第2話 いないと、こんなに寂しいのか
三枝美月が会社を休んだ。
あの告白から、二か月近くが経った月曜日のことだった。
いつもなら朝から元気に挨拶してくれる後輩が、その日は出勤してこなかった。
ただ、それだけのことだったはずだ。
まさか、彼女がいない日々の中で、自分がどれほど彼女との時間を楽しみにしていたのか思い知らされることになるなんて、このときは考えもしなかった。
◇
「三枝さん、今日はお休みだそうですよ」
いつものように出勤した俺に、同じ部署の女性社員がそう教えてくれた。
「えっ、そうなんですか?」
「朝から熱が高いみたいで。病院に行くそうです」
「そうか……」
昨日まで特に具合が悪そうな様子はなかったはずだ。
急な発熱なら、本人も大変だろう。
俺はスマートフォンを取り出し、三枝に短いメッセージを送った。
『熱があるって聞いた。無理しないで、ゆっくり休めよ。返信は元気になってからでいいから』
送信してから、スマートフォンを机に置く。
心配ではあるが、今の俺にできることはそれくらいだ。
仕事を始めると、午前中は予定していた資料の確認と取引先からの問い合わせ対応で、あっという間に時間が過ぎた。
昼休みになり、俺は隣の席の佐伯に声をかけた。
「佐伯、今日の昼、一緒に行かないか?」
「悪い。今日は外出するんだ。昼も向こうで食べる予定」
「ああ、そうなのか。じゃあ、また今度な」
「おう。三枝さん、休みなんだって?」
「そうみたい。熱が高いらしい」
「最近インフルエンザも流行ってるしな。お前も気をつけろよ」
「そうだな」
佐伯が出かける準備を始めたので、俺も財布を持って席を立った。
会社の近くにある定食屋へ入り、日替わり定食を注文する。
今日は一人なので、空いていたカウンター席に座った。
料理が運ばれてくるまで、スマートフォンでニュースを眺める。
特に気になる記事もなく、画面を閉じたところで定食が届いた。
「いただきます」
いつもどおりの味だった。
ただ、食事を終えて時計を見ると、思っていたより時間が余っていた。
三枝と来たときは、仕事の話や最近見た映画の話をしているうちに、昼休みが終わりそうになることも多い。
一人だと、こんなに早く食べ終わるものだっただろうか。
そんなことを思いながら会計を済ませ、会社へ戻った。
午後になって、三枝から返信が届いた。
『ありがとうございます。病院に行ったら、インフルエンザでした……。しばらくお休みすることになりそうです』
『そうか。仕事のことは気にしなくていいから、ちゃんと休めよ』
『はい。先輩も気をつけてくださいね』
最後に熱のある顔の絵文字がついていたので、俺は少し笑ってしまった。
元気がないときでも、三枝らしい。
早く治るといいな。
その日は、それ以上のことを考えなかった。
◇
翌日の昼は、佐伯と一緒に食事をした。
「三枝さん、インフルだったんだって?」
「ああ。しばらく休むみたいだ」
「大変だな。今週いっぱいは無理かもな」
「そうだろうな」
佐伯とは仕事の話で盛り上がり、午後の予定を確認しながら会社へ戻った。
気心の知れた同期と食事をするのも、もちろん楽しい。
ただ、店の前に貼ってあった新メニューの写真を見たとき、俺はふと三枝の顔を思い浮かべた。
あいつ、こういうの好きそうだな。
今度来たときに教えてやろうと思ってから、そういえばしばらく一緒に昼食へ行けないのだと気づいた。
それだけのことだった。
水曜日には、取引先から以前相談されていた案件の返事が届いた。
なかなか条件がまとまらず、三枝とも何度か話していた仕事だ。
無事に話が進んだことを伝えようとして、俺は三枝の席へ目を向けた。
けれど、そこには誰もいなかった。
そうだった。今週は休みなんだ。
仕方がないので、必要な連絡だけ関係者へ送った。
その日の昼休み、いつもの定食屋へ向かいながら、俺は三枝のことを考えていた。
そういえば、最近は一緒に食事をすることが多かったな。
以前から仲はよかったが、告白されてからの二か月ほどは三枝の方から誘ってくれるようになった。
昼食だけでなく、仕事帰りにも話すことが多くなり、休日に出かけることもあった。
だから、いないと少し調子が違う。
親しい相手が休んでいるのだから、そう感じるのは当たり前だろう。
そう思っていた。
木曜日の夕方、俺は仕事を終えて会社を出た。
駅へ向かう途中、商店街の入り口にある雑貨店の前を通りかかった。
