第105話『次の標的』【魔眼の徘徊者編⑤】
その日、学園の空気がどこかざわついていた。
原因は、目に見えない。
けれど、肌に触れる風の流れが、まるで神経を逆撫でするような嫌な感触を残していく。
講堂の天井近くに設置された魔力感知式の風鈴が、午前の授業中に何度も不規則に鳴った。
そのたび、生徒たちが落ち着かない視線を交わす。
そして、昼休み明け。
ついに“それ”が起きた。
◆◇◆
「先生、大変です!」
教室のドアが勢いよく開き、駆け込んできたのは、双子の兄カル。
「魔術実習棟で幻術暴走! 幻視、幻聴、あと──なんか空間まで歪んでるらしい!」
「転送陣の座標がバグってるってカサが言うてた!」
弟キルが続けた。
生徒たちが顔を見合わせる。
ルーティアはすぐに紅剣に手を添え、カイも理手を確認しながら立ち上がった。
「これは……“術式干渉”やな。
しかも、かなり広範囲に仕込まれとる」
リリシアは、心がざわりと揺れるのを感じた。
(まさか、また……“声”が?)
◆◇◆
魔術実習棟は、いつもなら整然とした実験用の魔方陣が並ぶ静かな場所。
だが今は、別世界のようだった。
空間が、割れている。
廊下の角を曲がるたびに、床と天井の位置がねじれ、壁の先に見えているはずの部屋が存在しない。
数人の下級生が、幻視によって“何もない空間”にぶつかり、混乱していた。
「こっちや!」
カイが先導し、幻膜越しに地形を補正する。
ルーティアが幻視の中を一刀で裂き、リリシアが風で幻声をかき消していく。
そして──
カサが、暴走する中心に設置されていた《錯視方陣》を指差した。
「これです、先生! 中枢部に“別の声”が混入している!」
その瞬間だった。
「──みーつけた」
ひどく甘く、耳の奥を撫でるような声。
しかし、同時に全身を凍らせるほどの、底冷えする悪意を含んだ響きだった。
全員が同時に、耳を塞ぐように肩をすくめる。
だが、声は脳の中に直接“囁いて”いた。
「カイ・クロス。風の歌を引き戻したな。
次は、もっと根元を狙わせてもらう。
お前が守るたびに、削れていくぞ。誰が? 彼女が。あの子が。お前が愛する者すべてが──」
「黙っとれや、“声”」
カイが低く呟いた。
理手の掌を開く。
中心の魔力面に、即興で式が走る。
「この実習棟の構造──ここ自体が一個の“面”として捉えられる。
この歪みは“角”や。
なら、丸めて、流せばええ」
風の流れと、リリシアの風が重なり、ルーティアの剣が幻の角を斬る。
「式、展開──“風剣回転”!」
黒板にチョークで書くように、理手が空中に円環を刻んでいく。
風と剣がその環を走り、やがて“声”の残滓が一斉に弾かれた。
空間の歪みが、パリン、と割れた音とともに消えた。
◆◇◆
実習棟の騒ぎが収まった後。
カイは講堂の裏庭にいた。
理手のメンテナンスをしながら、少し遠い目をしている。
「──やっぱり、“声”はこの学園を狙っとる」
「先生……」
後ろからリリシアが、迷うように言葉を選ぶ。
「私、さっき……“声”が私の魔力の名前を呼んだ気がしました」
「君の“名前”?」
「魔界でしか知られていない……私の、本当の“風の歌の名”です」
カイは表情を動かさなかった。
代わりに理手の指先をゆっくりと回す。
「つまり、“声”は魔界の内部にも手ぇ伸ばしてるかもしれんちゅうことか……。
こりゃ……そろそろ、こっちも先手打たなあかんな」
◆◇◆
夜。公爵家屋敷。
ルーティアは一人、夜空を見上げていた。
隣にいたカイの残像が、心の奥に浮かんでいる。
(私一人の旦那様にしたい。
けど、それはきっと、傲慢)
彼の周りには、自然と人が集まる。
支えたいと思う人も、守られたいと願う人も。
そして──惹かれてしまう人も。
リリシアの、あの切なそうな横顔が頭に浮かぶ。
(まだ……気づいてない。
でも、あの子は……あの子も、きっと)
風が揺れ、空にはもうすぐ満ちる月。
(次の新月まで……あと、わずか)




