第83話『狙われた姫』【陰謀と真実の序曲編③】
夕刻の街は、焼き物の匂いと人いきれで温く、屋台の灯がぽつぽつと点っていった。
クロス組の面々は実地演習を終え、学園への坂道に向かう準備をしている。
リリシアは護衛団の先頭に立ち、買い物籠を片手に、もう片方の手で髪を耳にかけた。
「先生、今日はここまでにしましょう。」
「せやな。腹も減ったし、夕餉前に戻るで。」
カイは屋台の親父と軽く会釈を交わし、財布を閉じる。
「兄者、今なら“あと一串オマケや”って言わせられる気がする。」
「弟よ。先生の前でその発想はアカン。」
「せやな!」
双子の小声の相談を、メリルの真面目な声が打ち消した。
「先生、帰り道に“甘いもの補給所”を挟むのは学習効率的に有利では?」
「お前なぁ、甘味所を“補給所”言うのやめぇ。」
「……補給所(仮)。」
「仮でもアカン。」
皆が笑った。
その笑いの輪から半歩だけ離れた位置で、リリシアはふと足を止めた。
(……風が、引っかかる。)
さっきまで市場を撫でていた風が、急に“角”を持った気がした。撫でるのではなく、突く風。
屋根の棟、路地の影、石橋の下。視線が散っている。けれど、中心が自分に集束している。
「ルーティア。」
「分かってますわ。」
紅いリボンが小さく揺れ、ルーティアは自然な動作で一歩前へ。
護衛団が何も言わずに配置を変えた。ツェイルは尾、カサは壁、双子は左右、メリルは“補給”を諦めて袖の内へ瓶を滑らせる。
ゴルムは……アメちゃんの袋をカイに託し、両手を空にした。
「先生、持ってて。」
「預かったけどな、なんで作戦前にアメちゃん託されとるんやワイ。」
「戦闘で砕けるともったいない。」
「理由が主婦や。」
◆◇◆
最初の一撃は、鐘の音に紛れて落ちた。
尖塔の半時を告げる清澄な音が三つ鳴り――四つ目の途中で、金属の泣き声が混じる。
屋根から滑ってきた影が、リリシアの背中を“押す”角度で触れた。刃ではない。押し。転ばせ、袋に詰めるための力。
リリシアは、踏み替えの半歩を“減らした”。
踵を半分だけ、石の目に噛ませ、押しの角度をずらす。
影の手は肩を外れ、空を掴んだ。
「遅い。」
ルーティアの紅剣が花弁のように開き、影の手首をはたく。
金属音が火花になって弾け、仮面の男が壁際へ跳んだ。
路地の奥、別の影が二つ飛び出す。
背後からもう二つ。
合計五。
さっきの市場での“試し”より牙が長い。
「姫、失礼。」
ツェイルが足元の影に解け、次の瞬間は屋根の端で仮面と刃を交える。
「幻膜、薄く張る。一般人に見えない、音だけ和らげる。」
カサの声は落ち着いていて、瞳だけが鋭い。
ゴルムは前に立った。
巨大な盾のように。
「……通行止め。」
低い声が地面に潜り、石畳がほんの少し軋んだ気がした。
仮面の一人が手にした短槍を投げる。
風切り音が耳に不快な線を引く。
けれど、槍はゴルムの前で“沈んだ”。
見えない“面”がそこにあり、角が撫で落とされて、地に、柔らかく刺さった。
「先生の面、借りた。」
「ええよ。家賃いらん。」
「ありがとうございます。」
「礼は三文以内で済んどるな。えらい。」
メリルがいつの間にか敵の袖に小瓶の霧を振りかける。
「“むずむず粉”。痒い。戦意を削る。」
仮面の男が「むずむずむず……」と無言で身を捩り、ルーティアの柄打ちで路地の隅に転がった。
◆◇◆
だが、敵の狙いは“押し”だけでは終わらない。
