葉月 立秋 蛸(前編)
八月。
店長がもしかしたら人間じゃないかもしれない、という疑惑は僕の中でほぼ確信に変わっていた。
ただ、店長は八月に入ってからなんだか落ち着かない様子で、店にいることが増えた。
特に料理をするでもなく、ただ店のカウンターに座ってぼうっとしている。
二階に自分の部屋があるのに、寝る時以外はあまり部屋にいない。
「明日は店を開ける日じゃね。食材は何じゃろか?」
十一日の朝。
朝食を食べ終えて、片付けをしながら店長に話しかける。
「蛸か岩牡蠣か……野菜じゃったらトマトやピーマン、ナス。いろいろあるけぇ分からんのう」
「確かに夏はいろいろあるね。店長は何が食べたい?」
「蛸で思い出したが、酢蛸が食べたいのう。味蛸もたまに食べとうなるが、やっぱり酢蛸の方が好きじゃね。でも、蛸じゃったらわしゃ、さすがに捌けんで。イカは釣ったことあるが、蛸はないけぇね」
「イカが捌けるなら蛸もいけるんじゃ? 酢蛸ってしめ鯖の蛸バージョンみたいなもの?」
「動いとらんかったら捌く言うか、包丁で切れるが。生きた蛸が置かれとったら無理じゃ。酢蛸はまあ……しめ鯖とはちょっと違うが……食べたことないんか? ありゃ、やっぱり県北の方だけなんかのう? 年末に小さいバケツに入った蛸、スーパーで見たことないか?」
見たことも食べたこともない。
なので、首を横に振る。
「そうか。酒のつまみに最高なんじゃが」
「店長って県北の人なん?」
「いや。わしはここが地元じゃ。県北は女房の実家があるけぇ」
県北のどこなのか、とか県北の人とどこでどうやって出会ったのか、とか。
いろいろ会話を繋げられたけど、店長の目がどこか寂しそうで、なんとなく話したくないのかな、と思った。
店長は家族の話をほとんどしない。
以前「娘もおった」と過去形で話していたし。
だから、僕は話題を変えた。
「明日は順番で言ったら未の名前が付く人が来るね」
客の名前に干支が入っていることに気づいてから、どんな客が来るのか楽しみになっていた。
二月に来た牛尾さんは、その名の通り牛のように重い足取りで生きている人だった。
一歩が遅れたことへの後悔を何年も引きずっていた。
三月の虎田くんは、見た目は虎のように近寄り難かったけれど、中身は全然違った。
虎の皮を被った、繊細な人だった。
四月の兎川さんは、兎みたいに素早く軽やかに見えた。
でも本当は、跳び出すことができずにずっと穴の中に隠れていた人だった。
五月の龍泉さんは、龍のようにただひたすら上だけを目指して疲れ果てていた。
足元を見ることを忘れていた人だった。
六月の巳岡さんは、蛇が脱皮するように自分の殻を破って出て行った。
自分では気づいていなかったけれど、確かに別の才能を持っていた人だった。
七月の馬場さんは、馬のように自転車で走ることが好きな人だった。
でも今は立ち止まって、休むことを選んでいた。
そして、今月。
八月は未。
群れで行動するイメージがある。
あともこもこした毛皮に包まれて、大人しいタイプの女性を想像した。
「手紙を食べる歌があったけぇ、紙でも出してみるか?」
店長が冗談を言って笑う。
「それ、未じゃないよ。ヤギだよ」
「お? そうじゃったかいのう? ありゃ、ヤギか」
「そうだよ、ヤギだよ」
笑う僕に店長は急に真面目な顔になった。
「手紙で思い出したが……あんたが尾道に来た目的は手紙を届けに来たんじゃったな?」
店長の言葉に僕は頷きながら俯いた。
「詳しく……訊いてもええか? 切手貼って出さずに直接来た理由を」
改めて真っ直ぐに問われると、躊躇ってしまう。
勝手に中身を見て、勝手に持ち出したことを話さないといけない。
それに僕が届けたいと思った理由を……話さないといけない。
