第71話『魔王の娘、夢を語る』
さて、今回は、リリシアが人間界にやってくることになった経緯を少しお話ししましょう。
黒曜の塔が幾重にも天を刺し、闇の風が城の縁を巻いた。
魔王城の大広間は、いつにも増して磨かれている。
漆黒の床に灯が細い筋で落ち、玉座の階まで光が筋道を描いていた。
その階の下、ひとりの姫が凛と立つ。
リリシア。
夜の水を思わせる紫紺の瞳が、真っ直ぐに玉座を射抜いていた。
「パパ。私は、学園に行きたいの。」
呼吸ひとつ分の静けさ。
そして、玉座の腕の間で組まれていた大きな指が、ゆっくりほどけた。
「――学園、だと。」
魔王の声は低く、石壁の継ぎ目を往復して、やっと耳に戻ってくる。
「人の築いた寄り合い所帯に、我が娘が身を置くと申すか。」
「そう。」
リリシアはひるまない。
「“理”を学びたいの。書で読むだけでは、もう足りないのよ。」
「理、理、理と。……お前は幼い頃から、そればかりだ。」
魔王は肘かけに拳を置き、わずかに身を乗り出す。
「詩でも歌でも舞でもなく、“理”。」
「だって、美しいもの。」
即答。
「式がぴたりと噛み合って、世界が一歩、静かになる瞬間。あれは魔法よ、パパ。」
「魔法はこちらの専売だ。」
「だからこそ、向こうの“理”と、こちらの“魔”を並べて見たいの。」
リリシアの声は真っ直ぐだ。
「本で読んだだけじゃない。“向こう”で呼吸して、“向こう”の板書の前に立つ人たちの目を見て、学びたい。」
「向こう向こうと、お前は――。」
魔王は舌を打ちたい衝動を、喉の奥で押しとどめた。
側近が一歩出ようとして、魔王の手の一振りで足を止める。
「危険だ。」
短く、決定の調子で言い切る。
「我らの領ではない。秩序も掟も違う。お前の名は重い。重い名は、狙われやすい。」
「狙われたら、避けるわ。」
「避けられぬ時は。」
「斬るわ。」
「斬れぬ時は。」
「助けを呼ぶわ。」
「助けが来ぬ時は。」
「……来るまで生き延びるわ。」
魔王はあきれ、そして同時に、少し誇らしかった。
(強い。そこは私に似たか。)
だが、頷くには父としての骨がまだ軋む。
「城で学べ。」
魔王はいつもの答えを繰り返す。
「蔵書は山ほどある。賢者も呼べる。わざわざ外に出る理由はない。」
「理由なら、いっぱいあるわ。」
リリシアが指を折る。
「まず、私がそれを望むから。次に、向こうの“理”はここの魔法と違って、言葉で手触りを残すのが上手いから。あとは――」
「十分だ。望むとか、手触りとか、詩みたいな言葉で押し通すな。」
魔王は思わず立ち上がりかけて、ぎりぎりで踏みとどまった。
「いいか。私は父であり、王だ。王は軽々しく娘を外に出せん。」
「じゃあ、父として許して。」
正面突破だ。
「王としては許さないでもいい。父として、背中を押して。」
「……図々しい。」
魔王は額に手を当て、深く息を吐いた。
「図々しさも、私ゆずりか。」
「ゆずりね。」
リリシアは笑う。
「だから、お願い。」
魔王は沈黙の時間を長く引き伸ばした。
従者の呼吸が一度、揃う。
大広間の高窓が、遠い風で微かに鳴った。
やがて、魔王は短く首を振る。
「許さん。」
リリシアの瞼が、音もなく上下した。
頬の筋肉が、ほんのわずか強張る。
次の瞬間、彼女はくるりと背を向けた。
階段を一段も上らず、ただ一歩、広間の奥へ。
そして、振り返りもせず、はっきりと言った。
「――じゃあ、もう口を利かない。」
従者のざわめきが一斉に高くなる。
魔王は「ふん」と鼻を鳴らし、肩で笑った。
