捨て石で救われた命
土曜の午後。
私は洗面所の鏡の前で、珍しく時間をかけて身支度をしていた。
アイシャドウを入れて、チークをのせる。
髪もコテで軽く巻いて、ハーフアップにまとめた。
服は水色のストライプのシャツに白いパンツ。さわやかに決めた。
最後に鏡をのぞき込み、
――よし。
と、小さくうなずく。
「何か、ママ楽しそうだね」
後ろから声がして、思わず肩が跳ねた。
振り返ると、中学生の娘のヒカルがドアにもたれて立っている。
「そうかな?」
「うん。なんか最近ずっと機嫌いいじゃん」
そう言われてみれば……そうかもしれない。
病気になってからの私は、自分の見た目なんてどうでもよくなっていた。
服は適当。
メイクも最低限。
髪なんて乾けばそれでいい。
そんな毎日だった。
それなのに今日は、囲碁サークルへ行くだけなのに髪まで巻いている。
我ながら、ちょっと恋でもしている人みたいだ。
「今日ね、囲碁のテストなんだ」
「へえ」
「大会に出られるかどうか決まるの」
「そうなんだ」
ヒカルは少しだけ目を丸くした。
「ヒカルは友達とカラオケだよね。楽しんできてね」
「はーい」
娘はそっけなく返事をして、スマホに視線を落とした。
けれど、口元だけは少し緩んでいた。
ふと気づく。
ヒカルがこんなふうに、ただの世間話のように話しかけてくるのは珍しい。
今日の私は、話しかけやすい顔をしていたのだろうか。
そうだとしたら、それだけで少し救われる気がした。
ふと、昔見た映画を思い出した。
『Shall We ダンス?』。
毎日同じような日々を繰り返していた主人公が、社交ダンスに出会い、少しずつ変わっていく。
足取りが軽くなり、表情が変わり、世界が色づいていく。
昔は思った。
――ダンスを始めただけで、そんなに変わる?
でも今は分かる。
夢中になれるものが一つあるだけで、人はちゃんと変わる。
50を過ぎて、白と黒の石に夢中になるなんて思ってもみなかったけれど。
公民館はいつもより賑わっていた。
二週間後に迫った地区対抗大会に向けて、みんな練習に熱が入っている。
ひふみんの目は鋭く、武田信玄は山のように動かない。
この前倒れた唐沢さんまで、今日は妙に気合いが入っていた。
なんだか文化祭前の部活みたいだ。
年齢の平均はずいぶん高いけれど。
その中に原田さんを見つけた。
「今日はよろしくお願いします!」
「三崎さん、ドキドキだねえ」
原田さんは笑った。
「じゃあ始めようか」
私は黒番。四子置きのハンデ戦だった。
パチ。
パチ。
静かな音が盤に響く。
序盤は悪くなかった。
原田さんの石を囲むように打てているし、本で覚えた形も少しはできている。
もしかしたら今日は結構いけるんじゃないか――
「はい、アタリね」
原田さんがさらりと言った。
「あっ」
気づいた時には石が取られていた。
「え? なんで?」
思わず声が出る。
「逃げ道なくなってるからね」
原田さんは笑っている。
「いつの間に!?」
私は盤に顔を近づけた。
確かに囲まれている。全然気づかなかった。
その後も、つなごうとすると切られる。
守ろうとすると別の場所が崩れる。
助けに行った石まで取られてしまう。
「うわあ……」
気がつけば盤面は、きれいなほどの惨敗だった。
――対局後。
原田さんは少し困ったように笑った。
「三崎さん、頑張ったね。いい手もあったよ」
「でもね……まだ生き死にが分かってないかなあ」
「そうですね」
素直にうなずく。
「残念だけど、今回は大会は難しいかなあ」
「わかりました。仕方ないです」
少し、悔しい。
でも、まだ始めて一か月半。
出られないのは当然だったのかもしれない。
「じゃあ、今の対局、復習してみる?」
原田さんが碁石を並べ始める。
「はい、お願いします」
私はすぐに背筋を伸ばした。
「ここね。焦ったでしょ」
原田さんが盤上の一点を指差した。
「我慢が足りなかったねえ」
その通りだった。
相手に囲まれそうになると、つい焦って何とかしたくなる。
原田さんの手が、ぴたりと止まった。
さっきまでの柔らかい表情が、ほんの少しだけ引き締まる。
「我慢する時は、ちゃんと我慢しないとダメだよ」
その言葉が、やけに胸に響いた。
「それからここね」
原田さんが別の場所に石を置く。
「余計なところに打っちゃったねえ」
原田さんは少しだけ、残念そうに盤を見た。
「ああ……」
「それで自爆してる」
耳が痛い。
原田さんは、少し間をおいて言った。
「あとね。捨て石って考え方、知ってる?」
私は首を振った。
「三崎さんは、この二つを助けようとしてるでしょ」
そう言って、盤の上の二つの黒石を指さす。
「でもね、ここは捨ててもよかったんだよ。ほら、こうやって……」
パチ。
原田さんは別の場所に石を打った。
その瞬間だった。
さっきまで苦しそうだった黒の形が、ふっと息を吹き返すように、一気に広がった。
「この二つを捨てたからこそ、全体が生きたの、わかる?」
どーだ、と言わんばかりの、少し得意げな顔だった。
――ああ。
その瞬間、胸の奥で何かが静かにほどけた。
目の前では、捨てたはずのものが、確かに全体を生かしている。
――そうか。
失った左胸も。
私の命を守るために、“捨て石”になってくれたんだ。
今まで頭ではわかっていたつもりだった。
でも目の前の盤の変化を見た瞬間、それが一気に腑に落ちた。
「……そういうことなんですね」
小さく、声が漏れた。
胸の奥が、じんわりと温かくなる。
――ありがとう、私の左胸。
気づけば、涙がにじんでいた。
「捨て石ってスゴイ役割なんですね。感動しちゃいましたよ……涙出てくる」
ごまかすように笑った。
「えッ、そんなに? 泣くほど?」
原田さんは一瞬戸惑って、それから少し嬉しそうに笑った。
二週間後の大会。
私は出場には間に合わなかった。
それでも、この一か月半で学んだことには、感謝してもしきれない。
素晴らしい仲間たちに出会えたことが、ただ嬉しかった。
当日は、私は見学に行く。
盤の音や、真剣な表情を思い浮かべると、なんだか少しわくわくした。
原田さん、ひふみん、武田信玄、アロハシャツの森さん。
それぞれの顔が浮かぶ。
その姿を、静かに応援したいと思う。




