長月 白露 鯛(後編)
「お待たせしました。鯛飯です」
ちょうど料理も出来上がり、カウンターからではなく、僕が運ぶ。
今回は初めて皿ではなく、丼ぶりだった。
鯛の刺身がキラキラと輝いて見えた。
その上に卵黄が載り、ネギ、ミョウガ、海苔、ゴマがかけられている。
「炊き込みじゃなくて刺身……ですか?」
珍しそうに見つめながら猿渡さんが問う。
「愛媛の宇和島の鯛飯です。タレがかかっているのでこのままお召し上がりください」
僕が今朝店長に聞いたのをそのまま説明する。
「へぇ。海鮮丼っぽいですね。こんなに鯛の刺身が載ってるのに、本当に無料なんですか?」
再度猿渡さんが疑いの目を店長に向ける。
「ホンマにお代は取らんけぇ、安心して食べんさい」
「じゃあ……なんだか申し訳ないですが、お言葉に甘えて有難く戴きます」
丁寧に手を合わせて軽く会釈してから、猿渡さんは箸を手に取り、食べ始めた。
「これ……タレって醤油だけじゃないですね?」
「醤油とだし汁、あとみりんとわさびを混ぜとる。ホンマは丼にして出すんじゃのうて、刺身と薬味とタレと全部別々の皿に盛って出して、それをお客さんが自分で丼にして食べるんが正式らしいんじゃが」
「客の手間を省いたって訳ですね。合理的ですね」
猿渡さんは納得したが、僕はこの店の『一皿しか提供できない』というルールを尤もらしく説明したのだと感じた。
ただ、これまで一皿に三品盛って提供していたことを考えると、今回の鯛飯だけというのは寂しく見えた。
せめて汁物とか添えられればいいのだけど、一皿というルールがあるのでできない。
それ故、刺身も薬味もたっぷり盛られていた。
丼ぶりも大きめの物を使って、刺身の下のご飯も多めにしてあるはず。
なので、男性でも満腹にはなると思うけど。
「そういや、話を戻すが……広島で転職するって言うちゃったが、尾道に移住するんかいね?」
「釣りをするには尾道が良かったんですけどね。自転車も始めたかったですし。でも……尾道は若者やクリエイターには人気の移住地ですが、私の仕事はちょっと……尾道に住むのは難しくて」
「お仕事はどういった……?」
訊きかけて訊いて良かったのか迷った結果、語尾に言葉が続かず、固まってしまった。
が、猿渡さんは箸を置いて言葉を探すように首を捻った。
「……アセットマネージャーって言っても、あまり馴染みがないですよね。簡単に言うと、不動産の持ち主……投資家や会社の代わりになって、ビルや土地をどう運用すれば最も価値が出るかを決める仕事です。修繕して長く持たせるか、思い切って売却するか。数十億単位の数字を動かす判断役、と言えばイメージしやすいでしょうか」
初めて聞く職業にそういう仕事があるんだ、と興味が湧くと同時に数十億という数字に驚いた。
「不動産関係ってことじゃね?」
「そうですね。不動産を資産として運用・管理し、利益を最大化するので、投資とか銀行っぽいとも言われます」
「なんかよう分からんが、凄そうなお仕事じゃね。じゃが、ほいなら、今日はなんで尾道に来んさったん?」
「仕事は中区の大手町でほぼ決まって、中心部にも近い白島のマンションを契約したんですが……尾道は私が疲れた時に釣りに来ていた場所でしたから、なんとなく吸い寄せられたと言いますか。海を見たくなって……」
苦笑する猿渡さんに店主は「ほうね」と目を細めて頷いた。
白島は高架上を走るアストラムライン、JRの駅、バス停もあって交通の便が良い場所だ。
川沿いをよく散歩やランニングしている人もいるし、オシャレなお店もあって、実は僕もちょっと憧れがある。
「……別に東京で転職しても良かったんですけどね。一応、二十年近くキャリアも実績も積んで来たんで、この歳でもそれなりに良いポストで転職も可能でした。でも、広島を選んだのは『逃げ』なんです。私が扱うのはビルや土地で、数十億という大金が動きます。接客業のように日常的に人と向き合う仕事ではないので、オーナーともやり取りはありますが、どうしても数字や資料越しに判断することが多くて……ついそこに人がいるということを忘れがちで……」