屋根の棟から、符札が三枚、ひらひらと舞い落ちる。
地に触れた瞬間、黒い格子のような魔法陣が広がった。
“縫い”だ。足首から膝へ、膝から腰へ、見えない糸が人の動きを縫い止める。
「動き封じ……!」
リリシアの足首に冷たい糸が触れ、びくりと力が止まる。
ルーティアが即座に斬り払うが、斬った箇所から糸が増殖する。
「増える糸か。ほな――」
カイがしゃがみ込み、格子の角にチョークで“丸”を描いた。
角が丸くなれば、糸は絡まらず、滑る。
縫い止めの魔法陣は「ぬるん」と嫌な音を立てて形を崩し、足首の拘束がほどける。
「助かった。」
「礼はアメちゃんでええ。」
「後で一袋。」
「交渉が豪快やな。」
敵の一人が舌打ちし、矢の先に符を巻いて放つ。
矢は途中で増え、三に、五に、七に。
リリシアの肩へ、腰へ、喉へ。
「アカン。」
ゴルムが一歩踏み出し、両手を広げた。
矢が面で摩擦を失い、肩口の上でくるんと跳ね、地にばらばらと落ちる。
その間に、ルーティアが紅剣を一閃。
屋根の端の“増やし”の符を持つ仮面を、柄で顎を打って昏倒させる。
「旦那様を狙うなら、まず私の許可を得なさい。」
「誰が許可するか。」
「許可しませんわ。」
噛み合っているのかいないのか分からない会話が、妙に頼もしい。
◆◇◆
戦況がわずかに傾いた時だった。
路地の奥――最初から誰もいないはずの暗がりが、ひとつ“深く”なった。
闇が“穴”として在る。
鋭く、乾いた匂い。
そこから、男が一人、すっと歩み出た。
他の仮面より衣が薄い。
身のこなしは軽く、足音は“軽すぎる”。
重さがない。
それは、一番厄介なタイプの斥候だった。
「――お迎えにあがりました、姫。」
仮面の奥の声は穏やかで、丁寧だった。
「手荒な真似は望みません。どうか、そのままおいでください。」
リリシアは一歩も動かない。
紫紺の瞳が、氷のように静まる。
「あなたたちは、誰。」
「影。」
短い答え。
「闇に在り、光を測る者。」
「謎かけは結構ですわ。」
ルーティアが前に出る。
「旦那様の生徒に、手を出さないで。」
「では――紅の令嬢。あなたを先に眠らせましょう。」
男が指先をひと振り。
糸の帯が空に走り、ルーティアの瞼にふわりと触れる。
睡眠の魔。
だが、その糸は“見えない面”で丸まって、ぼとりと落ちた。
「せやからアカン言うてるやろ。」
カイの声は柔らかかった。
しかし、彼の前の空気は、磨き上げた鏡よりも滑っていた。
眠りの糸はそこに角を失い、ただの“柔らかい風”になる。
「面白い。」
仮面の男が初めて感情を露わにした。
「あなたが教師、ですね。」
「割と真面目なほうのな。」
「では、真面目にこちらも――」
男の足元で、闇がまたひとつ“深く”なる。
小さな穴。
そこから、黒い“手”が無数に伸びた。
地の下の影が、地上の影へ。
踏みつけた足を、掴もうとする“手”。
リリシアの足首に、冷たい指が触れた。
(――まずい。)
彼女が力を集めるより早く、ゴルムの腕が伸びた。
大きな手がリリシアの腰を抱え上げ、ひょいと持ち上げる。
「持ち上げる。」
「わぁ!?」
リリシアの頬が一気に赤くなる。
「お、おろして!」
「掴まれない高さに退避。先生、どうぞ。」
「ナイス背伸び。」
カイは腰を落とし、地の“穴”にチョークで斜線を引いた。
斜線は“拒否”の印。
穴の縁が“角”を増やし、手は絡んで自滅する。
