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私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

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6/11

公民館の武田信玄

病気になってから、しばらくSNSは開いていなかった。


みんなの“キラキラ”を見るのが、つらかったからだ。



私は左胸を失い、抗がん剤の副作用で毎日ぐったりしていた。


なのに世の中は、そんなことには一ミリも関係なく回っていく。



当たり前だけど。



――投稿でもしてみるか。



一年ぶりに、ふと思い立った。



「囲碁サークルに入りました」


碁盤の写真を添えて、投稿した。



すると、すぐにコメントがついた。


「渋すぎる~! なんで囲碁?」



思わず笑ってしまう。


久しぶりにSNSで人とやり取りしたせいか、少し気持ちが浮き立った。



さらに通知が届く。



「元気かな? 私はイタリア出張中。帰ったらランチしようよ!」



幼なじみの美和からだった。


彼女の投稿を開いてみる。



イタリアのレストラン。


白ワイン。


石畳の街並み。



美和は商社に勤めていて、インテリア雑貨の買い付けやデザインをしている。


年に何度も海外出張へ行く、いわゆる“バリキャリ”だ。



「楽しそうだな……」



思わずつぶやく。



私は、


「元気だよ! うん、ぜひランチしようね!」


と、羨ましさを押し込めながら明るくコメントを返した。



向こうはイタリア。


こっちは公民館で囲碁、か。



華やかさが、違いすぎる。



でも、まあ、いい。


比べない、比べない。



大好きなMrs. GREEN APPLEも、誰もが自分だけの特別な世界や奇跡を持っているんだって、そんなふうにポジティブに歌っていたっけ。



あっちがイタリアという「異世界」なら、


こっちは、囲碁という「異世界」だ。



黒と白の石だけで戦う、独特な世界。



最近、その独特な世界に惹かれはじめている。


そんなことを考えながら、私は公民館の扉を開けた。



今日は、やけに人が多かった。



「おっ、三崎さん来た来た」



原田さんが、対局の手を止めて、待ってましたとばかりにこちらへ来た。



「今日は特別だよ! 五段の鬼塚さんに指導してもらえるからね!」


「はぁ……」



私は思わず、部屋の奥を見た。



そこにいたのは――



腕を組み、無言で盤を見つめる、大柄な男性だった。



大きな鋭い目。


太い眉。


どっしりした体格。


威圧感がすごい。



でも……誰かに似てる。



あっ。


武田信玄だ。



く~、似てる似てる!



戦国武将好きとしては、ちょっと嬉しくなってしまう。



そんなことを考えていたら、その武田信玄――じゃなかった鬼塚さんが、ゆっくりこちらを見た。



「……じゃあ、始めようか」



低い声だった。



「は、はい! よろしくお願いします!」



思わず背筋が伸びる。


私は慌てて席に座った。




「九子置くか」



最大のハンデ戦だった。


盤の上に、最初から黒石を九つ置かせてもらう。


初心者救済措置である。



なのに――


全然、勝てる気がしない。



碁石を持つ手が、じんわり汗ばんでいた。



パチ。


鬼塚さんの石が置かれる。



「まず、自分の陣地を確保する」




パチ。


「次に、相手を攻める」




パチ。


「順番を間違えると、自分が死ぬ」




合戦で勝つコツを伝授されているみたいで、妙に説得力があった。




一手置かれるたびに、盤の景色が変わっていく。


さっきまで、ただの白と黒だったのに。




なぜか急に、石の一つ一つが、戦場で動く兵みたいに見えてくる。




攻める者。


守る者。


じっと機をうかがう者。




「そこ、アタリなの分かる?」


「……え?」




「このままだと、ここの黒、全部死ぬよ」


「ぜ、全部!?」


私は思わず盤に顔を近づけた。




「囲碁はね」


パチ。




「一目でも多く、自分の陣地を守れれば、それで十分なんだよ」


鬼塚さんは盤を見たまま続けた。




「全部勝とうとすると、足元を崩す」




静かな声だった。


でも、その言葉はなぜか胸の奥に、ストンと落ちた。




パチ。


さらに白石が置かれる。




盤の上の黒が、どんどん追い詰められていく。


私はもう、どこに打てばいいのか分からなかった。




「はぁ~」




鬼塚さんは深いため息をついた。




「あなたのは、まだ碁になってないね」




胸がチクリと痛んだ。




「まずは、囲碁の本読んで勉強したほうがいいよ」


鬼塚さんは、盤から目を離さないまま言った。




「もう終わりにしようか」




それ以上、私の顔を見ることもなく、静かに石を片付け始める。


黒と白が、盤の上からひとつずつ消えていった。




悔しい。


そんな言い方しなくてもいいじゃない。




まだ始めたばっかりだもの。




……でも。


少し、図星だった。




実際、つまらない日常を変えるきっかけなら、


何でもよかった。




偶然、囲碁に出会い、




原田さんや、ひふみんと、


「そこ危ないよ」


「また取られたー」


なんて言いながら石を並べる。




その時間に癒され、救われて、


この一か月、ここへ通ってきたのだ。




だから鬼塚さんには、




“囲碁を打ちに来ている人”というより、


“おしゃべりを楽しみに来ている人”




に見えたのかもしれない。




囲碁をちゃんとやりに来ている人から見たら、


私は甘く見えたんだろう。




なんだか急に気まずくなって、帰りたくなった。




その時だった。




「でもさ」


鬼塚さんが、ふと手を止めた。




私は顔を上げる。




「よくこのサークルに入ってきたよな~」




鬼塚さんは、私の顔を見て言った。


「女ひとりでさ。偉いよ」




え……?


これって、褒められた?




「まあ、楽しくやりなよ」




ぶっきらぼうに、それだけ言うと、鬼塚さんは席を立った。




囲碁には厳しい。けど、




サークルなんだから、


まずは楽しくやればいいってことか。




……なんだ。




武田信玄みたいに怖そうなのに、


ちゃんと優しいじゃんか。




夕方、公民館を出たところで、スマホが震えた。


また美和からだ。




綺麗なイタリアの海の写真。




『帰国したらまた連絡するね!ランチ楽しみだよ!』




メッセージを見て、私はふっと笑った。




うん、ほんとに。


イタリアの楽しい話、たくさん聞かせてね。




そして私も話をしたい。




最近、囲碁っていう不思議で素晴らしい世界に迷い込んだこと。


武田信玄みたいな怖い人がいること。




でも、優しい人達に囲まれて、


なんだか毎日が少し楽しくなってきたことを。




五月の夕風が、やわらかく頬をなでた。




気持ちよくて、私は思わず深呼吸した。

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