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霜月 立冬 レモン(後編)

 鍋がぐつぐつ大きく音を立て始める。

 蓋を外して煮え具合を確かめる。

 具材は白菜、長ネギ、水菜、人参、鶏肉、しめじ、油揚げ。

 ここにレモンの輪切りを敷き詰める。


「レモンを入れるタイミングが重要じゃけぇね。早くから入れてしまうと皮の苦みがスープに滲み出てしまうけぇ。具材に火が通ってから入れるんで。ほいで、さっとひと煮立ちさせて火を止めてから大根おろしを真ん中に載せる」

 下ごしらえをしていた時に店長がそう言っていたのを思い出しながら、レモンを並べる。

 スープは白だし、昆布、酒、塩で作った。

 灰汁(あく)を取る作業は地味で大変だったけど、丁寧に取り除いたお陰でスープの色が綺麗に澄んでいる。


 湯気と一緒に出汁とレモンの香りが漂い、お腹が鳴りそうになる。

 火を止めても鍋の中はまだぐつぐつ言って止まらない。

 鍋掴みを使って慎重に持ち上げ、そろりそろりと客の前に持って行く。


「お待たせしました。レモン鍋です。熱いのでお気をつけください」

 そう言いながら、まだ水もおしぼりも出していないことに気づく。

 今日はいつもと違うことが多くて、全然駄目だ。

「お茶とおしぼり、あと箸ね。前から失礼するよ」

 店長がフォローしてくれて、安堵しつつも少し落ち込んだ。


「いただきます」

 男性はそう言って箸を手に取って止まった。

「あの、レンゲと取皿って頂けます?」

 その言葉に僕は一瞬躊躇った。

 鍋で一皿。

 でも取皿を出したら二皿になるんじゃ……?

 取皿のことを失念していたことに頭の中がパニックになった。


「おお、うっかりしとったわ」

 店長はそれに気づいてないのか、普通に取皿とレンゲを客に渡した。

 なので、僕は店長の隣に行って、こっそり二皿になるんじゃ? と聞いてみた。

「大丈夫じゃろ。料理は一皿に収まっとるけぇ」

 店長はそう言って笑ったけど、僕は不安で仕方なかった。


 一方、男性は熱そうにしながらも勢いよく食べ始めたが、その勢いは徐々に落ちて行き、ついには手が止まってしまった。


「あの……何か、美味しくなかったでしょうか?」

 僕は堪らず声を掛けた。


「あ、いや……こんな美味しそうなのに」

 男性は鍋を見つめたまま、困ったように笑った。

「全然、味がしないんですよね」

 レモンは強い酸味と苦みがある。

 レモン自体を食べないとはいえ、その果汁がたっぷり入った鍋の具材を食べて、レモンの味がしないというのはあり得ない。


「味はな、舌だけで感じるもんじゃない。目ぇや耳、匂いなんかも全部ひっくるめて味になるんよ。じゃけぇ、それが上手く働かんのは、心が疲れとるけぇじゃね。なんで疲れとるんか……訊いてもええ? 他人に話すだけでも、ちっとは軽くなることもあるけぇね」

 店長の言葉に男性は箸を置いた。


「海で溺れてる人がいて、助けられるのは一人だけ。そういう話、あるじゃないですか」

 男性は鍋に視線を落としたまま、ぽつりと零した。

「どっちを助けるかっていう……例え話みたいなやつです。実際、あったんですよ。海で溺れた訳じゃないですが、そういう状況が」

 静かな店内に男性の声がよく響いた。


「私には妹がいるんですが、その妹と赤の他人が命の危険に晒されてて……咄嗟に名前も知らない赤の他人を優先しました。そうするのが仕事だったので」

 淡々と語られる言葉に、思わず息を呑む。

「妹は命は助かりました。でも……下半身が動かなくなって。妹はバレエをやってたんです。小さい頃から、ずっと。コンクールでも賞を貰ってて、本当に才能があって……周りからの期待も大きかったですし、本人もプロになるのが夢でした」

 男性はそこで(ようや)く顔を上げ、懐かしむような、それでいて自嘲するような笑みを浮かべた。

「病院で目を覚ました時も、妹は泣いたり、取り乱したりしなかったんです。人形みたいに固まったまま、ただ自分の足をじっと見てました……」

 僕は何も言えなかった。

「それに妹は、一度も私を責めませんでした。仕方なかったって。あの状況でむしろ、自分の身内を優先しなかった私を誇りに思うって……そう言ったんですよ」

 男性は自嘲するように笑ったが、その声は泣きそうだった。

 男性の言葉に店長が静かに目を伏せる。

「普通は私のせいで夢が絶たれたんですから、怒って恨むでしょ。しかも目の前で家族が死にそうなのに、それを知ってて他人を助けるって……一体どんな神経してるんだって罵って恨まれた方がどれほどマシだったか……こういう時って許される方がずっと辛いんですよね」

