文月 小暑 穴子(前編)
七月。
天窓から入る陽射しは強くなり、洗濯物がよく乾くようになった。
だけど、店内はエアコンも扇風機もないのに快適だった。
年中、室内は暑さも寒さも感じず、季節感のない空間で、普通ではないのだとつくづく思う。
だからか、天窓から見える空はVRなんじゃないかと思えて来た。
それから、最近の変わったことの一つが食事だ。
先月の客、巳岡さんのアドバイスを実践して、日々の食事も一皿に盛るようになった。
汁物のある時はそれだけ通常通り汁椀が付くが、それ以外はご飯も一皿に盛り付けている。
店長と二人、ああでもない、こうでもないと試行錯誤するのは楽しい。
それともう一つ。
書道をするようになった。
神様から出されたお題に答えるためだ。
巳岡さんが置いて行った筆で書けというお題。
何を書けというのか、具体的な指示がなかったので、僕達はいろんなことを紙に書いてみた。
まずは必需品。
この場所から出られない代わりに、必要な物は言えばどこかに現れ、不要な物は消える仕組みだ。
だから、言葉に出して言う代わりに必需品を書いてみた。
すると、何も起きず、試しに声に出して言うと、いつも通り現れた。
なので、必需品を書けという意味ではないようだ。
次に願いを書いてみた。
僕は店長と一緒にここから一刻も早く出たいと書き、店長は僕達のタトゥーを消してほしいと書いた。
これは書く前に二人で相談して決めた。
そのせいかこちらも何も起きなかったし、タトゥーにも何の変化もなかった。
試しに食べたい物とか行きたい場所とか外の様子を知りたいとかいろんな願望を書いてみた。
でも、何も起きなかった。
日記を書いてみたり、メニューを書いてみたり、思いつく限りのことは試しに書いてみた。
「何を書けばいいんですか?」
素直に問い掛けてもみた。
でも、何も起きないどころか、返答もなかった。
「つまり自分で見つけろっちゅうことじゃね」
店長はそう納得し、僕の肩をぽんぽんと慰めるように叩いた。
そんなこんなであっという間に今月も十二日の朝を迎えてしまった。
今回の食材は水の張った木桶の中にいた。
ぬらぬらと動いて……生きている。
「鰻っ?」
僕が驚くと店長が笑った。
「穴子じゃいね。宮島の『あなご飯』か握り寿司か……ひつまぶしくらいしか思いつかんけぇ、今日はあっさり寿司にしようかのう?」
「天ぷらは?」
「おお、ほうじゃね。困ったときの天ぷらがあったのう。ほいじゃあ、天ぷらと……握り寿司は煮たんと白焼き、あと巻きにして……これだけ新鮮じゃと刺身にしてもええね。ほいから、湯引きもええかもしれんな」
思いつかんと言っていた割にぽんぽんアイデアが出て来て、やっぱり店長は素人じゃないな、と思った。
「穴子も捌けるん?」
「釣りが趣味じゃったけぇね。穴子や鰻も釣ったことはあるけぇ。ただ他の魚に比べるとあんまり釣ったことはないんじゃが……あんまり狙って釣りに行くことはなかったけぇね。捌いたことも二、三回くらいしかないが……なんとかなるじゃろ。ご丁寧に専用の道具も一緒に置かれとったけぇ」
そう言って店長は釘のような錐のような物を手にした。
「これでまな板に固定して捌くんよ。見たことあるじゃろ?」
言われて頷く。
テレビで鰻を捌いているところは見たことある。
「どれ。久し振りにやってみるかの」
そう言って店長は桶から穴子を一匹、少し苦戦しつつも掴み上げ、素早くまな板に目打ちで固定した。
「目に刺さんのん?」
「目打ち言うが、穴子はカマ骨辺りに打つんがええんよ。鰻と似とるが別の魚じゃけぇね。やり方も微妙に違うんよ」
言いながら手は滑らかに動き、あっという間に身を開いて内臓を取り出す。
「そういや血合いに毒があるんじゃった気がするな……やっぱり刺身は止めとこうか」
「毒ってフグはよく聞くけど、穴子にあるって聞いたことないけど?」
「刺身で食べることがあんまりないけぇね。鰻にも確かあったはずで。まあ火を通しゃあ大丈夫なんじゃけど」
数回しか捌いたことがない割に職人のような手つきだ。
途中「こっからどうじゃったかいのう?」と零して手が止まっていたが、すぐに「そうじゃ、そうじゃ」と再び手が動いた。
