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文月 小暑 穴子(後編)

「お待ちどおさん。穴子の天ぷらと湯引き、それと握り寿司ね。寿司はタレと白焼き、どっちも味は付いとるけぇ、そのまんま食べて」

 今日は店長がカウンター越しに皿を差し出した。

 男性はそれを受け取って、目を輝かせる。


 手前に笹に乗せた二種の寿司、奥に敷紙に乗せた天ぷら、その隣に大葉に盛った湯引き。

 天ぷらの横には藻塩が、湯引きには梅肉ソースが掛けられている。

 一皿に盛る際にそれぞれの料理の下に敷く物を変えて、仕切りを付けた。

 同じ素材を使いつつも(いろどり)にも気を配っている。

 品数が少ない分、量を気持ち多めにしてある。

 先月の客、巳岡さんのアドバイスを活かした盛り付けは、この一カ月の試行錯誤の結果だった。


「穴子づくしですね。美味しそう……では、いただきます」

 男性は丁寧に手を合わせて箸を手に取り、天ぷらをサクッと軽い音を立てて頬張った。

 余程お腹が空いていたのか一心不乱に、けれどとても美味しそうに食べ進め、あっという間に完食してしまった。

 いつもは食事中に話しかける店長も男性の食べっぷりの良さについ見入ってしまったようで、黙って見守っていた。

 僕もつい見入って思わず生唾を飲み込む。

 が、食べ終わったのを見て、慌ててお冷のお代わりを注ぎに行く。


「あー、美味しかったぁ。実はいつもカップラーメンとかだったんで、生き返りました。また明日の夜勤も頑張れそうです」

「そりゃ、()かった。穴子は昼間は穴の中でじっとしとるが、夜になったら動き出すけぇ。夜勤のお客さんにうってつけかもしれんね」

 ニヤリと笑う店長に男性はフッと沈んだ表情になった。

「……実は夜勤に入ってるのは『逃げ』なんです。人間関係に疲れちゃって」

 男性は苦笑して、気まずそうに頭を掻いた。

 ああ、僕が感じたのは『これ』だ。

 この客は僕と同じ、人と関わることから逃げた人だ。


「私の仕事ってクライアントの要望が二転三転するのは当たり前だし、何かトラブルがあると急ぎ直せとせっつかれるのが当然なんです。それにミスなく、できて当たり前の世界なんで、キツイこと言われることもしょっちゅうで……あ、勿論職場にもよるんですが、私のいるところは当たりがキツイ人が多くて……で、辞めちゃう人もいて。ただ、給料が他に比べて良いので、耐えてるってのもあるんですが」

 男性は疲れた表情で吐露した。

「人を相手にするんはどがぁな仕事も大変じゃいのう。理不尽なことを言われたり、責任転嫁する上司がいたりのう」

 店長が腕を組んで天井を仰ぐと、男性は身を乗り出して「そうです、そうですっ」と大きく頷いた。

「お客さんのとこにもそんな上司がおるんか?」

「いますよっ。何か障害があると、まずは犯人捜しが始まるんです。直すのが先だと思うんですけど、これ組んだの誰だ? これ書いたの誰だ? って。その時間が勿体ないっての。営業は営業で知識ないから、クライアントのざっくりした要望をそのまま持って来て、後からこういうつもりで言ってないだとかクレームが入るし。そんで、そのクレームの矛先はいっつも……私だったんですよね。あんまり言い返したりしないから、言いやすい人に当たる。言われる方がどんな心境かなんて、全く想像しない。こっちも同じ人間だって……傷つく存在だって分かってない」