店頭には、妙に丸い顔をした猫の置物が並んでいる。
先月、三枝とこの店の前を通ったとき、彼女が同じシリーズの置物を見て笑っていた。
『先輩、この猫、ちょっと先輩に似てません?』
そう言われて確認すると、確かにどこか眠そうな顔をしていた。
俺が不満を言うと、三枝は「褒めてるんですよ!」と言いながら、しばらく笑っていた。
今日も、その猫が並んでいる。
俺は思わずスマートフォンを取り出した。
写真を撮って三枝に送ろうとして、指が止まる。
まだ療養中だ。
わざわざ返事をさせることもないだろう。
結局、写真だけ撮ってスマートフォンをしまった。
……元気になったら見せよう。
金曜日になっても、同じようなことが続いた。
昼休みが近づくと、今日は何を食べようかと考える。
そのとき、三枝なら何と言うだろうかと、つい想像してしまう。
仕事でちょっとした失敗をした日には、三枝ならどう励ましてくれるだろうかと考える。
別に、三枝がいないと何もできないわけではない。
仕事は普段どおり進むし、佐伯やほかの同僚と話すのも楽しい。
一人で昼食を取ることだって、以前は珍しくなかった。
それなのに、何かあるたびに三枝へ話そうとして、彼女が休んでいることを思い出す。
金曜日の夜、三枝からメッセージが届いた。
『先輩、お疲れさまです! 熱はもう下がりました。まだ少しだるいですけど、だいぶ元気になりました!』
俺はすぐに返信した。
『よかった。でも、無理するなよ。ちゃんと治るまで休んでくれ』
『はい! 早く会社に戻りたいです』
『仕事のことは気にしなくていいからな』
『仕事もですけど……先輩と、また一緒にお昼食べたいです』
その文章を読んだ瞬間、思わず頬が緩んだ。
『俺も。また元気になったら行こう』
返信してから、しばらく画面を見つめていた。
俺も。
何気なく打った言葉だったが、嘘ではなかった。
三枝と一緒に昼食を食べたい。
それに、あの猫の写真も見せたい。
仕事の話もしたいし、先週三枝が勧めてくれた映画を見た感想も、まだ伝えていない。
今週だけで、話したいことがずいぶん増えてしまった。
翌週の月曜日、三枝から翌日には出勤できそうだという連絡が届いた。
医師の指示に従って療養し、会社にも復帰予定を伝えたらしい。
『明日からまたよろしくお願いします!』
『こちらこそ。久しぶりに顔を見られるな』
送信してから、俺は自分の文章を読み返した。
顔を見られるのが楽しみだなんて、わざわざ書くつもりはなかった。
けれど、取り消したいとも思わなかった。
『えへへ。私も先輩に会えるの、楽しみです!』
三枝から返ってきた言葉を見て、また笑ってしまう。
明日の昼は、どこへ行こうか。
そんなことを考えながら、俺はスマートフォンを置いた。
◇
「先輩、おはようございます!」
火曜日の朝、聞き慣れた声がした。
顔を上げると、三枝が立っていた。
少しだけ頬が痩せたようにも見えるが、表情は明るい。
「おはよう。もう体調は大丈夫なのか?」
「はい! すっかり元気です。ご心配おかけしました」
「いや、元気になったならよかった」
「先輩、メッセージありがとうございました。嬉しかったです」
「大したことはしてないよ」
「私にとっては大したことなんです!」
三枝はそう言って笑った。
久しぶりにその顔を見られて、俺も自然と笑っていた。
「先輩、今日のお昼、一緒に行きませんか?」
「ああ。行こう」
「やった!」
三枝は嬉しそうに自分の席へ戻っていった。
その背中を見送ってから、俺は仕事を始めた。
昼休みには、久しぶりに二人で定食屋へ行った。
「うわあ、外で食べるご飯、久しぶりです!」
「しばらく家で休んでたもんな」
「そうなんです。熱が下がってからは暇で暇で……」
「休むのも仕事のうちだろ」
「分かってます。でも、先輩とお昼に行けないのが寂しかったんですよ?」
「……そっか」
「先輩はどうでした?」
三枝が少しだけ身を乗り出してくる。
「私がいなくて、寂しかったですか?」
以前なら、冗談だと思って適当に返していたかもしれない。
けれど、今回は違った。
「ああ。ちょっと寂しかったな」
三枝が目を丸くした。
「……え?」
「いつも一緒に食べてたからさ。いないと、何か話そうと思ったときに相手がいなくて」
「せ、先輩……」
「だから、戻ってきてくれて嬉しいよ」
三枝は口を開きかけ、それから慌てて俯いた。
「……そういうこと、急に言うのは反則です」
「えっ、何が?」