「ホントに料理人じゃないん?」
「わしは会社勤めしとったんよ。営業に長いことおったが、経理や人事も経験したで」
「えっ? 店長って何歳なん? そんなに部署ってころころ変わるもんなん?」
「あっ……」
手を止めて顔を上げた店長は酷くうろたえていた。
「店長って……ホンマに何歳なん? 未だに名前も教えてくれんし、歳くらい教えてくれてもええじゃろ」
「あ、あんたより年上じゃ」
「それは見たら分かるよっ」
「分かっとるならええじゃろ」
「そうじゃなくって……」
そんな言い合いをしていると、不意にガラッと店の戸が開いた。
その音に振り返ると、汗だくの男性が息を切らせて立っていた。
「あの……まだ準備中でしたか?」
僕達の様子に戸惑う男性に店長が慌てて笑顔で取り繕う。
「いらっしゃい。開いとるけぇ、お席どうぞ」
「良かった。じゃ、えっと……」
男性が席に座りながら店内を見回す。
「うちはランチは一つしかないけぇ、ちょっと待っとってください。今日は穴子じゃけど、大丈夫かね?」
「あ、はい。大丈夫です。宮島に行かないと食べれないかと思ってたんで、逆に良かったです」
「お冷とおしぼりです。どうぞ」
店長と会話している間に僕もさっと用意して男性に渡す。
「ありがと。今日は暑いですねぇ。尾道は坂が多いから、余計に汗が出て……冷たいおしぼりは有難いです」
男性はおしぼりを広げ、顔と首を拭いた。
それからお水を一気に飲み干してしまったので、慌ててお代わりを注いだ。
おしぼり、冷やしておいて良かった。
お茶も氷を入れたお水にしておいて良かった。
この店にいると季節感があまりないが、天窓から見える空とそこから降り注ぐ陽射しで外は暑いんだろうな、と思った。
それでお茶より水かな、と実は昨日の夜から氷の準備をしておいたのだ。
毎年ゴールデンウィーク頃から気温は夏日になることが多いのだけど、それをすっかり忘れていた。
テレビも何もないからニュースも見ないし、天気予報も分からない。
接客とはおもてなしだ。
客のことを考えて行動するためには、こういった情報がとても大事だと改めて思う。
「観光ですか?」
Tシャツに薄手のパーカーを羽織り、下はスウェットというラフな服装だったので仕事とは思えなかった。
「いえ、自転車が趣味で、前回来た時にパンクして……それで修理に預けていたのを取りに来たんです。この辺、良い自転車屋が多くて。尾道はサイクリストの聖地ですしね」
「どちらから来られたんですか?」
「広島です。家は今治なんですが、転勤で。今日は尾道で一泊して明日、自転車で今治に帰ろうかと」
「えっ、自転車で?」
今治って愛媛だよね?
広島から自転車で四国まで行くなんて僕には考えられない。
「急いでる時や疲れてる時は電車を使いますが、しまなみ海道を自転車で走るのが気持ち良くて。自転車も部屋に持ち込めるホテルもこの辺だとあるんで」
「確か駅前にもそんなんができたって聞いたことあったな。ほいじゃが、自転車じゃかなり時間がかかるじゃろ?」
店長が手元を動かしながら話に交ざる。
「尾道から今治までなら結構道が良いし、サイクリストの受け入れ態勢が整ってるんで、四、五時間程度で行けますよ」
「そんなもんか? 思うたより速いんじゃのう」
「ロードバイクならスピード出るんで。僕の場合はだいたい三、四十キロかな? プロの人だと七十キロ以上で走る人もいるらしいけど。車道を走るんで、車の迷惑にならないように頑張るんですけどね。車だとあんまり感じないですが、ちょっとの坂でも自転車だと結構キツくて」
「ほうじゃろうのう。意外と平坦な道は少ないけぇね。ところで、仕事は何しとってん?」
「SEをしてます。シフトが夜勤固定で入ってるんで、仕事終わりに来たとこです」
「えすいぃー?」
「システムエンジニアです。簡単に言うと、システム設計とか保守とか……要はパソコン関係の仕事です」
店長の眉間にどんどん皺が寄っていくのを見て、男性は詳しく説明するのを諦めたようだ。
よく聞く職業名だが、僕も実際はどんな仕事をしているのかあまり知らない。
でも、なぜか店に入って来た瞬間から、この男性は僕と『同じ』だと思った。




