第107話『雨の帳』【魔眼の徘徊者編⑦】
その夜、雨が降り始めた。
境の門での一連を終えた帰路、四人は湖畔をあとにし、馬車を使わず徒歩で森を抜けていた。
地面を打つ雨粒は細かく、冷たくはないが、視界を曇らせるには十分な霧を生み出していた。
カイは義手――“理手”の指を確かめるように軽く握ったり開いたりしながら、雨の中を歩いていた。
「うん、やっぱり……動きが滑らかや」
「再接合、成功ですのね?」
ルーティアが横に並び、濡れた前髪を指先で払う。
「七割。完治とは言えんけどな、動作精度と反応速度はかなり向上しとる。
……なにより、感覚がある」
それは、今までの“義手”では得られなかったものだった。
冷たい雨粒が落ちてくる。
それを“感じる”。
その事実が、何よりカイの心を熱くさせていた。
「魔界の歌とリリシアの風、よう噛み合ってたわ。
これ、もう少し式を足せば……」
「まだ、無理はしないでください」
リリシアが、少しだけ歩幅を早めてカイの反対側についた。
声は静かだったが、芯が通っている。
「今日はただでさえ、大きな術に耐えたばかりです。
“感覚が戻った”のは事実ですが、それは一時的な過渡状態の可能性もあります。……だから」
「せやな。了解、リリシア女医」
そう言って笑いながら、カイは彼女の頭をぽんと撫でようとして――理手の方を挙げかけ、止まる。
「あ、すまん、つい……」
リリシアは、目をぱちぱちと瞬かせ、やや呆けたような表情になったあと、ふいっと顔を背けた。
「……撫でてもいいです、けど」
「……ん?」
「いや、いまのは……なんでも……! なんでそんなこと言ったんだろう私っ!?」
ひとりで自爆するように顔を覆い、リリシアは顔を真っ赤に染めてその場にしゃがみ込んだ。
(なんでそんなこと言ったの!?
なに!? いまの、完全に子どもっぽい甘えじゃない!?)
後ろから付いてくるゴルムが「通行停滞や」と呟いたのはこの直後である。
◆◇◆
その数時間後、学園――。
クロス組の寮に戻ったカイたちは、一度だけ仮眠をとったあと、翌朝の準備を始めていた。
ルーティアはずっとカイの部屋の椅子に座っている。
「旦那様、ちゃんと横になっていてくださいまし。
風呂は後で私が付き添いますわよ?」
「それは今言う話ちゃうと思うが……」
カイが呆れ顔で笑う。
その横、別の部屋ではリリシアが机に頬杖をつきながら、ノートの端に小さく文字を書き連ねていた。
“なでてもいい”は、書いてからすぐに消す。
(あのとき、頭がおかしかったわけじゃない。
でも、なぜあんなに自然に言葉が出たのか、私……)
自分の心の変化に、まだ名前を与えられずにいた。
ただ、ルーティアがカイに肩を預けて眠っていたあの時間が、なぜか頭から離れなかった。
(やっぱり、特別だと思ってるんだ。
……でも、違う)
(私は、あの人に“守られたかった”だけじゃなくて──)
その思考が、最後まで至る前に――。
校舎の方角から、低く、奇妙な音が響いた。
コン……コン……
壁を叩くような、だが何かが蠢くような、不気味な音。
そして、校内の結界が、淡く赤く染まる。
「……結界警報ですわ!」
ルーティアがすぐに立ち上がる。
カイも跳ね起きて、理手を手首から動かす。
「ゴルム! ツェイルは!?」
「影より通知あり。侵入者一体。
学園中央塔、下層通路にて確認。
名は不明。形は――眼、無数」
◆◇◆
カイたちが駆けつけた学園の地下通路。
そこにいたのは、異様な存在だった。
黒衣を纏ったような人影。
その身体に、数え切れないほどの“眼”が浮かんでいる。
掌にも、額にも、胸にも、背にも、脚にも──無数の瞳。
そのどれもが、ゆっくりと、ぬるりと、カイを見ていた。
「うへぇ……これはまたエグいな……」
リリシアが魔力を構える。
「感知系の魔眼か……でも、こんな数……!」
「学園長から聞いたことがあります」
ルーティアが剣を抜きながら言った。
「魔眼の徘徊者――異界に属する“観測存在”。
情報を奪うためだけに、人の世界に“染み込む”。
本来、結界に弾かれるはずの存在ですわ……!」
カイの理手が、音もなく形を変え始める。
掌が展開し、内部の“術式記憶部”が開放される。
「……飛ばすで」
「待ってください。まさか、今ここで──」
カシンッ!
空気を切って、“理手”の一部が射出された。
飛翔する術式内蔵型ロケットパンチ。
飛びながら、“式”を自動で空中展開する仕様。
カイが即座に指示を口にする。
「式、展開。観測位相の反転と、空間記述の逆転!」
飛翔する義手が、敵の中央──無数の眼のど真ん中に突き刺さる。
直後、爆発音ではない、“収束音”が起こった。
──ギュウン……!
空間が一瞬、内側に縮むような歪み。
そして。
魔眼の徘徊者は、悲鳴も上げずに、視界ごと消えた。
残されたのは、ロケットパンチの“接続核”だけが、ゆっくりと床に転がる音。
カイが、冷や汗を拭きつつ一言。
「うん。効く」
◆◇◆
その帰り道。
ルーティアはぽつりと呟いた。
「……カッコよかったですけど……あれが旦那様の手だというのは……ちょっと……」
「……うん、ちょっと、怖いというか……えぐいというか……」
リリシアも視線を逸らしつつ言葉を選ぶ。
カイが少しだけ困ったように笑った。
「もうちょい外見考えるわ。っていうか今だけやし!」
「絶対にですわよ!きちんと元の手に戻ってくださいね。」
「先生、紅茶ユニットはまだですか?」
メリルが物陰から出てきた。
「いや、今その話ちゃうやろ!?」




