第91話『迫る影、揺れる魔王』【陰謀と真実の序曲編⑪】
砦の奥に残された黒い糸は、焼け焦げた残骸のように床に散らばっていた。
それでもなお、どこか生き物のように蠢き、消える瞬間まで不気味な音を立てていた。
「……やっぱり、タダでは済まさんかったな。」
カイはチョークを指で転がしながら、床に描いた数式を消していく。
「式の痕跡が残っとる。向こうはこれを逆算して、ワイらの動き探るつもりやろな。」
ルーティアは紅剣を納めつつも、まだ鋭い視線を崩さなかった。
「旦那様。つまり、また来るということですわね。」
「せや。……しかも今度はもっとでかい波や。」
その時、リリシアがふらりと膝をついた。
慌てて駆け寄るルーティアと護衛団。
「大丈夫ですか!?」
「姫!」
リリシアは深く息を吐き、かすかに笑った。
「ええ……少し力を使いすぎただけ。……でも。」
紫紺の瞳に強い光が宿る。
「パパが……きっと動かされるわ。」
◆◇◆
その頃、魔界。
王の間は重苦しい沈黙に包まれていた。
黒曜石の玉座に座る魔王の前に、闇の使者が跪く。
仮面の幹部からの挑発が、伝令の口から告げられたのだ。
「――王の娘を囚い、王を人の国に呼び寄せる。
そして人と魔を戦わせ、疲れた両者を討ち、新たな秩序を築く。……と。」
「不届き者め。」
魔王の声は低く、地を震わせた。
巨大な手が玉座を握りつぶさんばかりに締め上げる。
「我が娘を囚うだと……!」
周囲の魔族の将たちが一斉に武器を取り、声を上げる。
「陛下! 直ちに人の国へ!」
「その首魁を討ち滅ぼせ!」
玉座の間に怒りの波が広がる。
◆◇◆
その瞬間。
リリシアの手に小さな光が舞い降りた。
――魔伝書鳩。
「パパ……!」
彼女は震える手で羊皮紙を開き、急いでペンを走らせる。
『パパ、どうか待って。私は無事。仲間たちが私を守ってくれた。
人の国に来ないで。あなたが来れば、敵の思うつぼ。
私は……もう子供じゃない。自分の力で守りたいものがあるの。』
涙で文字が滲む。
それでも必死に書き上げ、鳩に託した。
小さな光は夜空に飛び去り、見えなくなる。
リリシアは胸に手を当て、強く願った。
(届いて……パパ。)
◆◇◆
魔王の間。
黒い空気を裂いて、一羽の光が舞い降りた。
魔伝書鳩が玉座の前にとまり、羊皮紙を差し出す。
魔王は震える手でそれを取り、娘の文字を一字一句、噛みしめるように読んだ。
読めば読むほど、怒りが鎮まり、胸に重い寂しさが広がっていく。
「……リリシア。」
巨大な瞳から、ほんのわずかに光がこぼれた。
将たちはなおも進軍を求めたが、魔王は静かに手を上げ、制した。
「動くな。……我が娘は生きている。守られている。」
「しかし……!」
「黙れ。お前たちでは、あの娘の願いを踏みにじるだけだ。」
重々しい声が響き、王の間を沈黙が覆った。
◆◇◆
一方、学園の塔に戻ったカイたち。
ルーティアは椅子に腰を下ろしたリリシアの肩を支え、心配そうに覗き込んでいる。
「旦那様、これからどうしますの?」
「敵は必ず次を仕掛けてくる。魔王を揺さぶるんが狙いやろ。せやけど――」
カイは黒板に大きく「0」と書いた。
「ワイらの勝率を“0”にするわけにはいかん。次は完璧な“1”を取りにいくで。」
リリシアはその文字を見て、思わず笑った。
「先生……あなたらしいわ。」