「……これは僕が書いた手紙じゃないんだ。だから、宛名が住所しかなくて、名前が書いてなくて……苗字は知ってるけど、僕も会ったことはなくて……家にも行ったことはないんだけど……」
「誰が誰に書いた手紙なん?」
「それは……」
それを話すと、話が長くなる。
両手をギュッと握りしめ、言葉を探す。
そんな僕の肩を店長はぽんぽん、と優しく叩いた。
「尋問しとるんじゃない。ただの興味本位じゃけぇ。話したくなければ無理に話さんでええ。手紙と訊いてふと思い出しただけじゃけぇ」
店長はそう言って、ふと視線を落とした。
「わしもなぁ、手紙の一つくらい書いておけば良かったと思う時があるよ。今時の若いもんは手紙を書いたりせんじゃろ?」
「店長も今時の若いもんの範疇だと思うけど?」
「……もうすぐ盆じゃのう」
店長は僕の軽口に答えず、ただそれだけ呟くように言って遠い目をした。
そして、十二日の朝。
店のカウンターにあったのは蛸だった。
動いていないどころか、既に下処理までされていた。
店長が食べたいとか捌けんと言っていたのを聞いていたのか。
店長も同じことを思ったようで。
「神さんもちぃと気ぃ遣うてくださったんじゃろか」
蛸をしげしげと見つめて、そう呟いていた。
「未さんのためじゃなくて、店長のためのご飯みたいじゃね」
僕がそう笑うと、店長は神妙な表情で「ほうじゃのう」と呟いた。
「でも酢蛸がないけぇ、やっぱり未さんの料理を作らにゃ」
前掛けを着けながら店長が笑った。
「酢蛸は作れんの?」
「ありゃ、やっぱり買うて来るもんで、作るもんじゃないけぇ。そもそも作り方が分からんわ」
「じゃあ、今日は何作るん?」
「天ぷらと刺身は外せんけぇ……」
「また天ぷらと刺身?」
「蛸は三原が有名なんじゃが、天ぷらと蛸飯があっこの名物じゃけぇね。それに新鮮な海鮮は刺身で食べんと」
「それは分かるけど……でもさぁ」
「ほいじゃあ、『かるぱっちょ』や『あひぃーじょ』にでもすりゃええんかっ」
店長の口からオシャレな料理名が出て、なんだかすごく違和感があった。
結局、天ぷらは絶対作ると言い張り、刺身の上に荒く刻んだきゅうりやトマト、レモンを載せて、カイワレも散らしたカルパッチョのようなサラダのようなものが出来上がった。
ドレッシングの代わりに醤油にゼラチンを混ぜて固め、ジュレのようにしたものを掛けることにした。
ドレッシングだと一皿に盛った時に他に流れてしまうからだ。
蛸飯も欠かせないと言って、一番に仕込んだのだが、これは皿に盛る時、おにぎりにする予定だ。
天ぷらもシンプルなものと衣に青のりを混ぜたものと二種類作ることにした。
これは前回同様、敷紙の上に盛る予定だ。
僕は今回、きゅうりとトマトを刻むのを手伝った。
きゅうりは簡単だったけど、トマトは崩れたりして上手く切れなかった。
掃除するだけじゃなくて、こうやって店長と並んで料理をする機会が増えたのはなんだか嬉しかった。
刻んだり、洗ったり、皿を準備したりと料理と言える程のことではないけど。
「そろそろかの?」
店長が炊飯器に目をやって、ご飯が炊けた音がした瞬間、店の戸がガラリと開いた。
「いらっしゃい」
「いらっしゃいませ」
入って来たのは僕の予想に反して、とても真面目そうな男性だった。
黒いスーツに黒縁眼鏡で、なんだか死神を連想させた。
未っぽいイメージはゼロだ。
店内を見回す客にいつもの説明をする。
「うちはランチは一つで、今日は蛸料理です。蛸……大丈夫ですか?」
「ええ、はい」
口数も少なく、暗い印象を受ける。
カウンターの真ん中から少し左にズレた席に座った。
お水の入ったコップと箸、おしぼりをテーブルに置く。
その時、客の眼鏡の奥の目が少し赤いのに気づいた。
泣いた……のかな? 大人の男性が?