 男性は興奮した様子で、途中から独り言のように言葉遣いも変わっていた。


「わ、分かりますっ。相手に心があるって、分かってない人……いますよね」

 僕も思わず声を上げる。

「僕、それで……引きこもりになったんです」

 店長にもまだちゃんと話していなかったことを、今日初めて会った客に打ち明けた。

 この人なら解ってくれると思ったから。


「そっか。君もか」

 男性はどこか安堵したような表情でそう呟いて、椅子の背に深く寄り掛かった。

「でもさ、逃げるのは良くないって言われたんですよね。心が壊れるくらいなら、逃げて守る方が良いって思うんですけど」

 僕もそう思う。

 逃げるのは悪いことじゃないと思う。

「わしも逃げるんは悪いことじゃない思うが、逃げ続けるんは良くないと思うで」

 店長は静かにそう言った。

「わしが子供ん頃に先生に言われた言葉じゃが、『人を避けるということは学びを避けることでもある』ってな」

「それ、私が言われた言葉と同じかも。職場の先輩に固定で夜勤に入るって話をした時に言われたんですけど」

 男性はそう前置きをして、その時言われた言葉を教えてくれた。


 学ぶということは知らなかったことを知るという行為だ。

 知るということは世界がそれだけ広がるということだ。

 世界が広がるということはそれだけ行動できる範囲が広がるということだ。

 行動できる範囲が広がるということはそれだけ他者に近づくということだ。

 それがあなたにとってどれだけ意味があり、価値があることか、それを知るために学びはある。

 だから、他者を避けるということは学びを避けることでもある。

 なぜなら学ぶということは他者がいて初めてできる行為だからだ。


 だいたいこんな内容だったというその言葉は何かの格言のように聞こえた。


「先輩も同じ先生に学んだのかもしれませんね」

 男性がそう言うと、店長が「それはないな」と笑った。

「わしが小学生の時の先生で? 大昔の話じゃけぇ、とっくに鬼籍に入っとってじゃ」

「え? でも、まだ私と同じくらいでしょう? 先輩も私より少し上なだけで、そう歳は変わらないんで……」

 驚く男性に店長はわざとらしく咳き込んだ。

「あ、ああ。そうじゃね。ほいなら……同じ人かもしれんね」

 そうぎこちなく誤魔化した、ように僕には見えた。


「社会生活を送る以上、人と関わらずに生きていけないのは分かってますが……夜勤は人数少なくて、日勤程キツイクレーム処理もないし、何より上司と直接顔を合わせることが少ないんで。逃げだと言われても、今はまだ日勤には戻れないです。でも……いつかは戻らないとって思ってます」

「サイクリングとも一緒じゃね」

「え?」

「広島から今治まで一気に走るんはしんどいが、尾道で一泊して休んで走れば景色を楽しむ余裕も生まれるじゃろ? 今は休む時じゃ思うて、心を休めるんは悪いことじゃないが」

「そうですね。休んで修理して……また走らないと。君もね」

 男性に言われて、僕はすぐには頷けなかった。


「それじゃ、私はそろそろ……ご馳走様でした。お会計は……?」

 財布を取り出す男性に「お代はいらんよ」と店長がいつものように断る。

「え? それはどういう……?」

「うちに来る人からは誰からもお代は(もろ)うとらんけぇ」

「これもサイクリストの支援体制というか、その一環……な訳ないですよね?」

「違うが、うちは月に一度しかやっとらんボランティアみたいなもんじゃけぇ。満足してもらえりゃ、それがお代よ」

「月に一度だけ? どうりで何度も尾道に来てますが、こんなところにお店があるのに気づかなかった訳だ。そんなお店に来れたってことは、これから運が良くなるんですかね?」

