第93話『リリシアの焦燥』【陰謀と真実の序曲編⑫】
夜が明け、治療院の白壁に朝の光がやわらかく差し込んでいた。
窓辺のカーテンが風に揺れ、薬草を煎じた香りが部屋いっぱいに広がっている。
砦での戦いから一夜。
カイはまだ深い眠りの中にいた。
包帯で覆われた左腕は、手首の先から先が無く、布の下には魔法で焼き固められた治癒痕が残っている。
傷口はすでに塞がっているが、その痛々しさは隠せなかった。
それでもカイの顔は穏やかで、まるで長い戦いの後の安堵を示すかのように、静かな寝息を立てていた。
◆◇◆
二人の娘が、その横で並んで腰を下ろしていた。
ルーティアとリリシア。
普段は一触即発の空気を纏うこともある二人だが、この夜ばかりは同じ方向を向き、同じ人を見守っていた。
リリシアの胸は、まだ昨夜の出来事で締め付けられていた。
あの瞬間、抑えきれずに魔族の姿へと戻ってしまった自分。
そして「禁呪リバイア―」を使った事実。
(見られてしまった……。彼女に、ルーティアに……。どう思われているんだろう? 軽蔑された? 恐れられた?)
心の中で問いを重ねるほどに、恐怖と不安が混じり合って胸の奥で渦を巻いた。
けれど、黙っているわけにはいかない。
彼女はゆっくりと視線を横に向け、隣に座るルーティアに小さな声で切り出した。
「……見ましたよ、ね?」
言葉は空気を震わせるほどの弱々しさだった。
リリシアの両手は膝の上で固く握りしめられ、指先は白くなっている。
魔族の姿を晒してしまったこと、その姿を他人に知られたことが、こんなにも怖いとは――。
ルーティアは、すぐに答えを返した。
それはあまりにも肩の力が抜けた、拍子抜けするほど明るい調子だった。
「あ~、あの正に鬼の形相みたいなの? あの時、私だって同じ顔をしていたわよ。」
リリシアの紫紺の瞳が大きく見開かれる。
予想していた反応――恐怖や詰問――は返ってこなかった。
代わりにあるのは、まるで他愛もない出来事を語るかのような、あっけらかんとした言葉。
「……そんなふうに、見えましたか?」
リリシアは戸惑いを隠せない。
「ええ。」
ルーティアは真っ直ぐ前を向いたまま、涼しい声で言い切る。
「自分の大事な人を守る時、人間だって魔族だって関係ないんでしょう? 必死になれば、誰だってああいう顔になるのよ。」
リリシアの心臓が強く跳ねた。
思いもしなかった答えに、胸の奥に溜まっていた黒い靄がほんの少し、晴れていく。
しばし沈黙が訪れた。
治療院の外からは、鳥の鳴き声と遠くの鐘の音がかすかに届く。
その音が心臓の鼓動と重なって、リリシアの緊張を和らげていった。
そして、ルーティアが突然身を寄せてきた。
頬と頬とが軽く触れ合う。
その距離に、リリシアは思わず体を硬直させる。
「まぁ、カイは私たち二人を本気で怒らせないことね。」
頬に触れる温もりのまま、ルーティアは小声で囁いた。
「――っ!」
リリシアの呼吸が一瞬止まる。
あまりに意外で、あまりに距離の近い言葉。
驚きと同時に、なぜだか笑いが込み上げてくる。
「……そうですね。」
リリシアは微笑んで答えた。
頬に触れる温もりが不思議と心地よく、胸の奥にあった不安は少しずつ薄れていった。
◆◇◆
そのやり取りを、カイは「眠ったふり」をしながら聞いていた。
目を閉じていたが、耳はしっかりと二人の声を捉えていた。
痛むはずの左腕の感覚よりも、彼の胸に残ったのは妙にくすぐったい気持ちだった。
(若いんはええなぁ~……。)
内心で呟き、こっそりと口元を緩める。
笑いを噛み殺すように、寝息のリズムを保ちながら。
彼にとっては左手を失った夜だったが――二人の少女にとっては、互いを少し認め合った夜でもあった。
やがて、治療院の窓から差し込む光が強くなり、カーテンの布地を透かして白い輝きを落とした。
その光に包まれるように、三人の間に流れる空気はほんの少しだけ、柔らかく、温かくなっていた。