 男性の手が微かに震えていた。


「妹は私の前では泣かないんです。でも夜になると……部屋で声を押し殺して泣いてるのが聞こえるんですよ」

 男性の心の痛みを思うと、どんな言葉も慰めにならない気がした。

「……これもよくある問いじゃけど、もし過去に戻れたとしたら、妹さんを助けると思うかね?」

「いえ。やっぱり……こうなると分かってても他人を優先すると思います。あの状況では……妹より他人の方が危険度は高かったので……救助には決められた優先順位があるんです。それは感情ではなく、生存率を上げるために長年蓄積されたデータに基づくもので……だから結果的に二人共生還できた。もし、妹を優先していたら、他人は死んでいたかもしれない。妹は下半身麻痺にはなりましたが、生きていますから。でも、職務的に正しい判断だったとはいえ……妹を見捨てたような罪悪感は一生消えないでしょうね」

 心の傷は時間が経てば癒えると言う人もいるけど、それは傷の程度によると思う。

 深く傷ついた心はどんなに長い時間が経っても癒えるとは思えない。

 でも、些細なきっかけで癒えることもある。


「後悔がないように生きるんは難しいが、心残りがないように生きるんは意外とどうにかなるもんよ。どうにもならんことも多いが、大抵のことは自分の腹の括り具合でどうにかなるけぇ。やらずに後悔するより、やって後悔する方がええ。その方が心残りにゃならんけぇね」

 店長の言葉に男性は眉間に皺を寄せた。

「やった後でやらない方が良かったと後悔する方が私は嫌です。覆水盆に返らずと言うでしょう? 取り返しのつかないことになるくらいなら、やらずに後悔する方がいいです」

 そう言って男性は立ち上がった。

 鍋はまだ半分以上残っている。

「昼時だったので食事をと思いましたが、やはり何食べても味がしないので……申し訳ないですが、これで……」

 そう言って帰ろうとする男性の腕を「待ってください」と思わず掴んでしまった。


「あ、あの……」

 掴んでいた手を放して、戸惑っていると、店長が「まあ、座りんさい」と男性に声を掛けた。

「痛みがあるってことは生きとるからじゃし、生きとるからには食べんといけん。じゃが、味わって食べれんのは食堂の店主としては見逃せんのう。うちはお代は取らんけぇ、もう一口だけでええけぇ食べてみんさい」

 店長に引き止められ、男性は渋々といった様子で再び席に座った。


 レンゲを手に取り、スープを口に運ぶ。

「……やっぱり味はしません。せっかく作って頂いたのに申し訳ありません」

 男性はそう言ってレンゲを置いた。


 店長が作っていたら味がしただろうか。

 今まで順調に客を満足させられていたのに、僕が作ったから。

 僕のせいでまた店長にタトゥーが増えてしまう。

 あと少しで全部消えそうなのに。

「こ、こちらこそ、ごめんなさいっ。満足できる料理を提供できなくて……」

 申し訳なくて僕は顔を上げられなかった。

「いや、君が謝ることじゃないよ。私の舌がおかしいんだ。他の人ならきっと美味しく食べて満足したと思うよ?」

 男性はそう優しい言葉を掛けてくれた。

 あなたを満足させるための料理だったのに、と言葉にはしなかったけど、僕は悔しくて両手を握りしめた。


「ところで、入って来られた時に道に迷っているようじゃったが……?」

「ああ、そうなんです。妹から(ソウ)奉膳(ブンゼ)という人を訪ねろと言われたんですけど、珍しい名前だからすぐに見つかると聞いてたんですが……」

 男性の話を聞いた店長は両腕を組んで小首を傾げた。

「どういう字ぃ書くん?」

「これです。『ラ・マル しまなみ』のチケットにこの付箋が貼ってあって……」

 男性は上着の内ポケットから付箋を取り出して見せてくれた。

「ラ・マル しまなみ?」

「岡山から三原までの観光列車です。自転車も一緒に乗せられるので、そこが『しまなみ』って感じがしましたが。内装もホテルみたいだし、アート作品が展示してあって、移動中も楽しめるのが良かったです。あと事前予約をすればスイーツボックスとかお弁当も楽しめたみたいです」

