んだ。


 トーストを焼く香りが漂う中、朝食を用意する母の姿があった。

 僕の様子に驚いた表情になる。

「母さん。今日、尾道に行かない?」

 僕の言葉に母は涙ぐんだ。

 引きこもりだった僕が突然外に出ようと言うのだから。

「あのね、信じられないかもしれないけど……」

 僕はそう言って手紙を差し出した。


 だが、母は手紙を受け取らず、僕をぎゅっと抱きしめて、静かに涙していた。


「母さん、今日なら会えるかもしれないんだ。だから急がないとっ」

 感慨に耽っている時間はない。

 お昼までに尾道に行かないと二度と会う機会がないかも。

 僕が必死に訴えると、母は涙を拭いながら怪訝な表情で僕を見た。

「これ、おじいちゃんからの手紙。母さんが出さなかった手紙の返事なんだ」

 母はとりあえず手紙を受け取ったものの、僕と手紙を交互に見、戸惑っていた。

 無理もない。

 ずっと引きこもっていた息子が突然部屋から出て来て、あり得ない話をしているのだから。

 でも、母は黙って手紙を開いた。

 そしてすぐに驚いた表情で僕を見た。

「これ……どうしたん?」

「信じられないかもしれないけど、僕はおじいちゃんに会ったんだ。でも、会えるのは今日しかないかもしれなくて……とにかくお昼までに尾道に行かないとっ」

 僕のただならぬ様子に母は「分かった」と尾道に行くことを了承してくれた。


 電車の中で手紙を読み、母は声を押し殺して泣いた。

 母は読み終えた手紙を大切そうに胸に押し当てていたので、手紙になんて書いてあったのか分からない。

 けど、多分、絶縁したことを後悔していること、そして既に亡くなっていることが書いてあったんだと思う。


 そして、尾道駅に着いた僕達は祖父の家に向かうのではなく、僕が迷った道を一緒に歩いた。

 あの食堂を探して。


 路地裏を歩いていたのにいつのまにか坂の上にいた。

 確かこの道だったはず。

 見覚えのある景色を辿る。


 どこまでも続く坂道の途中、ふと振り返ってみた。

 抜けるように青い空の下、海はどこまでも穏やかに広がって、水面はキラキラと太陽の光を反射している。

 凍るように寒い日なのに、なぜか春を迎えた気分になっていた。


「猪原の家とは反対方向だけど、本当にこっちで()うとるん?」

 息を切らしながら母が不安そうに問う。

 スマホを見ると、十二時まであと十分と迫っていた。

 この風景に見覚えはある。

 でも、あの食堂がない。

 この辺りだったはずなのに、見つからない。


「……きっと呼ばれないと辿り着けんのよ」

 母もそう言いながら振り返って尾道の景色を見つめた。

「きっともう……心残りがなくなって天国に行ったんじゃないかねぇ?」

 空を仰ぐ母の視線につられて僕も空を仰いだ。

「久し振りじゃわ、この景色」

 母は懐かしそうにそう言った。


「猪原の家に行きましょ。そこでも会えるけん」

 母が差し出した片手を僕は少し照れながら掴んだ。

 母と手を繋ぐのは久し振りだ。


 僕は何度か振り返って食堂がないか確認しながら、坂道を下った。

 母と祖父を会わせてあげたかった。


 それは叶わなかったけど、僕には祖父との一年間の思い出が、母には祖父からの返事の手紙がある。

 それに目には見えないけれど、きっと祖父は近くにいて見守ってくれる。

 少なくともお盆には会いに来てくれることを僕は知ってる。


 何も知らなければこの町はただの広島の町の一つに過ぎなかった。

 でも、この一年で僕はたくさんの客と出会って、祖父と暮らして、ただの町じゃなくなった。


 今でもあの店が何だったのか、正確なところは何も分からない。

 でも、きっと今でもあの店は営業していると思う。

 迷える人のために不思議な一皿で心とお腹を満たしてくれる。

 そして、訪れた人には福をもたらす。


 僕はもう一度踏み出す強さを店長から貰った。

 踏み出せば、こんな素敵な世界が広がっている。

 知らなかった世界が一歩踏み出すごとに広がっていく。

 時には傷つくこともあるけれど、立ち止まることもあるけれど、また歩き出せばいい。

 その先にはきっと心躍る日が待っている。


 そう店長が……僕の祖父が教えてくれた。


これにて完結となります。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


この食堂が何だったのか。

店にいたのは本当に神様だったのか。

十月に一時不在となった理由はなんだったのか。

それらの謎はあえて残しております。

一応ヒントは本文中に散りばめておきましたが、この辺りについてはいつか『せとうちマヨヒガ食堂2』を書く日があれば、詳しく掘り下げたいと思います。

(一応、自分の中では答えがあるのですが)


コンテスト用に書きましたが、この作品を読んで広島を含めて瀬戸内を旅したい、瀬戸内が好きだと思ってもらえたら幸いです。

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