第50話『不穏な囁き』【陰謀と策謀の王都編①】
夏の名残を抱えた風が、学園の尖塔を撫でていく。
長かった休暇が終わり、王立ロゼリア学園にまた活気が戻ってきた。
教室の窓は明るく、校庭は生徒の笑い声で満ち、石畳の廊下には足音が反響する。
――だが、その喧騒の裏には、妙なざわめきが混じっていた。
「聞いたか? カイ先生のこと」
「うん、王都で“異邦人を公爵家から引き離せ”って噂が流れてるって……」
「でも領民は“婿殿先生”って呼んで慕ってるんだろ? どっちが本当なんだろう」
囁きは壁を伝ってどこまでも広がり、泡のように弾けては、また別の場所で生まれていた。
黒板用のチョーク箱を小脇に抱えながら、カイは心の中で呻いた。
(またワイかいな)
(なんでこう、ええ意味でも悪い意味でも話題になってまうんや……ワイ、ただの数学教師やのに)
思わず胃のあたりを押さえる。
休暇中に領地の畑や水路を救ったことが、善意の声と悪意の声、両方を呼び寄せてしまったのだろう。
◆◇◆
「カイ」
背後から、涼やかな声がした。
振り返ると、真紅のリボンを揺らしたルーティアが立っていた。
青い瞳は朝の光を反射してきらめき、まっすぐに彼を見つめる。
「おはよう。今日も眩しすぎて、校舎の壁が割れそうやな」
「割れるのは困りますわね。でも、燃やすのは私の心だけで十分です」
「朝から燃やさんでええ!」
ルーティアはためらいなくカイの腕に絡みつく。
廊下を行き交う生徒たちは一瞬どよめき、次には笑みを浮かべて「先生、おはようございます」と挨拶して通り過ぎた。
すっかり日常の光景になっている。
「聞こえるでしょう、カイ。噂話が」
「まあな。風通しのええ学校や」
「誰にも渡しません。政治も陰口も、全部私が斬ります」
蒼い瞳に宿る気迫は、まるで剣そのものだった。
カイはため息を吐き、肩をすくめる。
「授業だけは斬らんとってや。黒板割れたら予算出ぇへん」
「授業は守ります。私の一番好きな時間ですから」
◆◇◆
教室の扉を開けると、ざわめきがすっと引いた。
期待の光が並ぶ机に差し込む陽光。
カイはチョークを握り、いつもの調子で黒板に線を引いた。
「さあ、今日から“夏の総まとめ”や。テーマは『関数で読む魔法陣・実践篇』」
円と直線が軽やかに描かれ、数式は文様へと育っていく。
生徒たちの瞳が、同時に小さな火を宿す。
「先生! 休みの間に練習してきました!」
「お、見せてみぃ」
少女が手をかざし、小さな光を生み出す。
以前は火花も出せなかったのに、今は輪郭を保ち、しっかりと燃えている。
「おお、ええやん。sinの揺らぎをよう抑えたな。角度を五度下げて、重心を半歩後ろや。そのままや」
ふわりと光が安定し、拍手が広がった。
「先生、俺も!」
「はい順番な。列乱したらアメちゃんは没収やで」
笑いと歓声が広がる。
カイはあめちゃんを配りながら、心の中でほっと胸を撫で下ろした。
(せや、これがワイの居場所や。黒板と数式があれば……噂なんか関係あらへん)
◆◇◆
だが、放課後。
教壇に、差出人のない封筒が置かれていた。
封を切ると、雑な筆致で書かれた言葉。
――異邦人、身の程を知れ。
――公爵家を惑わし、王家を乱すなら、教壇から降りよ。
――学園は王国の器、汚すな。
握る指先が、じんと熱を帯びる。
思わず紙を丸めてゴミ箱へ投げた。
「ナイススリーポイントやな、ワイ」
口にした瞬間、背後から声が落ちる。
「何ですの?」
ルーティアが炎のような視線を落とす。
カイは肩を竦めた。
「読む価値ない落書きや」
「……ならば焼き捨てます」
彼女の指先に小さな火が生まれ、紙切れは一瞬で灰になった。
窓から舞い上がった灰は、夕陽に溶けて消えていった。
◆◇◆
その夜。
学園の尖塔の影の下、仮面を被った数人の男たちが集まっていた。
「カイ・クロスを排除せねばならん」
「“異邦人”ごときに王家と公爵家を揺るがされてたまるか」
「近いうちに、あのカイ・クロスに牙を立てる」
低い囁きが夜風に混じり、静かな学園の闇に消えていった。