黒いスーツは喪服? なら、葬式帰り……なのかな?
静かな店内に店長が蛸を揚げる音だけが響いた。
そこにぐぅっと低い音が重なる。
二人の視線が僕に向き、僕が真っ赤になると、二人が笑った。
い、今まで一度も客がいる時にお腹が鳴らなかったのに。
こんな静かな時に鳴るなんてっ。
「す、すみません……」
恥ずかしくて下を向く。
「いい匂いですもんね。それにしてもいい音がしましたね」
客の男性はさっきまでの暗い表情から一変して、凄く優しそうに穏やかに笑った。
「笑ったら失礼ですね。でも……お陰で少し気分が晴れました。実はお盆も近いので今朝、お墓参りに行って来たんです」
葬式じゃなかったのか。
「本当は……もっと早く行きたかったのですが。勇気が出なくて……」
「はい、お待ちどおさま」
話の途中に遮るように皿を差し出した。
その行動は店長らしくなかった。
「美味しそう……じゃ、君には悪いけど頂きます」
男性は僕に笑って箸を手に取った。
誰のお墓参りだったのか。
なぜ勇気が出なかったのか。
気になったけど、男性が美味しそうに天ぷらに噛り付く姿に話しかけられなかった。
「この蛸飯……」
「あ、お口に合わんかった?」
「いえ。ニンジンと油揚げだけのシンプルな具材がうちと一緒だなって」
「ほうね。ゴボウやソラマメなんかを入れてもええんじゃが、蛸だけのにしようか思うて。でもやっぱり油揚げは入れた方が炊き込みは美味いけぇね。それでこうなったんよ。彩に小口ネギ散らして小細工してみたんじゃが」
「その小細工も一緒です。最近は蛸が高いので作る機会は減りましたが、先輩が好きだったので、時々作ってました」
そう言った男性の目に涙が滲んだ。
が、涙を隠すように瞬きをして、男性は蛸飯を頬張った。
その先輩のお墓参りだったのだろうか。
一緒に住んでたんだろうか。
よく見ると、男性の左手の薬指には指輪があった。
先輩は男性の奥さんだったのかな?
いや、でも奥さんを『先輩』と呼ぶだろうか。
なら、ただの親しい『先輩』だったのかな?
僕があれこれ想像している間に男性は食べ終えてしまって「ご馳走様でした」と席を立とうとした。
え? 今回は何も聞けずにこれで終わり?
店長を見ると、引き留めるでもなく、話を続ける素振りもない。
「あの、お会計を……」
財布を取り出し、完全に帰る態勢に入っている。
店長を再度見るも、何もする気配がない。
本当にこのまま帰しちゃうの?
「お代は……誰からも頂いてないので、大丈夫です」
いつもは大抵店長が言う台詞も僕が言う。
「えっ? 本当に?」
「はい」
「でもここ……食堂でしょ? 何かのボランティア?」
「ま、まあ……そんなとこです」
「本当の本当に無料なんですか?」
男性は信じられない様子で、僕から店長へと視線を移す。
「ホンマにお代はいらんけぇ」
「でも、それじゃあ経営が……蛸、今高いですよ?」
男性はしつこく訊いて来た。
今までの客が割とあっさり引き下がったのに対し、今回の客は財布を仕舞おうとしない。
「大丈夫じゃけぇ。材料費もかかっとらんけぇ」
「だとしても光熱費はかかるでしょう?」
そういえば、この家の光熱費はどうなってるんだろう?
神様が払ってる? いや、神様の力で発電したり……はさすがに違うか。
「光熱費は……まあ、かかっとるんじゃろうが」
店長も正直に喋ってる。
「そうでしょう。なら、お代を払わない訳には行きません」
見た目通り、真面目過ぎる人だ。
初めてのお代を巡る対立に僕はひとまず引き留められた、とちょっとだけ安堵してしまった。




