神無月 寒露 無花果(後編)
店内にケーク・サレが焼ける匂いが漂い始め、そこに豚肉が焼ける匂いも混ざって、思わず目を閉じて匂いを嗅いでしまった。
そっと目を開けてみると、女性客も僕と同じように目を閉じて笑顔になっている。
店長が初めて作ったケーク・サレ。
オーブンから取り出し、焼け具合を確かめる。
上手く焼けたようで、店長が満足そうに口元に笑みを浮かべる。
少し手間取りながらも各料理を一皿に盛り付けると、再びニヤリとドヤ顔をして、僕に手渡した。
「お待たせしました。無花果尽くしの一皿になります」
そう言って提供すると、女性は「わあっ」と目を輝かせた。
「きのことベーコンのケーク・サレ、サラダ、メインは豚肉巻き、そしてデザートはヨーグルト詰めです」
今回はオシャレな一皿に仕上がったと思う。
女性向けっぽい献立になってしまって、男性客だったらどうしようと不安だった。
だから、店の戸が開いて女性が入って来た時、正直僕と店長はかなり安堵した。
ケーク・サレの上には無花果の輪切りとクリームチーズのスライスを載せた。
僕が担当したサラダはベビーリーフとモッツァレラチーズに無花果をくし形に切ったものを混ぜた。
無花果を切ってチーズは手で千切っただけだ。
でも、オリーブオイル、ブラックペッパー、レモン汁、ハチミツでドレッシングも手作りした。
そしてメイン。
くし形に切った無花果を薄い豚肉で巻いて焼いたものには、バルサミコソースを掛けてある。
デザートは無花果を丸ごと器にして、くり抜いた中にヨーグルトとくり抜いた部分の果肉を混ぜて詰めた。
これにもハチミツを少し掛けてある。
しかも器にした無花果自体は甘く煮たものを冷やしてある。
前日に食材が現れたお陰で、今回はいつもより手の込んだ一皿になった。
「てっきり和のデザート系が出て来るのかと思ってました」
「うちは食堂じゃけぇね。それで無花果言うたら、こがぁな洒落たもんは想像せんよね」
店長が笑うと女性は「あ、すみません」と謝った。
「今のは失言でした……」
「いやいや、そう思うんが普通じゃけぇ。別に謝るこたぁないよ。気にせんこう、食べんさい」
店長に促され、女性は小さな声で「いただきます」と言って箸を手に取った。
その仕草に僕はハッと思い至る。
「あの、ナイフとフォークの方が良かったですよね?」
「あ、いえ。お箸で構いません。こっちの方が私は食べやすいので」
女性はそう言って器用に箸で食べ始めた。
いつもの癖で箸を出してしまったが、洋食なのでそれに合わせるべきだった、と反省する。
「その格好、自転車でも乗ってん?」
店長が唐突に話しかける。
「あ、いえ。ちょっと歩きたくて。週に二回ヨガに通ってるんですけど、休みの日はこうやっていろんな場所を歩くのが趣味で」
「どれくらい歩くん?」
「一時間くらいは。先週は気づいたら二時間以上歩いてて。戻るのにまた二時間かかったから合計四時間ですね。考え事しながら歩いて道に迷ったこともあります」
笑う女性に「若いねぇ」と店長も笑った。
「若いなんて、そんな……私、もう四十ですよ。昔の人は『不惑』なんて言ったらしいですけど……全然ですね。いまだに迷ってばっかりで」
女性はそう言って苦笑した。
「そんなもんよ。いざ自分がその歳になってみたら、自分が思うとったより全然子供で悲しゅうなる。思うた通りの大人になれとるもんなんか、僅かじゃ思うで?」
「そんなもんですかね? 五十で天命を知る、なんて言いますけど、私、このまま五十になっても分からない気がします。店長さんは自分のやるべきことをちゃんと知ってるように見えて……少し羨ましいです」
「天命なんてそれこそ爺になっても分からんもんよ。じゃが、自分の中に一本芯を通すんは難しゅうても、やりたい、やりたくない、していい、しちゃあいけんくらいの基準はできるもんで。まあ、迷うたら心の向くままに進んでみるんも一つの手じゃあるがの」
「店長さんはこの店を始めるって決めたのは何かきっかけがあったんですか?」