「何でもありませんっ!」
耳まで赤くなっている。
俺は首を傾げたが、三枝はしばらく顔を上げてくれなかった。
その日の昼食は、久しぶりに時間を忘れるほど話が弾んだ。
食後、俺はスマートフォンを取り出した。
「そうだ、三枝。これ見てくれ」
「何ですか?」
木曜日に撮った猫の置物の写真を見せると、三枝は画面を覗き込み、すぐに吹き出した。
「あははっ! まだ売ってたんですか、この猫!」
「先週通りかかったら、相変わらず並んでた」
「やっぱり先輩に似てますよね」
「どこがだよ」
「この、ちょっと眠そうなところです」
「褒めてないだろ」
「褒めてますって!」
三枝は笑いながら写真を拡大し、猫の顔をじっと見つめた。
「……先輩、これ、私が休んでる間に撮ったんですか?」
「ああ。木曜日だったかな」
「そのとき、私のこと思い出してくれたんです?」
「前に三枝が笑ってたからな。見せようと思って撮ったんだ」
三枝はスマートフォンから顔を上げた。
「……そういうの、嬉しいです」
「猫の写真が?」
「違います。私がいないときも、私のことを思い出してくれたのが、です」
三枝はそう言って、少し照れくさそうに笑った。
俺は何と返せばいいのか分からず、ひとまずスマートフォンをしまった。
会社へ戻る途中も、三枝は楽しそうに猫の話をしていた。
その隣を歩きながら、俺はまた一緒に昼食を取れるようになったことを喜んでいた。
◇
三枝が復帰してから、数日が過ぎた。
仕事は普段どおり忙しかったが、昼休みが近づくと、俺は少しだけ時計を見るようになっていた。
今日は三枝と一緒に食べられるだろうか。
そんなことを考えている自分に気づき、少し驚く。
以前は、三枝から誘われれば応じるだけだった。
けれど今は、誘われる前から一緒に行けたらいいなと思っている。
木曜日の夕方、俺は予定していた仕事を終えた。
時計は定時を少し過ぎたところだった。
帰り支度をしながら三枝の席を見ると、彼女はまだパソコンに向かっていた。
「三枝、まだかかりそう?」
「あ、先輩。はい、あと三十分くらいです。今日中に確認しておきたい資料があって」
「そっか。あんまり無理するなよ」
「ありがとうございます。先輩はもう帰るんですか?」
「ああ、仕事は終わったからな」
「お疲れさまでした!」
三枝は笑顔でそう言うと、再び画面へ視線を戻した。
俺も鞄を持って席を立ち、エレベーターで一階へ降りた。
そのまま駅へ向かえば、いつもより少し早く帰れる。
夕飯を買って帰るか、家で何か作るか。
そんなことを考えながらエントランスへ向かったところで、ふと足が止まった。
……三十分か。
会社の一階には、社員が自由に使えるラウンジがある。
自動販売機とテーブルが並んでいて、待ち合わせや休憩に使われる場所だ。
俺はしばらく考えたあと、そちらへ向かった。
別に、急いで帰る用事があるわけじゃない。
三枝が仕事を終えるまで待って、一緒に帰るのも悪くないだろう。
そう思って、缶コーヒーを買い、窓際の席に座った。
スマートフォンでニュースを読んだり、翌日の予定を確認したりしているうちに、二十分ほどが過ぎた。
それからさらに十分ほど経ったころ、エレベーターの扉が開いた。
「あれ……?」
聞き慣れた声に顔を上げると、三枝がこちらを見ていた。
「先輩? まだ帰ってなかったんですか?」
「ああ」
「何か用事でもあったんですか?」
俺は缶コーヒーをテーブルに置いた。
「三枝を待ってた」
三枝がぴたりと動きを止めた。
「…………え?」
「仕事、あと三十分くらいって言ってただろ。一緒に帰れたらと思って」
「わ、私を……?」
「ああ」
三枝は目を何度か瞬かせたあと、両手で口元を押さえた。
「……先輩が、私を待っててくれたんですか?」
「そうだけど」
「……っ!」
次の瞬間、三枝は俯いてしまった。
「三枝?」
「ちょ、ちょっと待ってください……!」
「えっ、どうした?」
「嬉しくて……顔が、ちゃんとできません……!」
何だ、それ。
思わず笑ってしまうと、三枝はますます顔を赤くした。
「笑わないでくださいっ!」
「ごめん。でも、そんなに喜ぶとは思わなくて」
「だって、先輩が自分から待っててくれるなんて……!」
そう言われて、俺は少し考えた。
確かに、告白されてからの二か月ほどは、三枝の方から誘ってくれることが多かった。
俺から何かに誘うことはあっても、仕事が終わるのを待っていたことはなかったかもしれない。