「子どもの脅しだ。三刻で飽きる。」
「三刻どころか、一刻も無駄にしないわ。」
リリシアはそれだけ言い、裾を翻した。
歩み去る靴音は、静かで、抗いがたい。
広間の扉が閉まる。
魔王は玉座に背を預け、片手で顔を覆った。
(……始まったな。)
◆◇◆
一日目の朝。
大食堂の長卓。
銀の蓋が音を立てて外されるのに合わせて、香りが順々に広がる。
魔王は椅子に腰掛け、いつものように「食え」と顎で示した。
いつものように、リリシアは「いただきます」と言うはずだった。
――言わない。
席には座る。
ナイフもフォークも正しい角度で持つ。
しかし、口を開かない。
皿が空になっても、口を開かない。
魔王が隣の皿をそっと差し出しても、微笑みだけ返して、口を開かない。
昼。
回廊で出会っても、会釈だけして、口を開かない。
夕。
図書塔の前で、腕に山のような本を抱えながら、口を開かない。
夜。
寝所の前。
魔王がわざとらしい咳払いで呼ぶ。
「おい、リリシア。」
振り向く。
紫紺の瞳がやわらかく光る。
しかし、口を開かない。
(二日目には、何か言うだろう。……だろう?)
◆◇◆
二日目。
言わない。
三日目。
言わない。
四日目。
従者がそわそわし始めた。
城中の小さな生きもの――廊下の蜥蜴から、鐘楼の蝙蝠までが、空気の変化にざわついた。
侍女頭が恐る恐る進言する。
「陛下。姫様は……」
「元気だ。」
「お声が……」
「出る。出るが、出さんのだ。」
「……で、ございますよね。」
側近の老魔が提案した。
「陛下。道を一つ譲られては。」
「私が譲るのか、娘が譲るのか。」
「娘御は、今、沈黙という名の大演説をしておいでです。」
「うるさい演説だ。」
「音は一つも出ておりませんが。」
「……うるさい。」
◆◇◆
五日目。
魔王は耐えかねて、書記に命じた。
「紙を寄越せ。」
筆を取り、重い字で短い文を書く。
『お前の行きたい気持ちは分かる。考える時間をくれ。父』
供の小悪魔に持たせて、娘の部屋の隙間からそっと滑り込ませる。
数刻後、扉の下から返事が滑り出てきた。
『考える時間は、もう何年も頂きました。結論だけ下さい。娘』
魔王は額に手を当て、天井の彫り物を睨みつけた。
「……詰んだ駒をどう動かす。」
六日目。
魔王は蔵書庫の鍵を増やす案を出した。
「新しい階を開けよう。禁書もだ。特別に。」
返事。
『ありがとう。行き先は変わりません』
七日目。
庭園の白い花が咲いた。
魔王は花を摘んで自ら届けかけて、途中で立ち止まった。
「私は何をしている。」
(父だ。今は、王より、父だ。)
扉を叩く。
開く。
リリシアは机に向かって、書を閉じたところだった。
沈黙。
目と目が合う。
魔王は大股で部屋に入り、息を吐いた。
「降参だ。」
リリシアの瞳が、まばたきの後でやわらかく揺れた。
それでも、口を開かない。
魔王は苦笑した。
「……口、利いていい。」
リリシアは、そこでやっと唇を開いた。
「――ほんとうに?」
「本当にだ。」
魔王は背筋を伸ばし、低く続けた。
「父として、認める。お前を学園へ行かせる。」
リリシアは椅子を引き、立ち上がり、歩み寄り――ぴたりと一歩手前で止まった。
礼をする。
頭を深く下げ、丁寧に。
そして顔を上げたとき、紫紺の瞳に光が射していた。
「ありがとう、パパ。」
「ただし、条件がある。」
魔王は指を一本立てる。
「毎週、手紙を寄越せ。魔伝書鳩を使え。人の目には映らぬ、我らの鳩だ。」
「毎週。」