「そうかもしれんで。遠野の迷い家は訪れた者に福をもたらすらしいけぇね」

「なんですか、それ?」

「お? 知らんのか? そがぁな昔話があるんで」

「へぇ。今度調べてみます。でも、本当にお代はいいんですか? 穴子ですよ? しかもお寿司まで」

「ええんよ。美味しかったぁ()うて満足してくれりゃ」

「本当に美味しかったです。本当にご馳走様でした」

 男性がそう言って会釈した瞬間、財布から何かが一枚、床に落ちた。


 拾ったのは自転車の修理の受け取り書で、そこには『馬場(ばば)様』と書かれていた。

 やっぱり今回の客は『午』だった。


「あっ、ありがとう。今から受け取りに行くのにこれがないと……危ない、危ない」

 男性は苦笑して受け取り、再度会釈して笑顔で店を出て行った。


 店の戸が閉まると、カウンターを片付け、自分達の昼食の準備をする。

 そして、カウンターに並んで昼食を摂りながら、僕は店長に引きこもりの話をすることにした。


「さっき、お客さんにも言ったけど……僕、引きこもりなんだ」

 店長はただ黙って食事をしながら、僕の話に耳を傾けた。

「中三でクラス替えがあって、仲良かった友達とはクラスが別になって……友達は同じクラスに新しい友達ができて、僕だけ友達ができなくて……最初はそれでもいいやって思ってたけど、グループで課題をやることも結構多くて……それでもどこかのグループには人数合わせで入れて貰えてたんだけど……」

 ぽつりぽつりと話していると、なんで引きこもりになったのか、自分でも分からなくなって来た。

 大した理由じゃない。

 いじめられた訳じゃないし、何か大きなことが起きた訳じゃない。

 だから、話せる程の、他人を納得させるだけの理由がないことに気づいて、口籠ってしまった。

「学校っちゅうところは集団行動が当たり前じゃけぇね。そこに一人でおるんはしんどいよなぁ」

 黙り込んだ僕に店長は箸を置いて、背中を撫でてくれた。

 その手が優しくて、温かくて。

 背中に隠していたスイッチを押されたように、僕の目から涙が溢れて、喉の奥が苦しくて熱くて、子供みたいに声を上げて泣いてしまった。


 皆が当たり前に友達を作って、当たり前に笑って過ごす姿に、僕はその当たり前ができないことが情けなかった。

 両親も学校から帰って来た僕に当たり前のように「友達はできた?」って訊いて来て、いつまで経っても「できたよ」って答えられない自分が恥ずかしくなった。

 休み時間に教室で一人でいるのはそんなに辛くない。

 ただ、昼休みに一人でお弁当を食べるのは辛かった。

 一人で食べているのは僕だけだったから。


 夏休みに入る直前に風邪を引いた。

 元気になって夏休みが明けても学校には行けなくなってた。

 最初は無理矢理にでも学校に行かせようとした両親も、いつしか部屋から出ない僕が引きこもりになったのだと理解して、学校に行けとは言わなくなった。

 代わりに病院に行こうとは言われたけど、結局それも断念した。


 義務教育だから卒業はなんとかできたけど、高校は受験しなかった。

 同級生は今年大学一年生になっている。

 いつまでも引きこもりのままではいられないと理解してる。

 両親も口には出さないが、早く部屋から出て社会復帰して欲しいと願っているはずだ。

 でも、勇気が出なかった。

 三年も引きこもってたら、外に出ることは恐怖でしかなくなっていた。


「あれ……?」

 目を開けると、部屋で布団に寝かされていた。

 泣きつかれて眠ってしまったようだ。

 益々子供みたいだ。


 店長にどんな顔して会えばいいのか、分からない。

 店長は僕の話をどう思っただろう?

 僕を……どう思っただろう?


 そこに不意に部屋の戸が開いた。

「お、起きたか? もう晩飯の時間じゃけど、食べれるか?」

 いつもと変わらない店長の様子になんだか安堵して、また泣きそうになるのをグッと我慢する。


「店長ってホンマは百歳のおじいさんじゃろ」

 とても三十代のオジサンには見えない。

 若々しさがないし、人生を達観しているような雰囲気もあるし。

 なので、半分冗談でそう言ったのだけど。


「なっ……なんでそないに思うん?」

 慌てる店長にこっちが「えっ?」と驚く。


 本当に中身が百歳の老人なん?

 やっぱり人間じゃ……ない?


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