番外編②:『リリシアの夏の誤解と初めての浴衣』
その日の午後、リリシアは公爵家の庭に設けられた仮設の縁台に座っていた。
夏の風は湿っていて、蝉の鳴き声が遠くから響いてくる。
目の前では、ルーティアが使用人たちにあれこれと指示を出しながら、屋敷の庭を“夏祭り”仕様に作り替えていた。
「提灯はあの木に吊るして。違う、赤は右側、青は左!」
「お客様用の風鈴はここ。カイが通るところに、絶対音が入るようにして!」
完全に仕切っている。
その横でリリシアは、うちわで風を起こしながら首をかしげていた。
(……なんだろう、この胸のざらざら)
ここ数日、どうも気持ちが落ち着かない。
夏休みに入ってから、ルーティアとカイの距離がやたら近いように感じるのだ。
毎朝一緒に朝食を取り、買い出しに行けば隣を歩き、時にはじゃれ合うような会話。
別に恋人同士でもないのに――
いや、仮の婚約者だった。
でも、それだけで、あんなに笑うものだろうか?
(……それが普通、なんでしょうか?)
リリシアは自分の胸に手を当てた。
熱く、もやもやと、まとわりつくような感覚。
(わからない)
そして同時に、もっと不思議なのは――
「自分がなぜ、こんな気持ちになるのかが、分からない」
これが嫉妬であると、彼女はまだ知らない。
◆◇◆
その夜、公爵家では小規模な夏祭りの催しが開かれた。
屋敷の庭には露店風の屋台が並び、提灯がゆらめき、金魚すくいやヨーヨー釣りなど、子供たちが喜ぶ仕掛けが目白押しだった。
カイはというと――
庭の隅の椅子に座って団子を食べていた。
「……ん。うまいな」
そこへ、リリシアが歩いてきた。
――浴衣姿で。
「……っ」
カイの団子が止まった。
リリシアは、藍地に紫の花模様が浮かぶ涼しげな浴衣を着ていた。
胸元の合わせもぴっちり決まっていて、帯は深紅。
髪は片側に寄せ、金のかんざしが月明かりを受けて光っている。
「……その、どう、ですか?」
視線を逸らして、でも耳まで赤く染めながら問うリリシアに、カイはほんの一拍だけ間を置いてから――
「めっちゃ綺麗やな。似合うわ」
と言った。
その一言に、リリシアはぴくりと肩を揺らす。
「……綺麗、ですか……」
ぎゅ、と浴衣の袖を掴む。
「でも、ルーティアさんのほうが華やかで、堂々としていて、完璧で……あなたも楽しそうで……!」
「え?」
「いえ、なんでもありませんっ!!」
目元を赤くしながら、リリシアはカイから目を逸らしてそっぽを向く。
そして――その場を離れようとした、その瞬間。
すれ違いざまに、彼の指先が、彼女の袖をそっとつまんだ。
「リリシア」
「……なに、ですか」
「ワイは君のそういうところ、ええと思うで?」
「……どういう、ところ、ですか……?」
「不器用なとこも、思い込み強いとこも、たまに言いすぎるとこも」
「全部悪口じゃないですかっ!!」
「でもな」
カイは真面目な目で言った。
「“綺麗”って思ったんは、本気や」
「――っ」
もうリリシアの顔は爆発しそうなほど真っ赤だった。
◆◇◆
その夜、日記帳を開いて、リリシアは小さく書いた。
『今日は、はじめて浴衣を着ました。カイが褒めてくれました。どうしてこんなに胸が苦しくなるのでしょう。わかりません。』
その文字を見つめたまま、ため息をひとつ。
(……わからない。けど、悪い気はしない)
そして、うちわで風を送りながら、リリシアはぽつりと呟いた。
「……もしかして、これが“恋”ってやつ、なんでしょうか?」
けれど、それに答える風は、ただ静かに彼女の頬を撫でただけだった。