 五月の龍泉さんの時に聞いた観光列車とは違う名前だ。


「……この宋さんいうんは多分、実在せんのと違う?」

 付箋をじっと見つめていた店長がニヤリと笑った。

「どういうことです?」

 男性が怪訝な表情で問う。

「わざわざカタカナでフリガナ振ってあるじゃろ? これを逆から読んでみんさい」

 店長に言われて男性は「あっ」と声を上げた。


『ゼンブ ウソ』


「こりゃ多分、あんたを心配した妹さんからのプレゼントじゃろ。旅をしてリフレッシュしんさいってことじゃないかね?」

「……妹は本当に強い子です。逆だったら私は妹を恨んでたと思います。それなのにこんなっ……」

 男性は声を震わせて涙を必死で堪えているようだった。

「お陰様で謎が解けました。妹と一緒に食事ができるよう……頑張ってみようと思います。ありがとうございました」

 男性はそう言って頭を下げた。

「あ、ついでにこの辺りで猫のキーホルダーとか何かかわいいグッズを売っているとこ、知りませんか?」

「時間があるなら手作りもええかもしれんね。猫のキーホルダーなら本通商店街に絵付け体験ができる店があったと思うで」

「いいですね。私、犬飼(いぬかい)って苗字なんですが、うちの家系は皆猫好きで。妹に猫関係のお土産を買って帰りたくて」

「それならピッタリですね」

 僕が笑うと犬飼さんも笑顔を見せた。


「ごちそうさまでした。商店街、行ってみます」

 男性はそう言って店を後にした。

 戸が閉まるや否や、僕は店長を振り返った。

「首、どう? 増えとる?」

 袖も捲ってみる。

「いや、何も変わりないように見えるが」

 今回は店長に手伝ってもらったけど、一人で鍋を提供した。

 やっぱり料理を作ったことがタトゥーに影響する訳ではないようだ。


 今日の接客は全然駄目だった。

 それに料理も満足してもらえたとは思えない。

 一皿というルールで取皿を出したのも良くなかったのかもしれない。

 何が正解で何が駄目なのか。

 フィードバックがないので分からない。


「何がいけんのかねぇ? そういや、そもそもあんたがここへ来たんは手紙を届けるためじゃろ? 理由、訊いてもええか?」


 人と会うこと、話すことが怖くなっていた僕が月に一度とはいえ、接客をするなんて、絶対無理だと思ってた。

 その前に店長と二人きりで生活することも最初は凄く緊張した。

 でも、店長がとても優しくて、世話焼きで、温かい人だからか、苦痛には感じなかった。

 店長が既に死んでるって聞いても、怖いとは思わなかったし、今も普通に接している。

 幽霊には見えないからっていうのもあるけど、店長は何も聞かないし、でも僕が話すことはどんなこともちゃんと聞いてくれるから。

 だから、店長には話してみよう。

 そう思った。


「手紙は母が書いたもので……中身を勝手に見ちゃったんだ。それで……封筒には住所しか書いてないけど、僕の祖父母に宛てたものだって分かって……どうしても届けたいって思ったんだ」

「なんでそう思ったん?」

「書いたのは多分、僕が引きこもりになったばっかりの頃だと思う。ずっと出さずにしまってあったんだけど、出す勇気が出なかっただけで、本当は出したかったはずなんだ」


「……もしかして、その……あんたのお母さんは……亡くなりんさった……とか?」

 店長はとても聞きにくそうに尋ねた。

 その様子に僕は慌てて両手を振って否定した。

「あ、いや。違うよ。生きてるよっ。ただ……僕のせいでちょっと鬱っぽくなってて……」

「そうか……」

 僕の返答に店長はすごくホッとした表情で胸に手を当てた。


「うん……だから、早くまた学校に通わなきゃって思ってたんだけど……玄関に立つとどうしても足が竦んじゃって……学校どころか外にも出れなくなったんだ。人の目が……怖くて」

「それなのに一人で尾道まで……電車にも乗らんといけんのに、よう頑張ったのう」

 店長は目を細めて僕の頭をポンポンと撫でた。


「母は家出して父と結婚したんだ。だから、祖父母とはずっと会ってなくて……でも、僕が生まれて親心が分かったというか、理解できるようになったみたいで、ずっと仲直りしたかったみたいなんだ。僕も祖父母のことはずっと母から死んだって聞かされてて……ただ、お墓参りも行ったことないからずっと不思議だったんだ。この手紙を見て、生きてるって知って、ずっと不思議に思ってた謎が解けたっていうか……祖父母の話は一度も聞いたことなかったけど、漢字は分からないけど、『イノハラ』って苗字だけは知ってたから」

「イノハラ?」

 店長は僅かに眉間に皺を寄せた。

「多分井戸の『井』に原っぱの『原』って書くんじゃないかな? 住所は分かってるから地図アプリでどうにかなるかなって思ったけど……結局、迷ってこの店から出られなくなっちゃった」

 僕がそう苦笑すると、店長はどこか痛そうな表情で僕を見た。


「……なんであんたがずっとこっから出られんのか、いや、なんで刺青が何しても消えんのか分かったわ」

 そして、店長は続けて変なことを言った。


「わしがその手紙の届け先の『猪原(いのはら)』じゃけぇ。わしが多分……十二月の客じゃ」


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