公民館の武田信玄
病気になってから、しばらくSNSは開いていなかった。
みんなの“キラキラ”を見るのが、つらかったからだ。
私は左胸を失い、抗がん剤の副作用で毎日ぐったりしていた。
なのに世の中は、そんなことには一ミリも関係なく回っていく。
当たり前だけど。
――投稿でもしてみるか。
一年ぶりに、ふと思い立った。
「囲碁サークルに入りました」
碁盤の写真を添えて、投稿した。
すると、すぐにコメントがついた。
「渋すぎる~! なんで囲碁?」
思わず笑ってしまう。
久しぶりにSNSで人とやり取りしたせいか、少し気持ちが浮き立った。
さらに通知が届く。
「元気かな? 私はイタリア出張中。帰ったらランチしようよ!」
幼なじみの美和からだった。
彼女の投稿を開いてみる。
イタリアのレストラン。
白ワイン。
石畳の街並み。
美和は商社に勤めていて、インテリア雑貨の買い付けやデザインをしている。
年に何度も海外出張へ行く、いわゆる“バリキャリ”だ。
「楽しそうだな……」
思わずつぶやく。
私は、
「元気だよ! うん、ぜひランチしようね!」
と、羨ましさを押し込めながら明るくコメントを返した。
向こうはイタリア。
こっちは公民館で囲碁、か。
華やかさが、違いすぎる。
でも、まあ、いい。
比べない、比べない。
大好きなMrs. GREEN APPLEも、誰もが自分だけの特別な世界や奇跡を持っているんだって、そんなふうにポジティブに歌っていたっけ。
あっちがイタリアという「異世界」なら、
こっちは、囲碁という「異世界」だ。
黒と白の石だけで戦う、独特な世界。
最近、その独特な世界に惹かれはじめている。
そんなことを考えながら、私は公民館の扉を開けた。
今日は、やけに人が多かった。
「おっ、三崎さん来た来た」
原田さんが、対局の手を止めて、待ってましたとばかりにこちらへ来た。
「今日は特別だよ! 五段の鬼塚さんに指導してもらえるからね!」
「はぁ……」
私は思わず、部屋の奥を見た。
そこにいたのは――
腕を組み、無言で盤を見つめる、大柄な男性だった。
大きな鋭い目。
太い眉。
どっしりした体格。
威圧感がすごい。
でも……誰かに似てる。
あっ。
武田信玄だ。
く~、似てる似てる!
戦国武将好きとしては、ちょっと嬉しくなってしまう。
そんなことを考えていたら、その武田信玄――じゃなかった鬼塚さんが、ゆっくりこちらを見た。
「……じゃあ、始めようか」
低い声だった。
「は、はい! よろしくお願いします!」
思わず背筋が伸びる。
私は慌てて席に座った。
「九子置くか」
最大のハンデ戦だった。
盤の上に、最初から黒石を九つ置かせてもらう。
初心者救済措置である。
なのに――
全然、勝てる気がしない。
碁石を持つ手が、じんわり汗ばんでいた。
パチ。
鬼塚さんの石が置かれる。
「まず、自分の陣地を確保する」
パチ。
「次に、相手を攻める」
パチ。
「順番を間違えると、自分が死ぬ」
合戦で勝つコツを伝授されているみたいで、妙に説得力があった。
一手置かれるたびに、盤の景色が変わっていく。
さっきまで、ただの白と黒だったのに。
なぜか急に、石の一つ一つが、戦場で動く兵みたいに見えてくる。
攻める者。
守る者。
じっと機をうかがう者。
「そこ、アタリなの分かる?」
「……え?」
「このままだと、ここの黒、全部死ぬよ」
「ぜ、全部!?」
私は思わず盤に顔を近づけた。
「囲碁はね」
パチ。
「一目でも多く、自分の陣地を守れれば、それで十分なんだよ」
鬼塚さんは盤を見たまま続けた。
「全部勝とうとすると、足元を崩す」
静かな声だった。
でも、その言葉はなぜか胸の奥に、ストンと落ちた。
パチ。
さらに白石が置かれる。
盤の上の黒が、どんどん追い詰められていく。
私はもう、どこに打てばいいのか分からなかった。
「はぁ~」
鬼塚さんは深いため息をついた。
「あなたのは、まだ碁になってないね」
胸がチクリと痛んだ。
「まずは、囲碁の本読んで勉強したほうがいいよ」
鬼塚さんは、盤から目を離さないまま言った。
「もう終わりにしようか」
それ以上、私の顔を見ることもなく、静かに石を片付け始める。
黒と白が、盤の上からひとつずつ消えていった。
悔しい。
そんな言い方しなくてもいいじゃない。
まだ始めたばっかりだもの。
……でも。
少し、図星だった。
実際、つまらない日常を変えるきっかけなら、
何でもよかった。
偶然、囲碁に出会い、
原田さんや、ひふみんと、
「そこ危ないよ」
「また取られたー」
なんて言いながら石を並べる。
その時間に癒され、救われて、
この一か月、ここへ通ってきたのだ。
だから鬼塚さんには、
“囲碁を打ちに来ている人”というより、
“おしゃべりを楽しみに来ている人”
に見えたのかもしれない。
囲碁をちゃんとやりに来ている人から見たら、
私は甘く見えたんだろう。
なんだか急に気まずくなって、帰りたくなった。
その時だった。
「でもさ」
鬼塚さんが、ふと手を止めた。
私は顔を上げる。
「よくこのサークルに入ってきたよな~」
鬼塚さんは、私の顔を見て言った。
「女ひとりでさ。偉いよ」
え……?
これって、褒められた?
「まあ、楽しくやりなよ」
ぶっきらぼうに、それだけ言うと、鬼塚さんは席を立った。
囲碁には厳しい。けど、
サークルなんだから、
まずは楽しくやればいいってことか。
……なんだ。
武田信玄みたいに怖そうなのに、
ちゃんと優しいじゃんか。
夕方、公民館を出たところで、スマホが震えた。
また美和からだ。
綺麗なイタリアの海の写真。
『帰国したらまた連絡するね!ランチ楽しみだよ!』
メッセージを見て、私はふっと笑った。
うん、ほんとに。
イタリアの楽しい話、たくさん聞かせてね。
そして私も話をしたい。
最近、囲碁っていう不思議で素晴らしい世界に迷い込んだこと。
武田信玄みたいな怖い人がいること。
でも、優しい人達に囲まれて、
なんだか毎日が少し楽しくなってきたことを。
五月の夕風が、やわらかく頬をなでた。
気持ちよくて、私は思わず深呼吸した。




