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私の人生、囲碁よろしく! ―50歳、乳がんサバイバーが囲碁で人生を取り戻すまで―  作者: 春野ひつじ
私の人生、囲碁よろしく!

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4/11

負けながら、生きてイゴー!

『そろそろ、二か月か――』



乳がんの術後一年間。


再発防止のための抗がん剤治療が終わって、やっと二か月が経った。



治療中は、吐き気。味覚障害。

手足の皮はぼろぼろにむけ、紙やすりみたいにガサガサになった。



顔色は、どす黒く変わっていった。

おまけに涙腺まで詰まり、目に細いチューブを通す手術まで受けた。



「全然副作用出ない人もいるんだけどな。三崎さんはコテンパンにやられちゃったね。珍しいなぁ」


主治医は、苦笑しながら言った。



珍しい、か。


どうせ“珍しい”なら、宝くじでも当たればよかったのに。



そういえば、手術も一日に二回した。



最初の手術のあと、夜遅く、病室で突然の大量出血。


意識が遠のいて――そのまま緊急手術になったのだ。



翌朝、看護師は点滴を手際よく直しながら言った。



「一年に一人か二人いるんだよね~、こういう人」


私の顔も見ず、ぶっきらぼうに。



「きっと、いいことあるよ」


取ってつけたような慰めだった。



――何で、私ばっかり。



気づけば、その言葉ばかり頭の中を回っていた。




でも、もうやめよう。


不幸の感傷に浸るのは、もう終わりだ。



「とりあえず、今日を生きよう」


軽快なポップソングみたいに、そう思うことにした。



今日はゴールデンウィーク。

外は、気持ちいいくらい晴れていた。



夫は大好きな野球中継を、テレビで大音量で見ている。


娘たちは友達と遊びに行った。



じゃあ私は、囲碁に行こう。


原田さんに教わりに。



行く場所がある。

それだけで、少し救われる気がした。



その日、公民館に入ると、原田さんの姿はなかった。


部屋には、パチ、パチ、と石の音だけが響いている。




みんな対局中で、空いている席もない。


どうしよう。




入口で立ち尽くしていると、一人の男性がこちらを見た。


「ちょっと待ってて~。これ終わったら打とう!」



ジーンズにアロハシャツ。


まだ五月なのに、一人だけ夏を先取りしている。


囲碁というより、海辺で焼きそばでも焼いてそうな人だった。



六十歳前後だろうか。


日に焼けた顔で、にこにこ笑っている。


その笑顔は妙に明るくて、屈託がない。



――悩みなんて、なさそうな人だな。



やがて対局を終えたその人は、私の前にやってきた。



「今日は私が教えるね」


「よ、よろしくお願いします」



すぐに対局が始まった。


初対面なのに、名前も聞かれない。


私も名乗らない。



単に、お互い“囲碁をする”。


そのさっぱりした感じが、なぜか心地よかった。



私は四子置かせてもらい、石を並べる。



パチ。


パチ。



一生懸命考えながら、私は石を置いていった。


しばらくして、アロハシャツの人が盤面を指でなぞる。



「えっとさ~、石の逃げ道が二つしかないと、苦しいんだよね」


「石の逃げ道、ですか?」



「そうそう。逃げ道が二つだと、一つ塞がれたら、もう残り一つでしょ? そうすると、もうアタリだからさ」


そして、にこっと笑った。




「だから、逃げ道は三つあるといいんだよね。まあ理想だけどさ」




逃げ道は三つあるといい。




その言葉が、不思議と胸に残った。




家庭。


仕事やお金。


友達。


趣味。


健康。




人って、何か一つだけで生きていると、そこが駄目になった瞬間、一気に苦しくなるのかもしれない。


気づけば私は、ぽつりと呟いていた。




「私、もう……どこに石を置けばいいか分からないんですよね」


「これ以上、失敗したくないし」




すると、その人はあっさり笑った。


「いいんだよ~、失敗しても」


私は思わず顔を上げた。



「俺なんか七年やってるけど、いまだに打つ手間違えるし。負けてばっかだよ」



その人は、負けている話まで楽しそうに笑った。


そして盤に石を置く。


パチ。



「ここにいる人、みんなそう」



さらにもう一手。


パチ。



「負けながら、生き残る手を探してるの」



――負けながら?



胸の奥が、少し揺れた。



私はずっと、失敗しないように生きてきた。


負けないように。


ちゃんとした人間でいようとして。




でも現実は違った。




がんになった。




毎年の健康診断で、何一つ異常なかったのに。




あまりのショックで、心が壊れた。


そこから、全部が少しずつ狂い始めた。



闘病のつらさで、私は不安と愚痴ばかり口にしていた。



最近の夫は、私の話を聞きながら、スマホを見て「うん」と返すだけだ。


娘たちも、どこか気を遣っている。




思春期の次女は特に敏感で、私が話しかけると少し困ったような顔をする。




何度も弱音を聞いてくれた友人とも、いつの間にか連絡が途切れた。


仕事にも、もう何の情熱も残っていない。




家族も。




仕事も。




友人も。




大事にしてきたものが、少しずつ手の中からこぼれていく。




――私、何のために頑張ってきたんだろう。




すると、アロハシャツのその人は、ぽつりと言った。




「俺なんか、人生失敗してるけどね。ハハハ」




あまりにも軽く笑うので、私は返事を飲み込んだ。




「そうなんですか」とも言えないし、


「何があったんですか」なんて、もっと聞けない。




パチ。


その人は、何事もなかったみたいに石を置く。




「こんだけ碁盤は広いんだからさ。」




パチ。


「この局面で負けても、別の局面で勝てばいいんだよ」




――こんなにニコニコしてる人でも、何かあったのかな。




そう思ってその人をじっと見つめていると、なぜか向こうもこちらを見つめ返してきた。




部屋には、またパチ、という石の音だけが響いた。




「あのさ」


「……はい」




少し、ドキッとする。



その人は、盤の石を片付けながら、ふと思いついたみたいに言った。



「来月の大会、出てみたら?」


「……は? 大会、ですか?」

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