そう言って猿渡さんは視線を落としたが、すぐに顔を上げて店長を見た。
「……売り渋っていたオーナーを半ば騙し討ちのような形で契約まで持っていきました。勿論、法外な値段ではないですし、別にそれは私の周りじゃ普通のことだったんです。一つのテクニックと言いますか。その場でも問題なく成立したんですが……後日、相場を知ってしまったようで。会社に抗議に来て、制止に入った警備員と揉み合いになり……感情的になったオーナーがその場にあったカッターで警備員を切りつけたんです。傷は大したことはなかったんですが、その時に転んで腕を骨折してしまって……」
言いながら語尾は弱々しくなり、猿渡さんは再び俯いてしまった。
「周りはたった一度の『小さな失敗』だと言って私を慰めてくれたんです。数字の上でも大成功だったんですけどね。警備員の方は退職され、オーナーの方は傷害罪で逮捕されました。示談が成立して不起訴にはなりましたが。この一件で私はその時初めて自分がしてきたことが、そこに関わった人の人生に大きな影響を与えることだと知ったんです。ちょっと想像すれば誰でも分かることなのに、分かろうとしなかった。転職って言いましたが、あのまま働き続けることが私にはどうしてもできなくて……」
猿渡さんの言葉は重く、沈黙が店を飲み込んだ。
数秒程の短い沈黙だったけど、重くのしかかるようにとても長く感じた。
そして、その沈黙を破ったのは店長だった。
「……人生はな、前にしか進めん。立ち止まることはできても、後戻りはできんけぇね。一歩一歩が選択の連続で、その上、自分が選んだこと、やったことにはそれなりに責任がつきまとう。自分で自分の尻が拭けんのじゃったら、初めから何もせんことじゃね」
珍しく店長は突き放すように言った。
「そう……ですね。その通りだと思います。私は結局、仕事を辞めて広島に逃げて来た……一番卑怯な選択をしてしまったんです」
「それって本当に卑怯なんですかね?」
僕は堪らずそう口を開いた。
二人の視線が僕に向く。
「自分がしてしまったことの重大さに気づいて立ち止まる。そして、そのままの道を突き進むんじゃなくて、別の道を選んだってだけでしょ? それも『逃げ』なんですか? そういう仕事じゃなくて、違う仕事がしたくて広島に来られたんじゃないんですか? そ、それだったら卑怯じゃないと……僕は思います」
最初は勢いで言ってしまったが、徐々にまだ社会にも出ていない僕が偉そうに言えることでもないことに気づいて、口を閉じることにした。
けれど、恥ずかしくなって俯く僕に猿渡さんは「ありがとう」と声を掛けた。
「そういう風に言ってもらえると……少し心が軽くなった気がします」
顔を上げると、猿渡さんは和やかに笑んでいた。
店長に目をやると、店長もどこか満足そうに目を細めていた。
「人生は一度きりじゃけぇね。後悔せん人生はありえんが、後ろばっかり見て歩くこともできんけぇね。前を向いて歩けるように楽しむ道を選ばにゃいけんで。自分が心置きなく楽しむためには、後ろめたいことがあっちゃできんけぇね。どうすりゃ、楽しめるか。それを考えたら、せんといけんことが見えて来るじゃろ? ただし、同じ字じゃけど、楽はしちゃあいけんで?」
「そうですね。海を見に来たのも……心と頭の整理をしたかったからかもしれません。ここに来たのも偶然じゃない気がしてきました。話を聞いてもらって、なんだかスッキリしたら、迷いが吹っ切れました」
晴れやかな顔で猿渡さんは言って、丼に残ったご飯を食べ始めた。
「ご馳走様でした」
食べ終えた猿渡さんは満足そうに手を合わせた。
その顔には僕が感じた雨の日の猫のような途方に暮れた印象は全くなかった。
「鯛はめでたい魚じゃけぇ、新たな門出を祝うのに丁度良かったわ」
店長が笑うと、猿渡さんも嬉しそうに笑顔になった。
