第106話『再び、境の門へ』【魔眼の徘徊者編⑥】
湖は、静寂を湛えていた。
深く澄んだ水面は、夜の星をそのまま映し取ったかのように、空の景色を逆さに抱いている。
湖畔の奥まった森の中に、それはあった。
苔むした石階段を上がった先、小さな祠のような古びた建物。
その天井は風雨に削られ、木壁の一部は黒く煤けている。
だが──その中心にある魔力の“脈”は、いまだ脈打っていた。
カイが、静かに一歩を踏み出す。
「ここが……今回の“境の門”」
「間違いありません」
リリシアが、手の中の魔伝書鳩が微かに震えたことを示すように頷く。
「父の言葉通り、魔界との境界がこの空間に重なっています。
新月の夜、今しか開かない細い路が──」
ルーティアは黙って周囲を見渡しながら、すぐに剣に指を添えた。
「護衛任務としての忠告ですわ。
この場、あまりにも静かすぎる。何かの罠が仕掛けられていても不思議ではありません」
「安心せえ」
カイは理手の掌を回し、掌の中心に浮かぶ“式面”を微かに起動させる。
手首から先の義手部分が、“カチリ”と軽い音を立てた。
術式記憶型魔力導線──その中に、すでに何本かの簡易式が展開待機状態にある。
「この手の中にはな、撃てば描ける“式”が仕込んである」
ルーティアが微かに目を細める。
「まさか……ロケットパンチ式?」
「せや」
リリシアが小さく吹き出した。
「それ、もう完全にネタのはずが、本当に実用化されたんですね……」
「まあな。飛ぶ速度は亀やけど、描いた術式を届ける精度は鳩より上や」
カイがニヤリと笑う。
◆◇◆
月は見えなかった。
新月の夜。
湖の風はどこか冷たく、けれど張りつめるような清浄さを伴っている。
三人と一体──護衛のゴルムが静かに立ち、四角い地面の中央、祠の祭壇の前でカイが座した。
魔界側からの“術”が、届くはずの刻限。
リリシアがそっと両手を胸の前に重ね、祈るように言う。
「始まります……父の“遠隔の歌”が、この境のレイラインを伝って、あなたに──」
ゴウン……
音もなく、空気が震えた。
水の中から何かが揺れたような、けれどそれは現実の振動ではない。
世界の“理”そのものが一瞬だけ、別のリズムに繋がれたような──そんな感覚。
祭壇の中心に置かれた石盤が、淡く発光する。
カイの義手──“理手”の接合部が、それに呼応して震えた。
「……きよったな」
声を低く呟き、カイは目を閉じた。
その瞬間。
理手の内部を走る魔力導線に、異なる次元の“理”が重なった。
それは人界の流束と異なる、だが見慣れたものでもある……どこか懐かしくもある魔界の“歌”。
(おお……これは)
指が、疼く。
接合部に“戻りたがる”力が満ちていく。
ただの幻肢ではない。
確かに、かつて存在した“左手”そのものの“存在情報”が、呼び戻されていた。
「リリシア、こっちの式、書き換えるで。君の“風の歌”と合わせる」
「はい!」
風が渦を巻く。
空気の密度が変わり、重力すらわずかに歪んで見えた。
リリシアが両手を広げ、風の文字を空に描く。
ルーティアは、剣を祠の中心に突き立てて支点を作る。
「暴走するなら、私が止めます」
「頼りにしとる」
カイは笑った──指が、動いた。
理手の指──いや、そこにあるはずの“本来の手”が、いま、確かに再構成されつつある。
指の一節一節に、かつての神経信号が戻ってくる。
微細な動きが、合成された魔力の応答によって受信される。
そして──
「接合点、安定。誤差──ほぼゼロ」
カサの声が頭の中に響いたように感じた。
リリシアの風が最終段階に入り、魔王から届く歌が最深層に食い込む。
カイが理手を上げる──
「戻れ、“理”の形」
その言葉と同時に、祠の中心に走る光の帯が、義手の中で爆ぜた。
◆◇◆
「……成功?」
リリシアがそっと呟く。
カイが、手を握る。
五本の指が、音もなく、なめらかに曲がった。
義手だったはずのそれは──
術式の支援により、一部が“実体化”し始めていた。
完全な“再生”ではない。
けれど、かつての手が“戻る”兆しが、確かにそこにあった。
「まだ……七割やな。
けど、こっからが勝負や」
カイは、ぐっと拳を握った。
リリシアは、その横顔を見ていた。
胸の奥に、なぜか言い知れない喜びと、痛みが同時に膨らむ。
(……よかった。
本当に、よかった)
けれど、なぜだろう。
その横顔を見て、言葉にできない熱が胸に差し込んでくる。
(私……どうして、こんなに……?)
その答えには、まだ気づいていない。
しかしルーティアは、ちらりと横目でリリシアを見て──心の奥で、ふっと微笑んだ。
(傲慢にならないこと。
それが私の、第一婦人としての責務──ですわ)
夜空には、まだ月は見えない。
けれど、風は確かに、新たな季節の香りを運んでいた。




