霜月 立冬 レモン(前編)
十一月。
僕は朝から重い重い溜息を吐いた。
洗面台の前に立ち、鏡をじっと見つめる。
薄くなったはずの首のタトゥーは翌朝には再び濃くなっていた。
あれから毎朝、顔を洗う時に鏡の前で確認しているが、元に戻ったまま、薄くなる気配はない。
あれは一体何だったのか。
「あれじゃね、きっと。神さんが不在じゃったけぇ、刺青も薄くなったんじゃろ。ほら、店の外にも出られるようになっとったが、次の日には戸もまた開かんようになっとったけぇ。料理作ったんは関係なかったんじゃね」
店長はそう淡々と言ったけど、僕は諦めきれなかった。
今月も何か一品作る。
そう決めて、あれから毎日店長に料理を習い、包丁を握るのも大分慣れて来た。
キャベツの千切りは短冊切りだし、ジャガイモなんかの皮むきは一回り小さくしてしまうけど。
また一人で料理して提供して、タトゥーが薄くならないか試してみたかった。
今回も薄くならなかったら、その時は諦める。
そう気合を入れてみた。
そして、十一日の朝が来た。
先月は前日に食材が現れたが、今回はいつも通り僕達のいつものご飯用の食材しかなかった。
前日に食材が分かると、いろいろ準備ができて良かったのだけど。
「やっぱり先月は神無月だったからかなぁ?」
僕がそう言うと、店長は渋い顔をした。
「わしは違うと思うで。出雲の会議にしては期間が短すぎるし、時期も早すぎる。そもそも食堂におっての神さんなら竈の神さんじゃろうが、それなら留守番のはずじゃけぇ」
「じゃあ……ここにいるのは神様じゃない……かも?」
神様だと思ってるからどんな不思議なことが起こっても怖くはなかった。
でも、神様じゃないなら……一体何がここにいるのだろう?
想像して思わず鳥肌が立ち、両手で体を包み込んだ。
「神さんは神さんじゃあ思うが……不在の理由が気になるのう。それと九月の鯛の時から気になっとるんじゃが」
店長は急に神妙な面持ちになり、そう切り出した。
「これまでの食材はホンマに客に用意されたものじゃったんじゃろか?」
「どういうこと? ここって食堂だから客のための食材じゃない?」
「わしも今まではそう思っとったんじゃが……違う気がしてきての」
「じゃあ誰のためなん?」
「……わしゃ、あんたのためじゃないかぁ思うとるんよ」
「え? 僕?」
店長は真剣な表情で僕を見て頷いた。
「鯛がどうも先月の客にしっくり来んくての。それで改めて考えてみたんじゃが、やっぱり全部客をあんたに置き換えてもしっくり来る気がして……」
言われて僕も一月から順に振り返ってみた。
牡蠣、菜の花、ワケギ、サヨリ、アスパラガス、小鰯、穴子、蛸、そして鯛。
ここを訪れる客達は誰もが悩みや痛みを抱えていた。
そしてどの客にも僕は共感できる部分はあった。
牛尾さんはいつもタイミングが一歩遅れてしまうと言っていた。
僕も何かやろうとあれこれ考えているうちにタイミングを逃してしまうことがある。
でも、それって誰でも経験のあることじゃないだろうか。
虎田くんは見た目で判断されて損をしていると言い、兎川さんはあえて自らブランド物を身に着けて武装していた。
僕も一度だけだったけど、睨んでないのに睨んでると言われたことがあったし、友達の輪から外れないように友達の好きな物を僕も好きな振りをした。
特に馬場さんは共感できることがたくさんあったから、思わず僕が引きこもりだったことを打ち明けてしまった。
自分が引きこもりをしていたなんて、恥ずかしくて誰にも言いたくない、言えないと思ってたのに。
「確かに……そんな気もするけど、誰だって共感できることって一つくらいあるもんでしょ? 店長にも当て嵌まったり……」
「まあ、共感できんこともないが、店から出られんようになったんは、わしとあんただけじゃけぇね」
「でもそれは今までの客は全員完食して満足しとったからでしょ?」
「わしはあんたが来る前からここにおったんで? 最初の頃はちゃんとした料理が作れんで、不味いと言われたこともあったわ。それでも客は店を出て行ったけぇね。わしの刺青は増えたが、あんたみたいになったんはおらんかったけぇ」