けれど、今日は待ちたかった。
それだけのことだ。
「三枝、夕飯はもう決まってる?」
「えっ? い、いえ、まだですけど」
「じゃあ、一緒に食べて帰らないか?」
「……え?」
「せっかく一緒に帰れるし、もう少し話したいなと思って」
三枝は俺の顔を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「……先輩」
「ん?」
「今日、どうしちゃったんですか?」
「どうって?」
「いつもより、ずっと積極的です……」
「そうか?」
「そうですよ!」
そう言ってから、三枝は嬉しそうに笑った。
「……でも、すっごく嬉しいです。ぜひ、ご一緒させてください!」
その笑顔を見て、俺まで嬉しくなった。
俺たちは会社を出て、駅前の洋食店へ向かった。
食事中、三枝は仕事の話をしたり、休んでいた間に見たドラマの話をしたりしていた。
俺もそれに答えながら、久しぶりにゆっくり話せることを楽しんだ。
話の途中で、三枝がメニューの端に載っていた期間限定のデザートを見つけた。
「先輩、これ美味しそうじゃないですか?」
「確かに。頼む?」
「でも、結構大きそうですね」
「二人で分けるか?」
「……先輩、最近そういうこと普通に言いますよね」
「何が?」
「二人で分けよう、とか。一緒に帰ろう、とか」
「前から言ってなかったか?」
「前は、私が言い出すことの方が多かったですよ?」
三枝はそう言って、少しだけ頬を緩めた。
「……でも、嬉しいです。先輩から誘ってくれるの」
俺は店員を呼び、デザートと取り皿を注文した。
運ばれてきたケーキを分けると、三枝は一口食べて満足そうに笑った。
「美味しいです! 先輩も早く食べてください」
「ああ」
勧められるまま口に運ぶと、確かに美味しかった。
そんな何でもない時間が、妙に楽しい。
食事が終わってしまうのが、少し惜しくなった。
食後のコーヒーが運ばれてきたころ、三枝がふと尋ねてきた。
「先輩、今日は本当にありがとうございました」
「何が?」
「待っててくれたことです。すごく嬉しかったので」
「そんなに気にしなくていいよ。俺が待ちたかっただけだし」
「……また、そういうこと言う」
三枝はカップを両手で持ち、照れたように笑った。
その顔を見ながら、俺はここ最近の自分の行動を思い返していた。
三枝と一緒に昼食を食べたい。
仕事が終わるのを待って、一緒に帰りたい。
こうして食事をしている時間も、もう少し続いてほしい。
以前から三枝と過ごす時間は楽しかったが、最近は自分からその時間を作ろうとしている。
それが何を意味するのか、考えないわけにはいかなかった。
ただ、まだ恋人として付き合うということが、はっきり想像できているわけではない。
それでも、三枝と二人で過ごす時間を、もっと増やしたかった。
「三枝、今度の日曜日って空いてる?」
「日曜日ですか? はい、空いてますけど」
「よかったら、一緒に出かけないか?」
「もちろんです! どこに行きます?」
「まだ決めてないんだけど……」
俺は一度言葉を止めた。
今までにも、三枝と休日に出かけたことは何度もある。
映画を見たり、買い物に付き合ったり、気になっていた店へ行ったり。
でも、今回は少し違う。
いつものように友人同士として出かけるだけでは、自分の気持ちを確かめられない気がした。
三枝は俺を好きだと言ってくれた。
その気持ちに向き合うためにも、今度は俺の方から、きちんと誘いたい。
「……その、デートとして誘いたいんだけど」
三枝が持っていたカップを、そっとソーサーへ戻した。
「…………はい?」
聞こえなかったのだろうか。
「だから、日曜日。俺とデートしてくれないか?」
三枝の顔が、一瞬で真っ赤になった。
「で、デート……!?」
「ああ」
「先輩と、私が……!?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「そ、そうですけど! そうじゃなくて!」
三枝は両手で頬を押さえた。
「……夢じゃないですよね?」
「現実だよ」
「だって、先輩からデートって……!」
俺は少し照れくさくなりながら、三枝の返事を待った。
やがて、三枝は大きく息を吸い込んだ。
「……はい! 喜んで!」
その笑顔を見た瞬間、誘ってよかったと思った。
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