負けても、楽しくない?
「ママってさ、いつも自分のことばっかりだよね!」
ヒカルが泣きながら叫んだ。
「ママはこれだけ頑張ってるとか、ママはつらいとか、そんな話ばっかりじゃん!」
「もっとさ、私の気持ちを大事にしてよ!」
私は何も言えなかった。
――きっかけは、ほんの些細なことだった。
部屋で一人泣いていたヒカルに、
「どうしたの?」と声をかけた。
「言いたくない」
「何かあったんでしょ?」
「ママに言っても仕方ない!」
その一言をきっかけに、ヒカルは一気に泣き出した。
学校でつらいことがあるらしい。
でも、
「ママは病気だから」
そう思うと相談できなかったのだという。
胸の奥がずしりと重くなった。
病気になってから、私はずっと必死だった。
毎日をやり過ごすだけで精いっぱいだった。
だけど、そんな私に遠慮して、ヒカルもまた一人で苦しんでいたのだ。
小さな胸の中に悩みを抱えたまま、誰にも言えずにいたのだ。
――つらかったんだろうな。
――私は何をやっていたんだろう?
気づくと、頭の中で勝手に採点が始まっていた。
病気になった私。
自分のことで精いっぱいの私。
娘を支えられない私。
全部、赤点だ。
ひとしきり泣いたあと、ヒカルは私を部屋から追い出すようにドアを閉めた。
私は力なく階段を下りた。
ふとリビングに目をやると、ダイフクはソファの上でへそ天になって爆睡している。
猫はいいな。
悩みなんてなさそうで。
夫はマッサージチェアで、大好きな野球中継を大音量で見ている。
――はぁ。
深いため息が漏れた。
今日は待ちに待った囲碁大会の日だ。
けれど、ヒカルとのことで胸の奥が重かった。
――まずい、遅刻だ。
ヒカルのことを夫に手短に伝え、私は車に飛び乗った。
そして、逃げるように会場へ向かった。
*
大会会場の中央コミュニティセンターに着いた。
試合はもう始まっていて、会場は熱気に包まれていた。
初級クラス、初段~二段、三段以上。
三つのクラスに分かれ、それぞれ五人ずつの団体戦だ。
会場を見回すと、
原田さん、ひふみん、アロハシャツの森さん……。
私の「仲間」たちが真剣勝負を繰り広げている。
――頑張れ~!
心の中で応援し始めた、その時だった。
「まだ終わってねーよ!」
突然、怒声が響いた。
会場中が振り向く。
そこでは対局者二人が立ち上がり、にらみ合っていた。
「俺はここに打とうと思ってたんだ!」
「そっちこそ終わりだって言ったじゃないか!」
――おお。
大の大人が本気でケンカしている。
しかも囲碁で。
場内がざわついた、その瞬間、
「盤の前で喧嘩はやめましょうや!」
低く太い声が会場に響く。
武田信玄だ。
「マナー守れないなら、試合なんてやめたほうがいいや」
家臣同士の争いを治めるみたいに諭した。
さっきまで怒鳴っていた二人は、急速冷凍されたみたいに黙り込んだ。
つられるように会場も静まり返る。
この貫禄、さすが武田信玄だ。
背後に風林火山の旗が見えた気がした。
――みんな試合にアツいなあ。
こうして対局は再開された。
改めて会場を見回していると、
――あれ?