黒い指が互いに絡み、ほどけなくなったところを、双子が左右から同時に刃で断つ。
「兄者!」
「弟よ!」
「せやな!」
「せやな!」
「“せやな”は今いらん!」
カイのツッコミが飛ぶ。
◆◇◆
仮面の男は一歩だけ下がった。
撤退の合図。
屋根の上の残りの影が、ひゅ、と音を残して消える。
路地の奥の“穴”も、ゆっくりと塞がっていく。
「今日は“試し”だけ。」
男が帽子を取る代わりに、仮面の縁へ指を触れた。
「姫。いずれ、お迎えします。」
そして、煙のように、風のように、輪郭を溶かして消えた。
残されたのは、かすかな墨の匂いと、石畳の上の黒い焼け跡。
「……ちょっと。」
まだゴルムに抱えられていたリリシアが、真っ赤なまま拳でゴルムの肩をこづく。
「おろして。」
「了解。」
そっと降ろす。
リリシアは地面に足を置き、深呼吸して気持ちを戻した。
「助かった。ありがとう。」
「どういたしまして。」
「三文で収めたの、偉いわ。」
「がんばった。」
ルーティアが剣の鞘を軽く叩く。
「旦那様。追います?」
「いや、ええ。」
カイは焼け跡の縁にしゃがみ込み、指で黒い粉をつまんだ。
「足場がある。次は、もう少し広い場所、法の薄いところを狙ってくる。」
「学園の外縁?」
「境の向こうやな。」
リリシアは拳を握った。
指先が白くなる。
「私、足を引っ張らない。」
「誰もそんなこと言うてへん。」
カイは微笑み、飴玉をひとつ取り出して、手のひらに乗せた。
「はい。甘いもん、食べてから考えよ。」
「……はい。」
リリシアは受け取り、飴玉を舌にのせる。
甘さが喉を降りて、胸のざわめきが少しだけ静まった。
◆◇◆
夜。
闇の間。
“声”が、乾いた石に爪を立てるような音とともに落ちてきた。
「姫は容易ではない。守りが良い。教師は“理”で戦う。紅剣は“熱”で断つ。盾は“面”を立てる。」
影たちがひざまずく。
「はい。人の街での攫取は難航するかと。」
「ならば、揺らせ。」
声は平坦で、冷たい。
「火をつけ、声を上げさせ、民を泣かせろ。救いを求める声ほど、守りを脆くするものはない。」
「王は……?」
「必ず来る。娘の涙に、王が耳を塞ぐことはない。」
暗闇で、細い笑いが広がっていく。
「戦わせろ。王と人を。
そして、疲れた双方を――我らが討つ。」
石の天井が低く唸り、闇がさらに濃くなった。
◆◇◆
学園の寮に戻る坂を、クロス組は肩を並べて歩いた。
いつもの喧噪は戻っている。
双子は「せやな」を封印しようとして失敗し、メリルは「補給所(仮)」の開店時間を確認し、ツェイルは影の長さで時刻を測り、カサは眼鏡の角度を一度直し、二度直し、三度直した。
ゴルムは――カイから返してもらったアメちゃんの袋を、大切そうに胸にしまった。
リリシアはふと、ルーティアの袖を軽く引いた。
「……さっき、ありがとう。」
「当たり前ですわ。」
ルーティアは少しだけ顎を上げ、横目で笑う。
「旦那様の生徒は、私の――」
「競争相手?」
「……それも、ある。」
ふたりは同時に小さく笑って、それ以上何も言わなかった。
尖塔に灯がともる。
その灯の数だけ、守りたい顔が増えた。
そのぶん、敵の影も濃くなる。
カイは空を見上げ、心の中で式をひとつ組んだ。
丸めるべき角、立てるべき面、増やすべき光。
全部、黒板に乗せられるといい。
そう思いながら、歩幅を皆に合わせた。
明日も授業。
けれど、明日は――少し、鋭い。