「……ここはわしの意思とは違うけぇ。やれと言われてやったことが、年月積み重ねて後から振り返ってみたら自分の天命じゃったんかもしれん。そう思うくらいのもんよ」
「あ、すみません。なんか……また余計なこと訊いてしまいました?」
「いやいや。余計じゃないけぇ。気にせんでええ」
店長が片手を顔の前で大きく振って見せたが、女性は申し訳なさそうに俯いた。
「私、よく失言しちゃうんです。前にも似たようなことやったのに、また同じようなことしちゃって……」
「そんな大袈裟に考えんでええ。別に訊かれて困ることでも嫌なことでもないけぇ」
「……私、葬祭ディレクターをやってまして。お葬式って人生で一度きりじゃないですか。だから、絶対に失敗できないんです。しかも結婚式なんかと違って急に予定組んで、準備の期間も短くて……だから、新人の頃はミスばっかりして怒られてばっかりでした。今はミスも減りましたけど、それでも時々、新人みたいな失敗をすることがあって……」
葬祭という言葉にドキリとした。
よりによって店長の前にそんな職業の人が現れるなんて。
「相手を傷つけるつもりなんてないのに、後から『言わなきゃよかった』って思うことが多くて……遺族の方達が一番弱ってる時に関わる仕事なので。だから、ちょっとした言葉でも相手の心に残っちゃうことがあって……気をつけてるんですけど、つい『大丈夫です』とか言っちゃって」
「大丈夫が失言になるんですか?」
思わず聞き返してしまった。
「人によっては『大丈夫』って言葉が慰めにならないんですよね。大丈夫じゃない時に大丈夫って言われると、他人事だからそう言えるのよって。遺族に寄り添うお葬式って……長くやってても正解が分からなくなります」
あ。
だから、店に入った時、僕が言った『大丈夫』って言葉に引っかかりを感じたんだ。
「いろんな家族があって、いろんな宗派があるけぇね。同じ宗派でも地域によって違いがあるしの」
「そうなんですっ。式の最中に『違います』って指摘されることも稀ですがあったり……」
店長の言葉に女性は少し前のめり気味に言って、それから自分を落ち着かせるようにお茶に口をつけた。
「普通の会社だったら些細なミスで済むようなことも、取り返しのつかないミスになってしまうんです。常に完璧を求められているようで……百点取って当たり前の世界にいると、常に緊張しちゃって。時々、逃げ出したくなります」
「そりゃ、大変な仕事じゃね。でも、逃げ出したい思うても、逃げ出しとらんのじゃろ? ようやっとるって褒めて自信持ってええんじゃないか?」
「自信、持てたらいいんですけど……私、忘れっぽいんです。どんなことも忘れちゃうから、ミスを引きずらなくて前を向けるから。それが唯一の取り柄なんです」
自嘲気味に笑う女性に店長が優しく笑みを向ける。
「そうは言うても、忘れとらんのじゃないか? じゃったら、そりゃ忘れた振りが上手いだけじゃ」
「……そうかも……しれません。同じミスをしたって分かった時、頭が真っ白になって、式の最中なのに固まっちゃったことがあるんです。何も言葉が出て来ないし、何をしていいか全然分からなくなっちゃって。先輩に助けられてその場はなんとかなったんですけど……」
「その無花果、花が咲かんって思われとるが、実は実の中の赤い粒々が花なんよ。外に咲かんけぇ、分からんが、ちゃあんと花はある。お客さんも忘れた振りして隠しとるが、昔から失敗は成功の基って言うけぇね。失敗から学べば次はちゃんと上手くやれる。そう信じてやらんと、花は咲かんで?」
店長の言葉に女性は食べかけの皿を見つめた。
「私の失言、直りますかね?」
ぽつり、皿に視線を落としたまま女性が問う。
「ここに来てお客さんが言うたの、どれも失言じゃなかったで? いろんな経験をして、ちょっと縮こまってしもうとるだけじゃろ。自信を持って言うてみんさい。自信に満ちとったら、同じ言葉でも聞こえ方が違うもんよ。お客さんが『大丈夫』って言えば本当に『大丈夫』だと思えるくらい、胸を張りんさい。お客さんなら大丈夫じゃっ」
