パリジェンヌの流儀と、部屋のゴミ箱
人間、追い詰められると、都合のいい情報ばかりを集めるようになるらしい。
ある日の夜。私はお気に入りのベッドに寝転がりながら、スマホでとある海外コラムを読んでいた。
画面に映し出されていたのは、洗練されたインテリアが並ぶ、おしゃれなパリのアパルトマン。そこには、私の常識を覆すような、驚くべきライフスタイルが紹介されていた。
『フランス人は、部屋にゴミ箱を置かないんですって』
コラムの文章を、私は頭の中でそっと繰り返した。
なんでも、フランスの家庭では、リビングや寝室に小さなゴミ箱を置く習慣がないらしい。ゴミ箱は、キッチンのシンクの下に大きいのがあるだけ。
部屋でゴミが出たら、家族はみんな、わざわざキッチンまで捨てに行くのが当たり前なのだという。
その一文を読んだ瞬間、私の胸に、電撃のような感動が走り抜けた。
「……私と同じだ!」
私は思わず、ベッドの上でガタッと起き上がった。
私の部屋にも今、ゴミ箱が一つもない。正確に言うならば、数ヶ月前にゴミ箱を処分して以来、新しいものを買っていない。
ゴミが出たらどうするのか。もちろん、キッチンの大きなゴミ箱(ただの45リットルのゴミ袋)まで、捨てに行っている。
「そうか、私はだらしなかったわけじゃないんだ。ただ、パリジェンヌのスピリットを持って生きていただけんだわ」
急に自分の生活が、ものすごく高尚で、お洒落なものに思えてきた。
これまでは、部屋にゴミ箱がないせいで、お菓子の包み紙やレシートが一時的に机の上に放置されているのを見るたび、「ああ、また片付けができていない」と自己嫌悪に陥っていた。
けれど、今日からは違う。これは「汚部屋」ではなく、「フランス式ミニマリズム」なのだ。
部屋の美観を損ねないために、あえてゴミ箱を置かないという、洗練されたライフスタイルなのだ。
私はすっかり嬉しくなり、脳内でエッフェル塔をバックに、ボーダーのシャツを着てクロワッサンをかじる自分の姿を妄想した。ライフが一気に大回復していくのを感じる。
しかし、現実はそう甘くはない。次の日の朝。
私は風邪気味だったせいで、ひどい鼻詰まりで目を覚ました。
「うぅ……、ズビッ……」
枕元に置いてあったティッシュ箱から、一枚、また一枚とティッシュを引き抜いては、豪快に鼻をすする。あっという間に、手元には丸まったティッシュの山ができあがった。
ここで、フランス式ルールが牙を向く。
このティッシュを捨てるためには、温かい布団から出て、冷え切った廊下を渡り、遠く離れたキッチンまで歩いていかなければならない。
「……無理」
外はまだ凍えるような冬の朝だ。鼻水を垂らしたパリジェンヌに、そんな過酷な移動は不可能だった。
「あとで、まとめて捨てに行けばいいよね」
私は自分にそう言い訳をすると、丸めたティッシュを、ベッドの横のフローリングへと、ぽいっと放り投げた。
一個目が、床に転がる。続いて二個目、三個目……。
お昼過ぎ、ようやく体調が回復してベッドから這い出した時、私は自分の足元を見て、言葉を失った。
そこにあったのは、洗練されたアパルトマンの景色などでは、断じてなかった。
ただの、「使用済みティッシュが散乱する、紛れもない汚部屋」だった。
本物のフランス人は、ゴミが出たその瞬間に、エレガントにキッチンへ向かうのだろう。ゴミを床にポイポイ投げ捨てるパリジェンヌなど、この世に存在するはずがなかった。
「……やっぱり、私、ただのズボラなだけじゃん」
集められた都合のいい幻想は、一瞬ではじけ飛んだ。私のライフは、昨日よりも深く、綺麗にゼロになった。
私は諦めて、床のティッシュを両手で残さずかき集めた。そして、トボトボと情けない足取りで、キッチンのゴミ袋へと向かう。
すべてを捨て終えたあと、私はケトルでお湯を沸かし、マグカップに濃いめのインスタントコーヒーを淹れた。
フランスっぽさを意識して、ほんの少しだけミルクを注ぐ。
温かいカフェオレをずずっとすすると、苦味と温かさが、冷えた体にじわじわと染み渡っていかった。
「まぁ、形から入るのも悪くないよね」
部屋にはまだゴミ箱はないけれど、コーヒーの美味しさに、心は少しだけ満たされていく。
来週あたり、やっぱりニトリで小さなゴミ箱を買おう。
そう心に誓いながら、私は二口目のコーヒーを口に運んだ。