「曜日も決める。向こうでの“日曜日”の夕刻。必ずだ。」
「いいわ。必ず飛ばす。」
「文の始めには“葡萄は甘い”と書け。」
「……合言葉?」
「お前の筆致は百里先からでも分かる。だが念には念を入れる。」
「わかったわ、パパ。」
「そして、もし一度でも鳩が届かぬときは――」
魔王の声が陰を帯びる。
「私は門を開き、お前を迎えに行く。領も、規も、礼も、その時は置いておく。父として。」
リリシアは真面目な顔で頷いた。
「うん。鳩が遅れるときは、必ず理由も書く。」
「それからもう一つ。」
魔王は厳めしく見せようとしたが、片方の口角がわずかに上がってしまう。
「次に“口を利かない”と宣言したら、私が先に口を利かない。」
リリシアはくすりと笑った。
「それは困るわ。」
「だろう。」
魔王も笑った。
ようやく、空気の重さが少し溶ける。
「護衛はつける。」
「もちろん。」
「数は――」
「多すぎると人目を引くから、ほどほどに。」
「お前の“ほどほど”は、たいてい世間の“多い”だ。」
「じゃあ、十九。」
「ほどほどではない。」
「でも、きっと楽しいわ。」
「……その言葉が出ると、大抵大変なことになる。」
魔王は頭を振り、手を広げた。
「よし。護衛は十九。志願を募る。名は向こうで名乗るための名に変える。――そして、出立は二十日後。準備を抜かるな。」
リリシアは背筋を伸ばし、両手を胸の前で合わせた。
「命に従います。」
沈黙が、柔らかい沈黙に変わった。
部屋の隅で侍女がほっと肩を落とし、廊下の蜥蜴が壁に顎を乗せ直し、鐘楼の蝙蝠が一羽だけ、ひっそり逆さのまま拍手した。
魔王は扉の方へ歩きかけ、ふと振り返る。
「リリシア。」
「なぁに。」
「向こうで“父”の話をするなとは言わん。だが、わがままを言うなら、先に私に書いてから言え。」
「うん。」
リリシアは笑って頷く。
「わがままの控えは、全部、“パパ宛て”に書くわ。」
「よろしい。」
魔王は喉の奥で笑い、扉に手をかけた。
重い蝶番が、ため息みたいな音で開いた。
◆◇◆
廊下に出て、側近が寄ってくる。
「陛下。お疲れのご様子。」
「疲れなどない。」
魔王は言いながら、額を指で揉む。
「少し、静けさが戻っただけだ。」
「姫様は幸せでございます。」
「当然だ。私の娘だ。」
「陛下も、でございます。」
「……当然だ。」
歩き出しながら、魔王は心の内で短く祈った。
(毎週、鳩が来ぬ日が、ありませんように。)
そしてもう一つ、誰にも聞こえないほどの小さな声で付け加える。
(――向こうで、いい師に会え。)
黒曜の窓に映る自分の横顔が、ほんの少し柔らかく見えた。
その変化に自分で驚き、少しだけ咳払いをする。
魔王城の風がいつもより甘く香ったのは、台所の砂糖壺が誰かに少し多く使われたせいだろう。
それとも、娘の未来の頁が、静かにめくられた音のせいかもしれない。
こうして、リリシアの“沈黙の大演説”は七日で幕を閉じ、父と王は折れた。
条件は一つ。
毎週、向こうの夕刻に、魔伝書鳩で無事を知らせること。
人の目には映らぬ、こちらの翼で。
合言葉は“葡萄は甘い”。
返事は必ず“甘いに決まっている”で。
それを書き記した小さな羊皮紙を胸にしまい、リリシアは窓を開けた。
遠い空の色は、まだ知らない“青”の気配を孕んでいる。
頬を撫でた風は、旅の匂いがした。
そして次に始まるのは――護衛を選ぶ大騒動である。
もちろん、計画としては静粛に、滞りなく、滞在先で目立つことなく進むはずだ。
計画としては、である。