店長の言葉に女性は顔を上げて笑顔を見せた。
「そうですねっ。今の『大丈夫』は本当に『大丈夫』って聞こえましたっ」
店長の言葉に自信を貰ったようで、女性は残りの料理を勢いよく食べ始め、あっという間にペロリと完食してしまった。
「ごちそうさまでしたっ。どれもとても美味しかったです」
両手をパンッと合わせてそう言うと、女性は鞄から財布を取り出した。
「お代は大丈夫です。うちはどなたからも頂いてませんので」
僕がそう言うと、女性は僕をじっと見て、次いで店長を見た。
いつものリアクションに僕と店長は首を横に振った。
「えっ? 本当に? これって何かのイベントとかですか?」
「美味しく食べて貰えたならそれがお代じゃけぇ」
店長がそう言うと、女性はおずおずと財布を鞄に戻して席を立った。
その瞬間、手を滑らせた鞄が床に落ち、中から小さなメモ用紙が飛び出して散らばった。
「す、すみませんっ」
慌てて女性が拾い集めるのを僕も手伝う。
メモには綺麗な字で細かくいろんなことが書かれていた。
ちらりとしか見えなかったけど、几帳面なのだという印象を持った。
メモの一つに『鳥居』という小さな判が押されていた。
やっぱり漢字は違うけど干支だ。
「私、メモ魔なんです。さっきも言いましたが忘れっぽいんで。なんでもメモしないと気が済まなくて」
拾ったメモを渡すと、女性はそう恥ずかしそうに笑った。
「じゃあ……本当に改めてごちそうさまでした」
そう言って女性は深々と頭を下げて店を後にした。
僕と店長は久し振りの外をしばし眺めていたが、ふと僕はあることに気づいた。
風がある。
いつもは風が吹いても店の中には入って来ない。
肌に風を感じる。
そっと片手を伸ばしてみる。
透明な壁があったのに、僕の手は店の戸の向こうまで何にも当たることなく伸ばせた。
「店長っ」
出られる、と視線で訴える。
だけど、店長は渋い表情で背を向けて片づけをし始めた。
神様がいないから出られるようになった?
「店長、今なら出ても大丈夫なんじゃ……?」
「……わしは外へ行くつもりはないが、あんたは出て自分の無事を親に伝えるなりすりゃええ」
いつも通りに客の皿を片付ける店長の姿に僕はお盆の時を思い出した。
そうだ、店長は外に出ても誰にも見えないんだった。
店にいれば生きてる人間に見える。
でも、一歩店の外に出れば、店長は既に死んでて幽霊になる。
僕は店の外を見つめた。
ずっと外に出たいと思ってた。
ずっと家族のことが気になっていた。
やっと出られる。
ここに来たばかりの頃だったら何も考えずに飛び出してた。
カウンターを拭く店長の背中を見つめる。
僕は伸ばした手を引っ込めて、戸を閉めた。
その音に店長がゆっくりと振り返る。
「帰らんのか? わしのことじゃったら気にせんでええけぇ」
「……神様がおらん時にこっから出るんは、なんか脱獄するみたいな気になるけぇ」
僕はそう言って笑って誤魔化した。
そんな僕を見た店長が目を細める。
「……なんとのう首の刺青が薄うなっとらんか?」
言われて僕は首に手を当てる。
「ちょっと見て来るっ」
そう言って二階に駆け上がり、洗面台の前に立つ。
鏡に映った自分の首をじっと見つめる。
傾けてみたり、伸ばしてみたり、横を向いてみたり。
確かめて再び店へと降りる。
「薄くなっとる……」
僕が言うと、店長も僕に近づいて首をじっと見つめた。
「何が良かったんじゃろか?」
「一人で一品作ったから?」
今回は手伝うだけじゃなくて、サラダを一人で担当した。
僕は店員だから店員らしく上手く振る舞えたらタトゥーが消えるのかと思ってた。
でも、やっぱりここでは料理を作ることに意味があるのかもしれない。
「ほいじゃあ、来月はわしと役割を交代してみるか。そのためにゃ、今日から毎日一緒に料理せんとの」
店長が僕の背を軽く叩いて嬉しそうに笑った。
「それはまだ無理だよぉ。まずは何か一品作れるようになるとこからじゃない?」
希望が見えた気がして、その日一日、口元が緩みっ放しだった。




