石の上にも “まだ” 三年 !?
「一目置く」——。
誰でも使う言葉だけど、私は最近まで、その語源を知らなかった。
囲碁で、相手に“一目ハンデを置く”こと。
つまり、「あなたのほうが強いです」と認める意味らしい。
——50歳にして、初めて知った。
囲碁サークルに通い始めて、今日で三回目。
毎回、原田さんが私に個人レッスンをしてくれる。
私は碁盤の上に、黒石を四つ置いた。
ハンデ戦というやつだ。
「じゃあ私、原田さんに“一目”どころか“四目”も置いてるから、相当すごい人ってことですね。」
「そういうことだね」
原田さんはニヤッと笑った。
囲碁を始めてから、日常に囲碁用語が溢れていることにも気づいた。
「布石を打つ」は、将来のために準備すること。
「定石」は、王道や基本パターン。
「駄目」は、意味がないこと。
囲碁では「どちらの陣地にもならない場所」を指すらしい。
へえ。
何千年も続いてきた遊びって、やっぱり言葉の中にも生きてるんだなあと感心する。
原田さんとの指導碁が始まった。
黒、白、黒、白。
パチ、パチ、と石を置く音だけが静かな部屋に響く。
——と思った次の瞬間。
私の黒石が、あっという間に囲まれて消えた。
……え?
今、何が起きた?
マジック?
私は思わず碁盤を覗き込む。
すると原田さんが平然と言った。
「はい、これ“アタリ”ね」
「……アタリ?」
「あと一手で石が取られる状態」
「はあ~……」
分かったような、分からないような返事をする。
「この石、逃げないと取られちゃうから」
「逃げる……?」
私は眉間にシワを寄せたまま、碁盤を見つめる。
原田さんは笑いながら、石の持ち方から、囲み方、取り方まで、手取り足取り教えてくれた。
そのときだった。
「三崎さん、今日は吉本さんと打ってみない?」
原田さんがニコニコしながら、奥に座っていた男性を紹介した。
70代後半くらいだろうか。
物静かで、どこか知的な雰囲気の人だった。
「吉本さん、この会では一番の新人なんだよ」
——新人!?
それは助かる。
私と同じくらいの初心者なら、少し安心できる。
「よろしくお願いします!」
私は張り切って頭を下げた。
対局が始まり、しばらくしてから聞いてみる。
「囲碁、始めてどれくらいなんですか?」
すると吉本さんは穏やかに答えた。
「まだ三年です」
——まだ!?
危うく、お茶を吹きそうになった。
三年やって「まだ」なの?
英会話なら、日常会話くらいできそうな年月である。
囲碁の世界、修行期間が長すぎない?
なんだか急に、果てしない砂漠を見せられた気分になる。
——私、本当に囲碁サークル入ってよかったのかな。
ルールは難しいし、
先は長そうだし、
周りは年上の男性ばかり。
普通、私くらいの年齢なら、
コーラスとか、お花教室とか。
そういう趣味を選ぶのかもしれない。
なのに私は、
大河ドラマに影響されて、囲碁サークルに入ってしまった。
しかも、奥が深すぎる世界に。
その夜、私は中学生の娘に聞いてみた。
「ママさ、高齢の男性ばっかりで、女性が私しかいない囲碁サークル入ったんだけど……これって変かな?」
すると娘は、スマホを見たまま面倒くさそうに答えた。
「ママは、それでいいんじゃない?」
「女の世界より、そういうほうが合ってるよ。逆張りでさ」
——逆張りか。
私は思わず笑ってしまった。
そうかもしれない。
私、たぶん昔から、
みんなと同じことをするより、
ちょっと変なものとか、違和感あるものに惹かれる。
それに。
すぐ理解できないものって、簡単には飽きないのかもしれない。
囲碁は、正直まだ退屈だ。
ルールも分からないし、
何が面白いのかも、よく分からない。
でも——。
複雑で、意味不明で、奥が深い。
だからこそ、五年後も十年後も、飽きずに続いていくのかもしれない。
昔読んだ小説に
「本当に長く続くものって、最初は退屈に感じることがある」
そんな意味のことが書いてあった気がする。
ああ。
今の私と囲碁って、まさにそれかもしれない。
大げさな夢があるわけじゃない。
プロ棋士を目指すわけでもない。
ただ、病気をして、毎日をやり過ごすだけだった私が、
なぜか今、碁盤の前に座っている。
——まあ、とりあえず。
『暇つぶし』なんだし。
大河ドラマに影響されて始めた囲碁。
私はもうしばらく、この“小さな合戦場”へ通うことにした。




