第104話『声が囁く』【魔眼の徘徊者編④】
夜の気配が濃くなる頃、リリシアはふと、自分の“風”がわずかに違うことに気がついた。
空気の流れが微妙に重い。
流束の輪が、いつもよりわずかに“引っかかる”――。
(……何?)
風は彼女の一部だった。
呼吸のように、意識せずとも体を包む魔力の循環。
それが、妙にざらついている。
指を鳴らして小さな風の輪を起こそうとする。
けれど、輪は歪み、ほんの少し“ねじれ”ていた。
「ッ……!」
顔をしかめる。
それは、風使いにとっては致命的な違和感。
風は流れてこそ力になる。
だがその流れが“ねじれて”いるということは、術そのものが逆流しかねないという意味だ。
そこへ、背後から軽い足音。
「……先生」
「気づいたか」
カイが、壁にもたれながら声をかけてきた。
薄暗い廊下にて、二人だけの空気。
カイは理手の指で小さな風の式を描く。
「君の術式、今、わずかに偏位しとる。
流束の軸が一度、逆方向にねじられた跡がある」
「……どうして……」
「例の術師や。
ワイの義手に仕込まれた“毒虫式”と同系統。
今度は、君の“風”そのものを対象にした……撹乱毒やな」
リリシアは息を飲む。
「風そのものに毒……?」
「いや、“風の使い手”の体内魔力の流れにや。
君の《風の歌》は、魔界に属する理や。
そこを逆流させれば、君の歌そのものが破綻する可能性がある」
それは、魔族としての本質への干渉。
まさに、「リリシア」の根幹を狙った、狡猾な一撃だった。
◆◇◆
翌朝。
クロス組教室。
教卓に立つカイの左手は、いつも通り理手がはまっていた。
昨日飛ばした“ロケットパンチ”は完全に再調整済み。
むしろ、もう少し出力を上げられないか、と考え中だった。
だが、教室の後方で、リリシアは静かに腕を抱えていた。
「風が……歌わない……」
小声の独白。
メリルが心配そうに隣でお茶を差し出す。
「リリシア姫……しんどい時は無理せんとき」
「うん……ありがと、メリル……」
彼女の風は確かにまだ動く。
けれど、それは彼女自身の魔力としての“風”ではなかった。
「魔族の歌」ではなく、「風という属性」の魔力としてしか、今は響かない。
まるで、心を失った楽器のように。
◆◇◆
放課後。
リリシアはカイに呼ばれ、研究棟の奥にある、今は使われていない旧・魔導実習室へとやってきた。
中には、カイが一人だけ。
机の上に、見慣れない数式が書かれている。
「これ……?」
「《逆流束補正式》。
君の風の“本来の軸”を取り戻すための、対毒式や」
カイは静かに言う。
「これは、単なる術式の回復やない。
君の魔力の“方向”を、君自身の歌に沿って再構築する式や。
ワイが作ったけど、起動できるのは君だけや」
リリシアは戸惑ったように、式を見つめる。
その数式は、彼女の魔力の“流れ”を、正確に記述していた。
癖や、リズムや、歌うような運びまで――すべて。
「どうして、こんなに……?」
「ワイは教師や。
生徒のクセを見抜くのは、当然やろ?」
言葉は軽かった。
けれど、胸に何かが強く響いた。
リリシアは式の前に立ち、そっと目を閉じる。
(先生……)
両手を前に出し、風の魔力をゆっくりと流し込む。
軸がずれていた風が、式に触れた瞬間、カチリと音を立てたように整列する。
流れが、戻ってくる。
「風が……風が、“私の声”に応えてる……!」
頬に涙が一粒、こぼれる。
風が、また“歌った”。
◆◇◆
教室に戻ると、ルーティアが廊下で待っていた。
「……戻りましたのね」
リリシアが、小さく頷く。
「ええ……戻りました。“風”が」
ルーティアはリリシアの目を見て、ふっと笑う。
「よかったですわ」
それは、本心だった。
嫉妬もある。
けれど、それは心の奥に沈めて。
(だって、あの人は――私だけのものじゃないと、分かってますから)