「そうなん? 満足せんかったら店から出られんようになるんだと思っとった」
「食べることそのものを拒否したら出られんようになるとわしは思っとる。じゃけぇ、あんたが牡蠣が食べれん言うた時は焦ったんよ」
確かにあの時の店長は少し強引だった。
「わしは死んでここで生前の罪を償えと言われとる気がしてね。料理というもんはホンマ奥が深い。同じ料理でも人によって味が変わるじゃろ? どんなに手間暇かけても食べるのは一瞬じゃ。修行みたいな気になる時もある。それに料理で人をもてなすというのも難しいもんで、相手を思いやる気持ちがないと上手くいかんけぇね。あんたがここにおるんも最初は死んだけぇ、わしと同じかと思ったが、生きとるんなら別の何か……ここで成すべきことがあるんじゃろ。それが食材に現れとるんじゃないか、そう思ったんよ」
思えば店長も僕もこの店が何なのか、ちゃんと理解していない。
神様が営んでいる、のだろう。
客が満足しなかったらタトゥーが増える、と思ってる。
タトゥーが全て消えたら店から出られる、と思ってる。
全部、推測でしかない。
紙が降って来るけど、そこにそれが神様の言葉だとは一切書かれていない。
これまでの経験からタトゥーの増減については多分合ってると思うけど、消えたら出られる保証はない。
もし、これまでの食材が全部僕のためだったなら、僕がすべきことは何だったんだろう?
「明日、料理してみるか? それでそのタトゥーに変化があったらええのう」
店長は優しく笑んで、朝食の準備を始めた。
そして、十二日の朝。
カウンターには籠に入ったレモンがあった。
「レモン? レモンで料理って……」
レモンティーとか唐揚げの横に置かれてるイメージしかない。
せいぜいレモンゼリーとかレモンケーキとかお菓子ならいけるかもしれないが、料理って。
それは店長も同じで、両腕を組んで首を捻っている。
「レモンは広島レモンって有名じゃああるが……メイン料理になるもんがパッと思いつかんねぇ」
そんな訳でまた二人でレシピ本を広げた。
レモンのはちみつ漬け、ジャム、ゼリー、パウンドケーキ、チーズケーキ……とお菓子系が並んでいる。
料理系はパスタや肉料理のアクセントに使われているだけで、レモンが主役という感じではなかった。
「これはっ?」
その中で唯一とも言えるメイン料理を見つけて声を上げる。
「確かに……これならあんたが一人で提供できそうじゃし、ええね」
店長も笑顔を見せる。
「ほいじゃあ、さっさと朝食済ませて、準備しようかね。わしも手伝うするけぇ、やってみんさい」
僕は大きく頷いて、エプロンを身に着けた。
今日は接客も料理も頑張る。
そう目標を立てて、包丁を握る。
店長に細かく指示を出して貰って、料理もいよいよ終盤に差し掛かった時。
店の戸が開いた。
「いらっしゃいませ」
顔を上げると、そこには背が高くてがっしりした男性が立っていた。
「すみません、ちょっと道をお尋ねしたくて……」
あれ? もしかして、客じゃない?
初めてのパターンだ。
「この辺りに宋というお宅をご存じないですか?」
「いや、聞いたことないが」
店長が答える。
「そうですか。ありがとうございます」
そう言って男性は店を出ようとした。
が、ふと立ち止まって振り返った。
「こちらは食堂ですよね? 今、営業中ですか?」
「はい、そうですけど……」
僕が怪訝な表情をすると、男性はカウンターに座って辺りを見回した。
「メニューは?」
「あ、ありません。うちはランチは一種類で、今日はレモン鍋です」
最近は客が問うより先に言えてたのに、今日は先に道を訊かれたので調子が狂う。
「鍋か。確かに今朝はだいぶ冷えましたからね」
男性はそう言ったが、僕達は共感できなかった。
この家の中は年中常春の気温なので、暑くも寒くもない。
だけど、そんな事情を男性は知らないし、説明もできないので、「そうですね」と相槌を打った。
今回はこの人を僕が満足させる。
接客の時とは違う緊張で、おたまを持つ手にじわりと汗が滲んだ。




