負けながら、生きてイゴー!
『そろそろ、二か月か――』
乳がんの術後一年間。
再発防止のための抗がん剤治療が終わって、やっと二か月が経った。
治療中は、吐き気。味覚障害。
手足の皮はぼろぼろにむけ、紙やすりみたいにガサガサになった。
顔色は、どす黒く変わっていった。
おまけに涙腺まで詰まり、目に細いチューブを通す手術まで受けた。
「全然副作用出ない人もいるんだけどな。三崎さんはコテンパンにやられちゃったね。珍しいなぁ」
主治医は、苦笑しながら言った。
珍しい、か。
どうせ“珍しい”なら、宝くじでも当たればよかったのに。
そういえば、手術も一日に二回した。
最初の手術のあと、夜遅く、病室で突然の大量出血。
意識が遠のいて――そのまま緊急手術になったのだ。
翌朝、看護師は点滴を手際よく直しながら言った。
「一年に一人か二人いるんだよね~、こういう人」
私の顔も見ず、ぶっきらぼうに。
「きっと、いいことあるよ」
取ってつけたような慰めだった。
――何で、私ばっかり。
気づけば、その言葉ばかり頭の中を回っていた。
でも、もうやめよう。
不幸の感傷に浸るのは、もう終わりだ。
「とりあえず、今日を生きよう」
軽快なポップソングみたいに、そう思うことにした。
今日はゴールデンウィーク。
外は、気持ちいいくらい晴れていた。
夫は大好きな野球中継を、テレビで大音量で見ている。
娘たちは友達と遊びに行った。
じゃあ私は、囲碁に行こう。
原田さんに教わりに。
行く場所がある。
それだけで、少し救われる気がした。
*
その日、公民館に入ると、原田さんの姿はなかった。
部屋には、パチ、パチ、と石の音だけが響いている。
みんな対局中で、空いている席もない。
どうしよう。
入口で立ち尽くしていると、一人の男性がこちらを見た。
「ちょっと待ってて~。これ終わったら打とう!」
ジーンズにアロハシャツ。
まだ五月なのに、一人だけ夏を先取りしている。
囲碁というより、海辺で焼きそばでも焼いてそうな人だった。
六十歳前後だろうか。
日に焼けた顔で、にこにこ笑っている。
その笑顔は妙に明るくて、屈託がない。
――悩みなんて、なさそうな人だな。
やがて対局を終えたその人は、私の前にやってきた。
「今日は私が教えるね」
「よ、よろしくお願いします」
すぐに対局が始まった。
初対面なのに、名前も聞かれない。
私も名乗らない。
単に、お互い“囲碁をする”。
そのさっぱりした感じが、なぜか心地よかった。
私は四子置かせてもらい、石を並べる。
パチ。
パチ。
一生懸命考えながら、私は石を置いていった。
しばらくして、アロハシャツの人が盤面を指でなぞる。
「えっとさ~、石の逃げ道が二つしかないと、苦しいんだよね」
「石の逃げ道、ですか?」
「そうそう。逃げ道が二つだと、一つ塞がれたら、もう残り一つでしょ? そうすると、もうアタリだからさ」
そして、にこっと笑った。
「だから、逃げ道は三つあるといいんだよね。まあ理想だけどさ」
逃げ道は三つあるといい。
その言葉が、不思議と胸に残った。
家庭。
仕事やお金。
友達。
趣味。
健康。
人って、何か一つだけで生きていると、そこが駄目になった瞬間、一気に苦しくなるのかもしれない。
気づけば私は、ぽつりと呟いていた。
「私、もう……どこに石を置けばいいか分からないんですよね」
「これ以上、失敗したくないし」
すると、その人はあっさり笑った。
「いいんだよ~、失敗しても」
私は思わず顔を上げた。
「俺なんか七年やってるけど、いまだに打つ手間違えるし。負けてばっかだよ」
その人は、負けている話まで楽しそうに笑った。
そして盤に石を置く。
パチ。
「ここにいる人、みんなそう」
さらにもう一手。
パチ。
「負けながら、生き残る手を探してるの」
――負けながら?
胸の奥が、少し揺れた。
私はずっと、失敗しないように生きてきた。
負けないように。
ちゃんとした人間でいようとして。
でも現実は違った。
がんになった。
毎年の健康診断で、何一つ異常なかったのに。
あまりのショックで、心が壊れた。
そこから、全部が少しずつ狂い始めた。
闘病のつらさで、私は不安と愚痴ばかり口にしていた。
最近の夫は、私の話を聞きながら、スマホを見て「うん」と返すだけだ。
娘たちも、どこか気を遣っている。
思春期の次女は特に敏感で、私が話しかけると少し困ったような顔をする。
何度も弱音を聞いてくれた友人とも、いつの間にか連絡が途切れた。
仕事にも、もう何の情熱も残っていない。
家族も。
仕事も。
友人も。
大事にしてきたものが、少しずつ手の中からこぼれていく。
――私、何のために頑張ってきたんだろう。
すると、アロハシャツのその人は、ぽつりと言った。
「俺なんか、人生失敗してるけどね。ハハハ」
あまりにも軽く笑うので、私は返事を飲み込んだ。
「そうなんですか」とも言えないし、
「何があったんですか」なんて、もっと聞けない。
パチ。
その人は、何事もなかったみたいに石を置く。
「こんだけ碁盤は広いんだからさ。」
パチ。
「この局面で負けても、別の局面で勝てばいいんだよ」
――こんなにニコニコしてる人でも、何かあったのかな。
そう思ってその人をじっと見つめていると、なぜか向こうもこちらを見つめ返してきた。
部屋には、またパチ、という石の音だけが響いた。
「あのさ」
「……はい」
少し、ドキッとする。
その人は、盤の石を片付けながら、ふと思いついたみたいに言った。
「来月の大会、出てみたら?」
「……は? 大会、ですか?」




