第100話『魔王の手』
霧のように白んだ空間に、数式の残光が揺れていた。
カイの理手――義手の指が、ゆっくりと、まるで長い眠りから目覚めるように開閉を繰り返す。
魔界の術式と、カイが刻んだ数式。
そしてリリシアの風の歌。
三つの力が、一つの手に重なった。
「……反応、安定しとるな」
カイは掌を見つめながら呟いた。
掌の中央――魔界式の円紋がかすかに光を帯びている。
今のこの手は、ただの機構ではない。
人界と魔界の“境”で生まれた、異なる理の融合体。
名実ともに、《魔王の手》や。
◆◇◆
「……少し、疲れた?」
リリシアがそっと声をかけた。
その声音には、昨日までにはなかった“やわらかさ”が滲んでいた。
カイが振り向くと、リリシアは自分でも気づかないような距離の近さで立っていた。
その目は、どこか心細くも見えて。
「触って……いいですか?」
義手を、という意味だった。
カイは目を細めて、理手をそっと差し出す。
「ほれ、触ってみ?」
リリシアはためらいがちに指先を伸ばし、カイの義手の甲にそっと触れた。
ひんやりとした金属の下に、微かな鼓動のような“何か”が伝わってくる。
「生きてるみたい……」
「そらまあ、“理”と“歌”の合成やからな」
リリシアは一瞬だけ、手を離そうとして――
でも、ほんの少しだけ、長く触れたままでいた。
(あ……また、やってしまった)
思わず視線を逸らす。
けれど離れる気持ちが起きない。
ふと、ルーティアがその様子を見ていることに気づいた。
距離を置きながら、しかし目は逸らさず、静かに二人を見ていた。
◆◇◆
カイはルーティアに目線を送った。
「ルーティア、どうや? この手――これでワイ、もうタコ焼き焼けると思う?」
「ええ。指の開きも精度も悪くないですわ。
ただし、紅茶ユニットは除外条件よ」
「まだ言うか。メリルがめっちゃ頑張っとるのに」
くす、とルーティアの口元が緩んだ。
カイのことを“自分だけの人”と決めるのは、きっと傲慢だと分かっている。
彼がどれだけの人に愛され、誰にでも分け隔てなく力を差し出すか――日々、見ている。
(でも……せめて、一番近くにいたい)
そう願ってしまうのは、欲張りだろうか。
ふと、リリシアとカイの手がまだ触れていることに気づく。
心の奥に、チクリと何かが走る。
それでもルーティアは、顔に出さなかった。
(第ニ婦人として彼女を迎える覚悟は……あるわ。
でも、それとこれとは別。
この想いは、私のもの)
◆◇◆
再生の儀式は順調に進み、魔界の術式は予定通り“半結合”に成功した。
「完全再生は……あと一工程やな。
ワイの理式が、魔界の底流と同期すれば、あとは誤差の丸めだけや」
「……もう少しで、元の手に戻せる?」
リリシアの声が少し沈んだ。
戻ってしまえば、私の“役割”は終わる。
どこかで、そう感じてしまっている自分がいる。
でもそれは、口には出さない。
「戻っても、君らのおかげや」
カイはそう言って、二人の少女をまっすぐに見つめた。
「この手が戻る前に、大事なことは伝えとかなな」
リリシアが目を瞬く。
「ワイは、まだこの世界で何を残せるか分からへん。
でも、君らに教えることだけは、できる。
それが“教師”としての生き方や。
だから、これからも頼らせてな」
ルーティアは静かに頷き、リリシアはほんの少し遅れて、恥ずかしそうに目を伏せた。
「はい……先生」
その声には、甘えと、尊敬と、ほんの微かな恋心が混じっていた。
(なんで、あんなこと言ったんだろう)
自分でも分からない。
けれど、その言葉は自然に口から出ていた。
◆◇◆
帰路。
“境の門”は静かに閉じていった。
四人の姿が、人界の空へ戻っていく。
光が消え、空間のゆらぎも収束する。
「理手、戻ってきたんやな……」
カイが空を見上げて呟く。
リリシアはその横顔を、少しだけ見上げて。
そしてそっと、言葉を漏らした。
「先生……手が治っても、また少しだけ……触らせてください」
隣でルーティアが、微かに動いた。
けれど、笑って答えるカイの声に、胸のざわつきがまた落ち着いていく。
「ええで。いつでも貸したるわ」




