終わらない二往復と、二時間半の迷宮
神様は時々、信じられないほど不条理な脚本を人間に押し付けてくる。
六月の蒸し暑い午前中。私は地方銀行の重い自動ドアをくぐり、冷房の効いたロビーに足を踏み入れた瞬間に、自分の致命的な過ちに気がついた。
「……ない」
トートバッグの底をいくらかき回しても、目当ての四角いプラスチックの感触はない。あるのは、ポイントカードで膨らんだ財布と、エコバッグだけ。
私は、今日絶対に必要だったその銀行のキャッシュカードを、自宅のデスクの上に置き忘れてきていた。
家からこの銀行までは、徒歩で片道十五分。往復すれば、それだけで三十分のロスになる。
「何やってるんだろう、私は……」
自分の不手際にため息をつきながら、私は今来たばかりの道をトボトボと引き返した。アスファルトからは容赦ない照り返しが上り、じっとりと汗が滲む。
早く用事を済ませて、家で冷たい麦茶でも飲もう。そう自分を励まし、三十分かけて家へ戻り、無事にカードを回収して、再び銀行へと舞い戻った。
二度目の自動ドアをくぐった時は、軽い達成感すら覚えていた。よし、今度こそ大丈夫だ。
しかし、人生の罠は二段構えで待っている。
発券機で番号札を受け取り、ロビーの長椅子に腰掛けて、手続きに必要な書類を整理していた時のことだ。
今回の目的は、この銀行の口座を解約し、中身のまとまった資金を、もう一つのメインバンクへと移し替えることだった。
ハッとして、自分の手が止まる。
(待って。移し替える先の、もう一つの銀行のカードは……?)
冷や汗が背中を伝う。バッグの中を確認するまでもなかった。
さっき家に戻った時、私は「忘れた方のカード」を取りに帰ることで頭がいっぱいで、「預け入れる側のカード」を一緒に持ってくるという発発想が、完全に抜け落ちていたのだ。
時計を見る。すでに十一時を回っている。もう一度、あの往復三十分の道のりを歩くのか?
一瞬、すべてを明日に先送りしようかという誘惑が頭をよぎった。けれど、今日中に手続きを終えなければ、来月の引き落としのスケジュールが狂ってしまう。
「嘘でしょう……」
私は蚊の鳴くような声で呟き、握りしめていた番号札を静かにゴミ箱へ捨てた。
二回目の帰り道は、さっきよりも足取りが五倍くらい重かった。すれ違う見知らぬ人が、みんな私よりもしっかりした、要領の良い人間に見えてくる。
自己嫌悪という名の泥をこねくり回しながら、私は本日二度目の帰宅を果たし、今度こそ二枚のカードをしっかりとバッグに詰め込んだ。
三度目となる銀行の自動ドアは、もはや見慣れた絶望の入り口だった。しかし、本当の戦いはここからだったのだ。
窓口の電番号灯に私の番号が表示され、ようやくカウンターへ進む。
「口座の解約と、他行への全額移動ですね。かしこまりました。では、こちらの書類にご記入をお願いします」
窓口の行員さんは丁寧だったけれど、お役所仕事特有の厳重な手続きが、私の残り少ない体力をじわじわと削っていく。
住所、氏名、電話番号、解約の理由。何度も同じような文字を書き、印鑑を押し、本人確認書類を提示する。
「お調べいたしますので、少々お待ちください」
そこからの待ち時間が、とにかく長かった。行員さんが奥のオフィスへ引っ込み、書類を確認し、上司の承認を得るまでの間、私はただロビーの時計を眺めることしかできなかった。
チクタクと進む針の音が、妙に大きく響く。
時折、行員さんが戻ってきては「こちらの暗証番号をお願いします」「こちらの確認事項にサインを……」と、新しい手続きを要求してくる。
ようやく解約金が手元の封筒に収まった時には、時計の針は信じられない位置を指していた。
そこからさらに、別の銀行へ移動して、今度は入金の手続きだ。ATMの前に並び、長い列を待ち、ようやく機械の前に立つ。
お札を数える「パタパタパタ」という機械音が、まるで私の脳内をかき回しているかのように響いた。
すべての作業が終わり、銀行の建物の外に出た時、私は自分の腕時計を二度見した。
最初に向こうの銀行に入ってから、実に二時間半が経過していた。
空を見上げると、お昼過ぎの強い日差しが痛いくらいに降り注いでいる。足は棒のようで、肩はバッグの重みでガチガチに凝り固まっていた。
ただお金を右から左へ動かすだけのことに、どうしてこれほどの時間とエネルギーを使わなければならなかったのだろう。
「……疲れたなぁ」
声に出して呟くと、お腹が小さく音を立てた。そういえば、お昼ご飯を食べるのも完全に忘れていた。
私はフラフラと、駅前にある小さな喫茶店に滑り込んだ。冷房が心地よく効いた店内で、アイスコーヒーと、厚切りのバタートーストを注文する。
運ばれてきたアイスコーヒーにストローを差し、一気に喉に流し込んだ。キリッとした苦味が、疲弊した脳に染み渡っていく。
続いて、たっぷりとバターが塗られたトーストを一口かじる。
サクッとした軽い音とともに、塩気と小麦の甘さが口いっぱいに広がった。
窓の外を流れる街並みを眺めながら、私は小さく息を吐き出した。
さんざんな一日だった。自分の計画性のなさに呆れるし、時間も無駄にしたかもしれない。
けれど、トーストの美味しさを噛み締めながら、私は思った。
まあ、いいか。泥泥になりながらも、私は今日やるべき仕事を、自分の足できちんとやり遂げたのだから。
お腹が満たされるにつれて、ガチガチだった心の結び目が、少しずつ解けていくのを感じていた。




