囲碁初心者、地区大会を目指す?
「囲碁の大会、出てみたら?」
アロハシャツの人にそう言われて、私は少し本気にしてしまった。
大会?
初心者の私でも出られるの?
だが翌週、原田さんは苦笑しながら言った。
「うーん。三崎さん、石がすぐ死んじゃうからねぇ。まだ難しいかな。」
また出た。
囲碁独特の、妙に物騒な言葉。
石が“死ぬ”とか、“殺される”とか。
最初に聞いた時は、少しぎょっとした。
がんになってから、“死ぬ”という言葉に敏感になっていたからだ。
でも囲碁の世界では、それが普通らしい。
「この石、もう死んでるねぇ」
なんて、みんな天気の話みたいにサラッと言う。
実際、私はよく石を殺される。
逃げているつもりなのに、気づけば囲まれているのだ。
「来月、地区大会があるんだよ」
原田さんは碁盤を見ながら続けた。
「川を挟んだ別地区との対抗戦。初級、中級、上級に分かれて打つんだけどね」
「へぇ……」
「まあ、生き死にが分かるようになれば、出られるかなぁ」
私は少し黙った。
そして、おそるおそる聞く。
「あの……出場できるかどうかって、いつ決まるんですか?」
「二週間後かな。そこでメンバー決めるから」
原田さんはニヤッと笑った。
「あと二週間、頑張ってみる?」
返事につまる。
私は思わず、碁盤を見つめた。
*
その時だった。
少し離れた席で、見慣れない男性が碁を打っているのに気づいた。
私と同じくらいの年齢だろうか。
工場の作業着姿で、盤面をにらみながら、
「あー失敗した……」
「うわ、これ困ったなぁ……」
と、ずっとブツブツつぶやいている。
「あれ? あの方、初めてですよね?」
私が聞くと、原田さんはちらっとそっちを見た。
「ああ、唐沢さんね。半年くらい前に入った人。仕事忙しくて、普段はなかなか来られないらしいよ」
「へぇ」
「でも大会に出たいんだって。ここ最近は、わりと顔出してるみたい」
サークルには三十人くらい所属しているらしい。
けれど、普段来るのは十人くらい。
大会が近づくと、
いつもは見かけない人まで急に熱心に通い始めるのだという。
唐沢さんは盤をにらんだまま、
「うわぁ……そこかぁ……」
と小さくつぶやいた。
その直後だった。
ドサッ。
鈍い音がした。
見ると、唐沢さんが畳に崩れるように倒れこんでいた。
「あ……ちょっと気持ち悪……」
声が途中で途切れる。
「唐沢さん!?」
「大丈夫!?」
「ちょっと水!」
サークルの空気が一気に波立った。
顔色は真っ青だった。
「救急車呼ぶか?」
「いや……少し休めば……」
とりあえず座布団を枕代わりにして寝かせ、水を飲ませながら様子を見る。
しばらくして、唐沢さんはゆっくり目を開けた。
「す、すみません……寝てなくて……」
聞けば、三日連続の夜勤明けだったらしい。
今朝仕事が終わり、そのあと用事を済ませ、そのまま寝ずに囲碁サークルへ来たのだという。
「いやいや、それじゃ倒れるよ!」
「若くても無理しちゃダメだよ~」
周りから次々声が飛ぶ。
すると唐沢さんは、照れくさそうに頭をかいた。
「今度の大会で、勝ちたくて。練習しなきゃって思って」
「でも、ちょっと熱入り過ぎじゃないかぁ?」
そう言われると、唐沢さんは困ったように笑った。
「いや~……実は、息子に頑張ってるとこ見せたいんですよね」
「思春期なんです。最近、全然しゃべってくれなくて」
波が引くみたいに、みんなの声が消えた。
唐沢さんは、窓の外を見ながら続けた。
「だから囲碁大会に出て、自分が頑張ってる姿見せたら、何か変わるかなぁって」
――ここにもいた。
私みたいな人が。
子どもとの距離に悩みながら、何か突破口を探している人が。
私は、唐沢さんの背中をぼんやり見つめた。
「……でも今日は帰って寝ます!」
唐沢さんは申し訳なさそうに頭を下げた。
「お騒がせしました!」
そう言って、ふらつきながら帰っていく。
その背中を見送りながら、私は思った。
みんな、それぞれ事情を抱えているんだな、と。
自分だけが、暗い井戸の底に取り残されているわけじゃない。
もしかしたら、いつも優しい原田さんも。
穏やかな“ひふみん”みたいな山川さんも。
みんな、どこかに小さなヒビを抱えながら。
心に棘を刺したまま。
それでも笑っているのかもしれない。
だからここへ来て、石を置くのかもしれない。
私は、碁盤に並ぶ白と黒の石を見つめた。
「原田さん」
「ん?」
「私、大会に出てみたいです」
自分でも驚くくらい、はっきりした声だった。
「あと二週間、生き死にが分かるように頑張ってみたいです」
すると原田さんは、ニヤッと笑った。
「じゃあ、特訓だね」
私は碁笥から黒石をひとつ取り上げた。
指先に、ひんやりとした感触が伝わる。
まだ、生き方も、生き残り方も、よく分からない。
でも――。
とりあえず、次の一手を置くしかないのだ。




