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私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

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7/11

アロハシャツの決意

「碁盤の目ってさ、実は長方形だって知ってた?」


原田さんが碁盤を指でなぞりながら言った。


「えっ? 長方形!?」


私は思わず盤に顔を近づけた。


よく見ると、確かに縦のほうが少し長い。



「囲碁を打つ人でも、案外知らないんだよ」


原田さんは少し得意げだ。



「対局者は盤を真上から見ないでしょ?本当に正方形で作っちゃうと、目の錯覚で横につぶれて見えるんだ」


「へえ……」


「だから最初から少し縦長に作ってある。そうすると座った人には、きれいな正方形に見えるんだよ」



正方形ではなく、正方形に見えるように、作る。

そんなところにまで気を配るなんて。



囲碁の美意識というか、職人の粋というか。

なんだか妙に感心してしまった。


「だからさ、縦線に沿って石を並べると、すごくきれいに見えるんだよ」


原田さんは嬉しそうに、音を立てながら黒石を縦に並べた。


パチ。


パチ。


たしかに美しいような気がする。



すると原田さんが、思い出したように顔を上げた。


「そうだ。来週の土曜日、午後二時来られる?」


「え?」



「大会に出られるレベルになったか、私が最終テストするからさ!」


そう言ってニヤリと笑う。



ついに来週か。

あと少し。


まだ諦めずに頑張ろう。



今週は借りた本を読み返しておさらいだ。



帰り道、公民館の近くのホームセンターへ立ち寄った。


今日は月に一度のキャットフード20%割引の日。


収入が減った今、この日だけは外せない。


飼い猫のダイフクのために、まとめ買いしなくては。



店内に入った瞬間だった。



左手の休憩スペースに目を向けると、見覚えのある顔と目が合った。



「あっ」


「あ」


同時に声が出る。



アロハシャツの人だ。


二週間ほど前、一度だけ囲碁を教えてくれた人。


――失敗してもいい。


――負けてもいい。


みんな負けながら次の手を探しているんだから。



そう言って、まるで当たり前のことのように笑った。

その言葉と彼の笑顔にどれほど救われただろう。



そういえば…あれ以来サークルでは見かけていなかった。



「どうも。囲碁で一度……」


私は慌てて頭を下げた。



「そうだよね!どう?頑張ってる?」


弾けるような笑顔が返ってくる。



「よかったら座りなよ」


「は、はい。」



勧められて、私は向かいの席に腰を下ろした。



「で、地区大会には出ることになったの?」



「えっと、石の生き死にが分からないと難しいって言われてて……。来週、原田さんに最終確認してもらうんです」



「いいねえ!」


本当に嬉しそうな顔をする。



「あ、私、三崎です」


「俺は森です」


そうして、ようやくお互いに名を知った。



「三崎さんはさ、なんで囲碁サークルに入ってきたの?」



「大河ドラマの戦国武将に影響されて……」



「それ面白いねえ!」


森さんは目を丸くした。



囲碁のきっかけとしては、かなり珍しかったらしい。



「森さんは囲碁歴長いんですか?」


「20年くらいかなあ」 




森さんはコーヒーカップを手に取った。


「人生どん底の時に出会ったんだよね」




ふっと表情が変わる。




「昔やってた会社をつぶしちゃってさ。借金も残った」




胸の奥が、ひやりと冷えた。




「そしたら周りの人が、潮が引くみたいにサーッと離れていってね」 




森さんは肩をすくめた。


会社を潰した話とは思えないほど、あっさりした口ぶりだった。




「でその直後に、カミさんの病気が分かってさ。あっけなく逝っちゃったんだよね。」 




私は言葉を失った。


今の陽気なアロハシャツ姿からは、とても想像できない話だった。




一瞬だけ、二人のあいだに沈黙が流れた。




「あ、ごめんごめん!」


森さんは慌てたように手を振った。




「暗い話、しちゃったね」


「でもそんな時にさ、囲碁に出会ったんだよ。」




森さんは紙コップを両手で包んだまま、少しだけ目を細めた。




「囲碁やってる時だけは救われたなあ」


「囲碁がなかったら、俺どうなってたか分かんないよ」




窓の外に視線を向ける。




「ま、今となっちゃ大げさな話だけどさ」


そう言って照れくさそうに鼻の頭をこすり、


ハハハ、と笑った。




胸の奥で、森さんの言葉が何度もよみがえる。


―負けてもいいんだよ。


―みんな負けながら次の手を探しているんだから。




あの言葉が妙に胸に残ったのは、きっとこの人自身がそうやって生きてきたからだ。


ただの慰めではなかった。 




「アロハシャツ、すごくお似合いですね」


思わず、そんな言葉が出ていた。




「おっ、嬉しいねえ」


森さんは照れたように笑った。




「俺さ、不幸なことはたくさんあったんだけど、不幸そうな人には見られたくないんだよね」




そう言って、明るい青のアロハシャツの胸元を軽く引っ張ってみせた。




「幸せな人でいるって決めたんだ」




「決めた?」




「うん。だからアロハシャツ着てる。幸せで楽しそうに見えない?」




森さんはコーヒーをひと口飲んだ。




「これ着てると自分の気分も上がるしね」


そう言って笑った。




ふと、森さんは腕時計に目をやった。


「あ、ごめん。そろそろ行かなきゃ」


慌てて立ち上がる。




「母親がデイサービスから帰ってくる時間なんだ」




荷物をまとめながら振り返った。




「三崎さん、だっけ」


「はい」




「囲碁は面白いよ。いい趣味見つけたね」


そう言って、軽く手を振った。




「最近なかなかサークルに顔出せなかったけど、今度の大会だけは出るからさ」


「じゃあね」




アロハシャツの背中が、軽やかに店を出ていく。


私はしばらく、その後ろ姿を見送っていた。




碁盤の目が、ふと頭に浮かぶ。




――碁盤の目は、実は正方形じゃない。




座って見る人の目に、きれいな正方形に見えるように、少しだけ縦長に作られている。




見た目のための工夫。


……いや、違う。




対局する人が気持ちよく盤に向き合えるようにするための工夫だ。




森さんも、同じなのかもしれない。




会社がつぶれて、借金が残って。


大切な人との別れがあって。


人が離れていって。




それでも森さんは、明るいアロハシャツを着ていた。


幸せそうに見せるため、だけじゃない。




自分自身が前を向いて生きていくために。


本当の自分が折れてしまわないために。




私はキャットフードコーナーに急いだ。




お目当ては、ダイフクの好きな、まぐろカツオ節味のゼリー。




商品をカートに入れながら、森さんとのやり取りを思い出し、心がじんわりと温かくなる。




人は、本当に見た目だけじゃ分からない。


碁盤も、人も。




整って見えるもの、きれいに見えるものほど、その裏にはたくさんの工夫と努力がある。




カートを押してレジへ向かった。




キャットフードを少し多く買ってしまった。


でも、まあいいや。




ダイフクがペロペロする可愛い姿が目に浮かぶ。

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