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私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

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9/11

負けても、楽しくない?

「ママってさ、いつも自分のことばっかりだよね!」


ヒカルが泣きながら叫んだ。


「ママはこれだけ頑張ってるとか、ママはつらいとか、そんな話ばっかりじゃん!」


「もっとさ、私の気持ちを大事にしてよ!」


私は何も言えなかった。



――きっかけは、ほんの些細なことだった。



部屋で一人泣いていたヒカルに、


「どうしたの?」と声をかけた。


「言いたくない」


「何かあったんでしょ?」




「ママに言っても仕方ない!」


その一言をきっかけに、ヒカルは一気に泣き出した。


学校でつらいことがあるらしい。


でも、


「ママは病気だから」


そう思うと相談できなかったのだという。



胸の奥がずしりと重くなった。



病気になってから、私はずっと必死だった。


毎日をやり過ごすだけで精いっぱいだった。



だけど、そんな私に遠慮して、ヒカルもまた一人で苦しんでいたのだ。


小さな胸の中に悩みを抱えたまま、誰にも言えずにいたのだ。



――つらかったんだろうな。


――私は何をやっていたんだろう?



気づくと、頭の中で勝手に採点が始まっていた。



病気になった私。


自分のことで精いっぱいの私。


娘を支えられない私。




全部、赤点だ。




ひとしきり泣いたあと、ヒカルは私を部屋から追い出すようにドアを閉めた。


私は力なく階段を下りた。



ふとリビングに目をやると、ダイフクはソファの上でへそ天になって爆睡している。



猫はいいな。


悩みなんてなさそうで。


夫はマッサージチェアで、大好きな野球中継を大音量で見ている。



――はぁ。


深いため息が漏れた。



今日は待ちに待った囲碁大会の日だ。


けれど、ヒカルとのことで胸の奥が重かった。




――まずい、遅刻だ。



ヒカルのことを夫に手短に伝え、私は車に飛び乗った。


そして、逃げるように会場へ向かった。




大会会場の中央コミュニティセンターに着いた。


試合はもう始まっていて、会場は熱気に包まれていた。




初級クラス、初段~二段、三段以上。


三つのクラスに分かれ、それぞれ五人ずつの団体戦だ。




会場を見回すと、


原田さん、ひふみん、アロハシャツの森さん……。



私の「仲間」たちが真剣勝負を繰り広げている。


――頑張れ~!


心の中で応援し始めた、その時だった。




「まだ終わってねーよ!」




突然、怒声が響いた。



会場中が振り向く。


そこでは対局者二人が立ち上がり、にらみ合っていた。



「俺はここに打とうと思ってたんだ!」


「そっちこそ終わりだって言ったじゃないか!」



――おお。


大の大人が本気でケンカしている。


しかも囲碁で。



場内がざわついた、その瞬間、



「盤の前で喧嘩はやめましょうや!」



低く太い声が会場に響く。


武田信玄だ。




「マナー守れないなら、試合なんてやめたほうがいいや」


家臣同士の争いを治めるみたいに諭した。




さっきまで怒鳴っていた二人は、急速冷凍されたみたいに黙り込んだ。


つられるように会場も静まり返る。



この貫禄、さすが武田信玄だ。


背後に風林火山の旗が見えた気がした。




――みんな試合にアツいなあ。




こうして対局は再開された。




改めて会場を見回していると、


――あれ?



