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長月 白露 鯛(前編)

 九月。

 月が替わっても店長が既に死んでるという事実を僕は未だに受け入れられなかった。


 八月十三日の朝。

 家の中のどこにも店長の姿はなくて、僕に何の挨拶もなく消えてしまったかのようで、とても怖くなった。

 戸を開けようとしてみたが、やっぱりびくともしなくて、神様の紙は店長宛てだったのだと知った。

 僕は生きてる。

 店長だけが外に出られて、僕は出られなかった。

 だから、そう確信できたのだけど、家の中に一人きりというのはここに来て初めての経験だった。

 静かすぎる空間が余計に孤独だという事実を際立たせた。

 十六日には帰って来る。

 ただそれだけを信じて過ごした。


 だから、十六日の夜。

 多分、八時頃だったと思う。

 店の戸が開いた瞬間、僕は小さな子供みたいに入って来た店長に抱き着いた。

「寂しい思いさせたかの?」

 優しく抱き留めて頭をぽんぽんと撫でてくれる店長の手の温かさに泣きそうになった。

「もしかして……ずっと戸の前におったんか?」

 抱き着いたまま頷くと、また頭をぽんぽんと撫でてくれた。


「図体はデカくてもまだ子供じゃのう」

 笑いながら僕を引き剝がそうとするのに、僕はぎゅっと抱き着いて抵抗した。

「わしがおらん間、何食べとったん? ちゃんと食事しとったんか? どうせちゃんとしたもん食うとらんのじゃろ。わしも小腹が減ったけぇ、なんか作ろうか。何がええ?」

 ん? と小さい子をなだめるように言われて、僕は急に恥ずかしくなって店長から離れた。

 その日は店長の部屋で一緒に布団を並べて寝た。


 今思い返すと、すごく子供っぽいことをした。

 よくよく考えると店長は死んでるってことは幽霊ってことだし。

 いや、全然触れるし、手は温かいし、足だってある。

 幽霊には全く見えないけど、普通はホラーに分類される類だ。

 でも、全然怖くない。


 指先で腕を突いてみる。


「なんね?」

「ん。なんでもない」

「触れるんが不思議か? わしもそりゃ不思議じゃ。腹も減るし、風呂もトイレも行く。それに寝るしの」

 生きてる僕と変わらない。

 本当に死んでるんだろうか。


「ああ、それとまだ言うとらんかったが、わしゃ還暦とっくに過ぎとるけぇね」

「えっ? 三十代にしか見えんけど?」

「神様の思し召しじゃ」

 そう言って店長はピースしてニカッと笑った。

 前から爺臭いとは思っていたけど、本当にお爺さんだったとは。

「名前は?」

「秘密じゃ」

「なんでねっ? 死んどることも爺さんだってことも話しといて、なんで名前は言えんのんっ」

「ほいじゃあ、あんたも手紙のこと話すか?」

「……名前教えてくれたら話すよ」

 そう言ったのに。

「そのうちな」

 そう言って頭をぐりぐりっと撫でられた。


 お爺さんだと分かっても見た目が三十代なので、なんだかしっくりこない。


 そんなこんなで今月も十二日の朝を迎え、カウンターには立派な鯛が用意されていた。

 海が近いからか海鮮が続いている。


「こりゃ、ええ鯛じゃのう」

 店長が半袖なのに袖を捲るような仕草をして、目を輝かせた。

 確かに結構大きな鯛だ。

「捌けるん?」

「勿論じゃ。こりゃ、やっぱり刺身じゃね。あとは……何しよう?」

「鯛って刺身と焼いたのしか知らん」

「白身魚じゃけぇね。煮付けても揚げてもいけるが、鯛飯や鯛しゃぶは? 食べたことないか?」

「鯛飯はあるかも」

「わしゃ、愛媛の鯛飯が好きじゃのう。宇和島の方のは刺身でやるけぇね。海鮮丼みたいで卵と絡んで美味いんよ。同じ愛媛でも松山のは炊き込むけぇね。しかも丸々一尾を」

「地域で違うんじゃね。僕が食べたのはほぐした身が入った炊き込みスタイルだった」

「まあ普通鯛飯()うたらそっちを思い浮かべるけぇのう。鯛飯じゃったら丼になるけぇ、それだけでもええかもしれんねぇ」

 腕を組んで鯛を見下ろす店長に僕はふと先月からモヤモヤしていることを思い切って訊いてみることにした。


「……そういや、なんで先月の客の時、引き留めんかったん?」

 いつもならいろいろ客の話を聞きだすのに、先月はあまり話そうとしなかった。

 客が話しているのを遮るように料理を出してたし。

 いつもの店長らしくないことばかりだった。


「盆前じゃったけぇね。去年も盆はこっから出られたけぇ、今年も出られるんじゃろう思うたら……なんかそのことばっかり考えてしもうて……心が他所(よそ)に行っとったわ」

