第101話『反逆者の影』【魔眼の徘徊者編①】
空気が、鈍く重い。
その夜の街には、火も音もなかった。
だが、沈黙は平穏ではない。
そこに潜むのは、確かな“狙い”の気配。
黒衣の者たちが、月のない夜の裏路地を進んでいた。
顔は覆面で隠され、衣は影に溶けるように揺れる。
彼らは言葉を交わさず、手話のような符丁で合図を送り合う。
一人の女が立ち止まり、指を鳴らした。
「門は……確かに開いた。魔界と人界が繋がった」
声は低く、冷たい。
感情は乗らず、命令のような響き。
「“境の門”は定期的に開くものではない。あれを使ったということは、教師カイ・クロスに、再生の意図がある」
別の男が頷いた。
「ならば、その再生を“途中で断つ”のが最も効果的だな」
「義手では意味がない。再生途中の“術式の核”を奪え。リバイア―との交差点──“理手”が次の狙いだ」
女は懐から小瓶を取り出した。
その中で、紫色の小さな虫が蠢いている。
「これは“理の誤差”を蝕む虫。あの義手の中で蠢けば、回路は崩壊する。
仕込む場所は……学園だ」
「侵入計画は?」
「既に始まっている。今夜、準備が整う」
女の足元に、小さな影が一つ、音もなく滑り出た。
泥のように溶けたその影は、這うように街の石畳を流れ――
向かう先は、クロス組の研究室だった。
◆◇◆
一方その頃、学園の屋上では、カイがひとり夜風を受けていた。
“境の門”から戻った翌日。
新月の闇は明けつつあるが、まだ街には疲れが漂っている。
理手の調整は完了間近。
残るのは魔界由来の術式との完全同期。
今はまだ、指の反応にわずかな“ズレ”がある。
動くには動く。
けれど、感覚が一拍遅れる。
「まるで、自分の手やのに、借り物みたいやな……」
そう呟いた時だった。
背後で足音が一つ。
靴音のリズム。
カイが振り返らなくても、それが誰かは分かった。
「ルーティア」
「旦那様、お一人で月見ですの?」
「月が無い夜やけどな。見上げてみたら、逆にいろんなもんが見えてくる気がする」
ルーティアは隣に立ち、夜の風に髪を遊ばせた。
「……リリシア、少し変わったと思いません?」
「ふむ?」
「昨日……手に触れて、顔を赤らめて。
以前の彼女なら、あんな風に甘えること、絶対にしませんでした」
その声に、わずかに揺れるものがあった。
「旦那様に触れる許可を求めるなんて……ずるいですわよ」
「せやなぁ」
カイは理手をそっと見下ろした。
「せやけどな、誰が触ったってええと思うで。
ワイは教師で、誰か一人のもんにはなられへん立場やからな。
せやけど……触れる側が、“どんな気持ちで触れたか”は、ちゃんと見てる」
ルーティアはゆっくりと目を閉じた。
「私も、少しずつ覚悟してますのよ」
「覚悟?」
「……旦那様が、誰かに好かれること。
そして、その誰かが私以外であっても、否定しないこと」
その言葉は、まるで自分自身に向けた呪文のようだった。
「でも、譲る気はありませんわ。
“最初に選ばれた”のは、私ですから」
「お、おう…」
カイは軽く笑った。
「頼もしいなぁ、うちの“仮の嫁はん”」
「仮じゃないわよ、もう」
そう言った後、二人の視線が自然と重なった。
その目には火花のようなものはなく、ただ温かな光があった。
◆◇◆
夜が更け、クロス組の研究室。
誰もいないはずの室内で、理手の設計図が置かれた机の上。
光の影から、一筋の黒い線が“にゅるり”と這い出してきた。
紫の虫――理の誤差を蝕むもの。
それは静かに設計図の端に乗り、金属の部品にじわじわと滲み込む。
外からは気配を感じさせない。
術式でも、見えない。
それは、“理の影”に隠された毒。
静かに、しかし確実に――次なる攻撃が始まっていた。
◆◇◆
その頃、リリシアは自室でひとり、ぼんやりと窓の外を見ていた。
星はある。
けれど、心は落ち着かない。
(なんで……あんなこと、言ったんだろう)
“また、触らせてください”
あの一言が、頭から離れない。
触れた感触。
手の温度。
目を見て、返された「いつでも貸したるわ」という言葉。
(優しいな……あの人)
手を胸に当てた。
心臓の鼓動が、なぜか落ち着かない。
(これって、なんなんだろう)
まだそれが“恋”だとは分からない。
けれど、心が静かに揺れていた。