「実は東京にいた時よりも良いポジションでの打診もあったんですけどね、プロパティマネジメントの仕事をすることにしたんです。アセットマネージャーより給料も減るし、良い話を蹴ってまでする仕事かって思われるような転職なんですけど……プロパティマネージャーは建物とオーナーを守る仕事なんです。本当にこれで良かったのか迷ってたんですけど、これで良かったんだって今は自信を持って言えそうです」
僕には仕事のことはよく分からなかったけれど、猿渡さんの目は生気を取り戻しただけでなく、自信に満ち溢れて見えた。
「後悔を前に進む糧にしたんじゃね。慣れんところで新しいことをするんは大変じゃろうけど、頑張りんさいよ」
店長の言葉に猿渡さんは「はいっ」と気合の入った返事をした。
「それじゃ私はそろそろ……」
「気ぃつけてな。釣りがしとうなったらいつでも来んさい」
「はい。美味しい食事にお話もできて……本当にありがとうございました」
猿渡さんは席を立って、深々と頭を下げてから店を出て行った。
店の戸が閉まって少しして、店長は僕の頭をぐりぐりと撫でた。
「よう喋るようになったし、ええこと言うようになったのう。少しは薄く……ならんのう? なんでかの?」
店長は僕の首を覗き込むように見て、首を傾げた。
そういえば最近は首のタトゥーのことを忘れるくらい気にしなくなっていた。
知らない人と話すのも慣れて来たし、接客も割と板について来たと思うのだけど、そういうことは関係ないのかもしれない。
店長のタトゥーはもう見える範囲にはない。
袖を捲ってもズボンの裾を捲っても見えない。
多分、お腹とか背中に少しあるだけなんだと思う。
ここから出られる日は近いのかもしれない。
でも、ここから出たら店長はどうなるんだろう?
僕と違って既に死んでいる店長は……やっぱり成仏してしまうんだろうか。
出られても消えてしまうのかもしれない。
そう思うと、タトゥーが消えない方がいいのかもしれない、と思ってしまう。
「今日は鯛じゃったが……今日の客とあんまり関係があるように見えんかったの」
店長が首を捻る。
確かに毎回食材と客とは何かしらの繋がりがあったように思う。
転職の門出を祝うだけとは思えなかったけど。
鯛に『めでたい』以外の意味ってあったんだろうか?
めでたいだけなら今日は実は……僕の誕生日だ。
まさか僕のため……だったりする?
いや、あくまでも食材は客に提供するものだから関係ない……よね?
「どした? なんか心当たりでもあるんか?」
店長に問われて「いや」と答えたものの、なんとなく一緒に祝って欲しくなって。
「……実は今日、僕の誕生日なんだ」
そう伝えた。
「ほうね! それじゃあ今日の鯛はあんたのためじゃったんじゃね」
店長はすんなりそう納得し、袖を捲った。
「ほいじゃあ、今日の昼飯は鯛飯だけじゃ寂しいのう。夜はケーキを食べんといけんね。ケーキと蝋燭、それと食べたい物言うてみ。神さんが用意してくれるかもしれんで?」
店長は子供みたいにはしゃいで、カウンターの向こうで手を動かし始めた。
「ねぇ。店長の誕生日っていつなん?」
「わし? わしは十二月じゃ」
「十二月の何日? 何年生まれ?」
「そこまで詳しゅう言わんでもええじゃろ。それまでにこっから出ること考えんさい。わしのはどんどん消えていくが、あんたのはちっとも薄くもなりゃせんが? わしがこっから先に出てしもうたら、あんた一人で店をせにゃいけんなるで? できるんか?」
確かに。
店長が先に出てしまったら、ここで一人で店をやるのもだけど、生活するのも嫌だ。
「とりあえず、今はケーキってお願いしてみ。出て来るまで言い続けたら神さんも根負けして出してくれるかもしれんで?」
言われて僕は両手を合わせて「ケーキ、ケーキ、ケーキ……」と連呼してみた。
なんだか良いようにはぐらかされた気もするけど、こういう会話が急にとても愛おしくなった。