うちのチームに女性がいる。
思わず二度見した。
ショートヘアに、うぐいす色のTシャツ。
盤を見つめる横顔は真剣そのものだった。
――女性がいたんだ。
なんだか少し嬉しくなる。
やがて全試合が終了した。
結果は僅差でこちらの負け。
「あ~~~!」
悔しがる声が上がる。
けれど数分後には、
「お疲れさま!」
「惜しかったね!」
と、笑い声が飛び交っていた。
その後、両地区合同の懇親会が始まった。
持ち寄ったお菓子とお茶を囲み、あちこちで笑い声が上がる。
「どう? この大会の雰囲気」
原田さんが声をかけてきた。
「すごいですね。皆さん熱気があって」
「だろう?」
原田さんは満足そうにうなずいた。
「あ、そうだ。三崎さんに紹介したい人がいるんだ」
そう言って連れてきたのは、さっき対局していたあの女性だった。
「白鳥です。はじめまして」
柔らかな笑顔だった。
五十代半ばくらいだろうか。
物腰も穏やかで、どこか親しみやすい。
「三崎といいます。囲碁は、まだ始めて二か月です」
聞けば、彼女は、囲碁歴二十年。しかも初段だという。
――カッコいいな。
私は、ため息交じりに愚痴った。
「私、まだ全然勝てなくて……」
「対局でもアプリでも負けばっかりなんですよ」
すると白鳥さんは、
「最初はみんなそうだよ~」と、励ましてくれた。
気になっていたことを、聞いてみた。
「白鳥さんは、いつ頃から囲碁が楽しくなりましたか?」
いつになったら勝てるんだろう?
いつになったら囲碁が面白くなるんだろう?
そんな思いから出た質問だった。
すると白鳥さんは、少し遠い目をした。
「そうねぇ。私は最初から楽しかったな~」
「え?」
思わず聞き返す。
「でも、最初って負け続けませんか?」
「うん、負け続けるねえ」
白鳥さんはあっさりうなずき、にこっと笑った。
「あぁ、負けたな~って。それも含めて、囲碁楽しい!って思ってたよ」
本当に幸せそうな顔だった。
え?
どーゆーこと?
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
負けても楽しい?
私には、その感覚が分からない。
だって私は、
早く勝ちたい。
大会にも出たい。
勝てるようになったら、きっと囲碁は面白くなる。
そう思っていたからだ。
でも白鳥さんは違った。
勝つから楽しいのではない。
囲碁を打つこと、そのものが楽しいのだ。
――そんな考え方があるのか。
すると白鳥さんは、近くの碁盤と碁笥を引き寄せた。
「私ね、囲碁の格言が好きなんだよね」
そう言って石をつまむ。
「『一に空き隅、二にカカリ、三にヒラキ』とかさ」
パチ。
「まず隅に打つでしょ」
パチ。
「それから相手にプレッシャーをかけて」
パチ。
「最後に自分の陣地を広げるの」
石を置くたびに、白鳥さんの顔がほころぶ。
「あとね、『ハネたらノビよ』とか」
言葉どおりに石を並べながら、白鳥さんは楽しそうに笑った。
囲碁って、そんなに面白いものなのかな。
私の知らない楽しさが、まだどこかに隠れている気がした。
ふと、朝のヒカルの泣き顔が浮かんだ。
ヒカルも今、何かに「負けて」いるのかもしれない。
学校で。
友達との関係で。
あるいは、自分自身に。
でも――
「負けても楽しかったな」
白鳥さんは幸せそうにそう言った。
私には、その感覚がよく分からなかった。
負けることはある。
それは仕方ない。
でも、だからこそ次は勝ちたい。
負けは、早く乗り越えるべきもの。
できれば味わいたくないもの。
少なくとも私は、そう思っていた。
――でも、本当にそうだろうか?
学校へ行けない日も。
部屋にこもる日も。
友達のことで傷つく日も。
全部ひっくるめて、ヒカルの人生の一部だ。
今はマイナスの時間のように思えても、
いつか振り返ったとき、大切な時間だったと思える日が来るのかもしれない。
だったら、
無理に勝たなくていい。
無理に元気にならなくていい。
「負けちゃったね」
「そんな日もあるよ」
まずは、それでいいんじゃないか。
美味しいハーブティでも飲みながら。
ダイフクのお腹を撫でながら。
ヒカルの好きなコスメやファッションの話をしながら。
肩の力を抜いて、一緒に明日を待てばいい。
今はきっと、それでいいんだ。
そもそも人生の勝ち負けなんてあるのかな…
あぁ早く帰って、ヒカルに美味しいご飯を作ってあげよう。
煮込みハンバーグがいいかな。
その時だった。
「あの、美味しいコーヒーはいかがですか?」
エプロン姿のおじさんが、紙コップを差し出してきた。
え?
この人、誰!?