 そういえば先月の店長はずっと心ここにあらずといった様子だった。

「お盆の間、こっから出て家に帰っとったん?」

 店長がいない数日がとても長く感じて、帰って来た時は安堵して子供みたいに抱き着いたりして……

 どこでどう過ごしていたのか、訊くタイミングを逃していた。

「家に帰って妻の様子を見とったよ。でもなぁ、この店から出たらわしゃ、やっぱり幽霊になるみたいで、誰にも見えんかったわ……話しかけてみたが声も聞こえんし、触ってもすり抜けるしで……次の日にはここへ戻ってみたんじゃけど、戸に触れんけぇ開けれんかっての。仕方ないけぇ、また家に戻ってうろうろしとった。帰らせてくれるんじゃったら、話くらいさせてくれりゃあええのにのう。神さんも融通が利かんけぇ」

 店長はそう言って笑ったが、その目は寂しそうで。

「そがぁな顔せんでええ。ちゃんと食事して、生きとるのが見られたけぇ、安心はしたけぇ」

 先月の客、未吉さんに店長が言った言葉を思い出す。


「死んだもんが願うんはな、生きとるもんの幸せじゃけぇ」


 あれは店長自身の願いだったんだ。


「掃除して、仕込みを手伝ってくれんか? (はよ)うせにゃ、客が来てしまうで」

 パンパンッと手を打って急かされ、僕は気持ちを切り替えようと顔を上げた。

 でも、店長には聞きたいことがたくさんありすぎて、掃除に集中できなかった。


 なので、カウンターを拭いていると、店の戸が開いた。

「いらっしゃい」

 店長が声を掛けるのに少し遅れて、「いらっしゃいませ」と振り返る。


 そこには都会的なスーツの男性が立っていた。

 薄っすらと額に汗をかいていたが、高そうな香水の匂いまでする。

 古民家の食堂にとても不釣り合いだった。


「まだ開店前……ですか?」

 男性は僕を見てそう訊いて来た。

「い、いえ。カウンターへどうぞ。ランチは一種類で今日は鯛料理です」

 男性はさっきまで僕が拭いていた真ん中から少し右に寄った席に座り、僕は慌ててカウンターの中に入って水やおしぼりの準備をした。


「ここはいつからやってらっしゃるんですか?」

 店長に向かって男性が問う。

「もうすぐ二年になるかの。お客さんはどっから来んさったん?」

「外観の割にオープンしてそんなに経ってないんですね。古民家を買い取って? それとも借りてるんですか?」

 店長の問いに答えず、男性は店内を見回しながらそう尋ねた。

 僕は二人の会話を邪魔しないように、そっとお水やおしぼりなどをセットする。


「借りとることになるんかのう?」

 店長が小首を傾げながら答える。

「親戚の持ち家とかですか?」

「親戚じゃないが、まあ……似たようなもんかの?」

「二階があるようですが、ここに住まわれているんですか?」

「ほうじゃが……」

 答えながら店長が(いぶか)しむように眉根を寄せると、男性はそれに気づいて「ああ、すみません」と謝った。


(わたくし)……あ、名刺を置いて来てしまったようで……猿渡(さるわたり)と申しまして、不動産関係の仕事をしております」

 男性、猿渡さんは言いながら両手でポケットというポケットを探していた。

 途中からその手が(せわ)しなく動き、それから勢いよく立ち上がった。

「あの……財布を忘れて来てしまって……こちらは支払いは現金のみだったり……しますよね?」

 と、恥ずかしそうに苦笑いを浮かべ、店を出ようとするので、店長が片手で座るよう促す。

「ええけぇ、座りんさい。うちはそもそもお代を(もろ)うとらんけぇ。ほいじゃが、財布は家にあるん? 落としたんじゃったらすぐ警察行った方がええが……」

「財布はホテルにあるんで、大丈夫です。鞄を置いて来てしまったので。それより、本当ですか? その、お代がいらないって……?」

「ホンマじゃけぇ。とりあえず座りんさい。もうすぐ料理もできるけぇ」

 半信半疑といった表情で、猿渡さんはチラ、と僕を見ながら席に座り直した。


「ほいで? 尾道(ここ)へはお仕事で来んさったん?」

 店長が話を戻すと、猿渡さんは少し気まずそうにしながらも、「ええ、まあ」と濁した。

「……実は東京でずっと働いてたんですが、広島で転職しようかと思って」

「こっちに何ぞ縁でも?」

「いえ。何もないんですが……尾道もですが広島には何度か来たことがあって。海で釣りもできるし、冬は山でスノボもできるし。中心部は適度に都会で車で少し走ればすぐ自然が広がるし。過去に移住希望地で一位になったこともありますからね」

「広島がぁ? そうなん? そりゃ知らんかったわ」

 僕も知らなかった。

「地方って田舎のイメージが強いから……って失礼でしたね」

「いや。事実じゃけぇ。中四国は割とのう……どっちかっていやぁ都会ではないけぇのう」

「再開発もされてて都会的になっていると思いますよ。観光客も増えてますしね」

 そう言った猿渡さんは少し視線を落とし、僅かに顔を歪めた。


 完璧で隙のない、仕事がデキる人。

 都会的でどこか冷たい印象の猿渡さん。

 だけど、なぜかその表情に僕は雨の日の猫を思い出した。


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