うちのチームに女性がいる。



思わず二度見した。


ショートヘアに、うぐいす色のTシャツ。




盤を見つめる横顔は真剣そのものだった。




――女性がいたんだ。


なんだか少し嬉しくなる。



やがて全試合が終了した。


結果は僅差でこちらの負け。




「あ~~~!」


悔しがる声が上がる。




けれど数分後には、


「お疲れさま!」


「惜しかったね!」


と、笑い声が飛び交っていた。





その後、両地区合同の懇親会が始まった。


持ち寄ったお菓子とお茶を囲み、あちこちで笑い声が上がる。




「どう? この大会の雰囲気」


原田さんが声をかけてきた。




「すごいですね。皆さん熱気があって」


「だろう?」




原田さんは満足そうにうなずいた。




「あ、そうだ。三崎さんに紹介したい人がいるんだ」


そう言って連れてきたのは、さっき対局していたあの女性だった。




「白鳥です。はじめまして」




柔らかな笑顔だった。


五十代半ばくらいだろうか。


物腰も穏やかで、どこか親しみやすい。




「三崎といいます。囲碁は、まだ始めて二か月です」




聞けば、彼女は、囲碁歴二十年。しかも初段だという。


――カッコいいな。




私は、ため息交じりに愚痴った。




「私、まだ全然勝てなくて……」


「対局でもアプリでも負けばっかりなんですよ」




すると白鳥さんは、


「最初はみんなそうだよ~」と、励ましてくれた。




気になっていたことを、聞いてみた。




「白鳥さんは、いつ頃から囲碁が楽しくなりましたか?」




いつになったら勝てるんだろう?


いつになったら囲碁が面白くなるんだろう?


そんな思いから出た質問だった。




すると白鳥さんは、少し遠い目をした。




「そうねぇ。私は最初から楽しかったな~」




「え?」


思わず聞き返す。




「でも、最初って負け続けませんか?」


「うん、負け続けるねえ」




白鳥さんはあっさりうなずき、にこっと笑った。




「あぁ、負けたな~って。それも含めて、囲碁楽しい!って思ってたよ」




本当に幸せそうな顔だった。




え?


どーゆーこと?


一瞬、何を言われたのか分からなかった。




負けても楽しい?


私には、その感覚が分からない。




だって私は、




早く勝ちたい。


大会にも出たい。


勝てるようになったら、きっと囲碁は面白くなる。




そう思っていたからだ。




でも白鳥さんは違った。




勝つから楽しいのではない。


囲碁を打つこと、そのものが楽しいのだ。




――そんな考え方があるのか。




すると白鳥さんは、近くの碁盤と碁笥ごけを引き寄せた。


「私ね、囲碁の格言が好きなんだよね」




そう言って石をつまむ。




「『一に空き隅、二にカカリ、三にヒラキ』とかさ」




パチ。


「まず隅に打つでしょ」




パチ。


「それから相手にプレッシャーをかけて」




パチ。


「最後に自分の陣地を広げるの」




石を置くたびに、白鳥さんの顔がほころぶ。




「あとね、『ハネたらノビよ』とか」


言葉どおりに石を並べながら、白鳥さんは楽しそうに笑った。




囲碁って、そんなに面白いものなのかな。


私の知らない楽しさが、まだどこかに隠れている気がした。





ふと、朝のヒカルの泣き顔が浮かんだ。


ヒカルも今、何かに「負けて」いるのかもしれない。




学校で。


友達との関係で。


あるいは、自分自身に。




でも――




「負けても楽しかったな」


白鳥さんは幸せそうにそう言った。




私には、その感覚がよく分からなかった。




負けることはある。


それは仕方ない。




でも、だからこそ次は勝ちたい。




負けは、早く乗り越えるべきもの。


できれば味わいたくないもの。




少なくとも私は、そう思っていた。




――でも、本当にそうだろうか?




学校へ行けない日も。


部屋にこもる日も。


友達のことで傷つく日も。




全部ひっくるめて、ヒカルの人生の一部だ。




今はマイナスの時間のように思えても、


いつか振り返ったとき、大切な時間だったと思える日が来るのかもしれない。




だったら、




無理に勝たなくていい。


無理に元気にならなくていい。




「負けちゃったね」


「そんな日もあるよ」




まずは、それでいいんじゃないか。




美味しいハーブティでも飲みながら。




ダイフクのお腹を撫でながら。




ヒカルの好きなコスメやファッションの話をしながら。




肩の力を抜いて、一緒に明日を待てばいい。


今はきっと、それでいいんだ。




そもそも人生の勝ち負けなんてあるのかな…




あぁ早く帰って、ヒカルに美味しいご飯を作ってあげよう。


煮込みハンバーグがいいかな。




その時だった。




「あの、美味しいコーヒーはいかがですか?」




エプロン姿のおじさんが、紙コップを差し出してきた。




え?


この人、誰!?



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