終わりなき樹海と、午後二時の逃避行
「今日こそ、絶対に綺麗にするんだから」
土曜日の朝。私は淹れたてのコーヒーを飲み干し、腕まくりをして立ち上がった。
ここ数週間、仕事の忙しさを言い訳に後回しにしてきた部屋の掃除。足の踏み場も怪しくなってきたこの空間に、今日こそ終止符を打つ。
そう固く心に誓っていた。……はずだった。
それから一時間が経過した、午前十一時。私は部屋のど真ん中に立ち尽くし、完全にフリーズしていた。
「……どこから、手を付ければいいの?」
目の前に広がるのは、まさに混沌の樹海。
床には、いつか読もうと思って積んだままの雑誌。クローバーのように散らばる、脱ぎっぱなしの靴下。机の上には、中身が空になったペットボトルと、数日分のレシートが雪のように積もっている。
とりあえず、床の服を拾おうとして手を伸ばした。すると、その下から忘れていた未開封の荷物が現れる。
それを見て、「あ、これ片付けなきゃ」と別の場所に移動する。しかし、移動させた先もすでに物で溢れていて、置く場所がない。
物を右から左へ動かしているだけで、時間は無駄に過ぎていく。何一つ、片付いていない。
視界に入る全ての物が、「早く私を元の場所に戻して」と無言のプレッシャーをかけてくる。その圧倒的な物量に気圧され、私の脳内のキャパシティは一瞬で限界を迎えた。
どうして、私ってこんなに片付けができないんだろう。
世の中の人間は、みんな当たり前のように部屋を綺麗に保っている。SNSを開けば、白を基調としたミニマリストの部屋がおしゃれに並んでいる。
それに引き換え、私の部屋はどうだ。お世辞にも人間が健康的に暮らせる環境とは言えない、立派な「汚部屋」である。
「はぁ……」
重いため息が、埃っぽい空気の中に消えていく。せっかくの休日なのに、自分に対する嫌悪感と情けなさで、心がどんどん重くなっていく。
でも、このままじゃ絶対にダメだ。カレンダーに目をやる。今年も、もう残すところあとわずか。さすがにこのまま新しい年を迎えるわけにはいかない。
「来年こそは、絶対に汚部屋から卒業する。丁寧な暮らしをして、綺麗な部屋でハーブティーを飲むんだ」
来年の自分に大きな期待を込めて、私は拳を握りしめた。
しかし、それは「来年」の話だ。大事なのは「今」である。
そして、「今」の私のライフは、この散らかりすぎた部屋のプレッシャーによって、すでに綺麗にゼロになっていた。思考は停止し、やる気は消滅。
このまま部屋に閉じこもっていても、自己嫌悪の沼に深く沈んでいくだけだ。
時計を見る。午後二時。外からは、雲一つない冬の青空から、暖かそうな光が差し込んでいる。
「……よし、出かけよう」
私は一瞬で決断した。これは現実逃避ではない。
戦術的撤退、あるいは、明日へのエネルギーを補給するための気分転換だ。
そう自分に言い訳をしながら、私は散らかった床を器用にまたぎ、お気に入りのコートを羽織った。バッグに財布とスマホだけを放り込み、部屋の鍵を閉める。
一歩外に出ると、ひんやりとした冬の空気が、モヤモヤしていた頭を心地よく冷ましてくれた。あんなに重かった足取りが、駅へ向かうにつれて少しずつ軽くなっていく。
部屋の掃除は、明日の私がきっとやってくれる。
今日の私は、ただこの心地いい風を浴びて、美味しいカフェラテでも飲みに行こう。青空を見上げながら、私は小さく笑った。
私の日常の奮闘は、きっと明日からまた、始まればいいのだ。




