公民館の扉を開けたら
公民館の中は、妙に静かだった。
パチ。
白と黒の石が、盤の上に置かれる音だけが響く。
「とりあえず座って見てて」と言われてしばらく見学していた。
部屋の中には、10人ほどの男性がいた。
60代、70代……いや、90代近い人もいるかもしれない。
みんな二人ずつ向かい合い、盤をにらむように見つめている。
一応私、50歳、女性。
——なんか、とんでもない場所に来ちゃったな。
そんな風に思っていると、
少し強面の男性が、こちらをじっと見て言った。
「囲碁、やったことあるの?」
「いえ、全くの初心者です」
ドキドキしながら答えると、その人はふっと口元をゆるめた。
「そう。じゃあ、いいね」
「まずは、一回でも多く打つことだよ」
—— 一回でも多く、か。まだ打ったこともないけど。
そのときだった。
「一局、打ちますか?」
後ろから、やわらかい声がした。
振り返ると、一人のおじいさんが、ニコニコとこちらを見ていた。
年齢は……80代後半くらいだろうか。
上品で、どこかで見たことがあるような・・・と思ったら、
将棋の“ひふみん”に似ている。
淡いピンク色のチョッキには、さりげなくクロコダイルのマーク。
足が少し悪いのか、すぐそばに杖が立てかけてある。
「……え、あ、はい」
気づけば頷いていた。
こうして、私の“人生初の対局”が始まった。
——と言っても。
ルールが、分からない。
本当に、何も分からない。
どこに置けばいいのかすら分からない私に、“ひふみん”はにこにこしながら言った。
「ここに、置いてみましょうかねぇ」
もごもごとした話し方で、ちょっと聞き取りづらい。
入れ歯なのかもしれない。
ずっと笑っている。
優しい。
とりあえず言われた通りに、石を置く。
パチ。
なんだか、それっぽい音がした。
それだけで、少しだけ楽しい。
私が適当に石を置くと、何か、もごもごと教えてくれた。
「うーん、そこじゃなくて、こっちがいいねぇ」
たぶん、そう言っている。
たぶん。
私はよく分からないまま、言われるがままに石を並べていく。
——何これ?
何をしているのか、全然分からない。
ふと周りを見ると、みんな静かに、真剣に打っている。
この空間だけ、時間の流れが違うみたいだった。
——私、やっぱり場違いだな。
ルールも分からない。男性ばかり。年齢層も違いすぎる。
じわじわと心細さが広がってきた、そのときだった。
「ちょっといいかな?」
声をかけてきたのは、最初に私に話しかけてくれた、60代後半くらいの男性だった。
ベージュのキャスケット帽に、帆布のショルダーバッグ。
ジーンズにオレンジ色のスニーカーという、少し若々しい格好なのに、
不思議と無理をしている感じがない。
身ぎれいで、近づくと柔軟剤のやさしい香りがした。
笑うと目尻が細く下がる。
学校の先生か、町の図書館司書にでもいそうな、穏やかな人だった。
「私、原田です。この会の責任者なんだよ。一緒に打ちながら、会の規則とか説明しようか」
そう言って、“ひふみん”と交代した。
「よ、よろしくお願いします。あの、三崎るり子です。」
急いで名前を伝えて頭を下げた。
碁盤の前に座ると、その人はニコっと笑った。
「でさ、なんで囲碁に興味持ったの?」
「えっと……大河ドラマが好きで、戦国武将が囲碁を打ってるのを見て……」
「ああ、大河ドラマね」
そこから少し会話が弾んだ。
原田さんは、20代の頃から囲碁を始めて、もう40年以上も続けているらしい。
私は気になっていたことを、思い切って聞いてみた。
「あの~囲碁って、どこが面白いんですか?」
だって、何十年も続けるなんてすごくないか?
囲碁には、きっと何か深い魅力があるのかもしれない。
すると、原田さんは、少し間を置いてから、あっさり言った。
「まあさ、暇つぶしだよね」
——え?
思わず吹き出しそうになった。
もっとこう、
「人生が見える」とか、
「大局観が身につく」とか、
そういう名言っぽいことを想像していたのに。
「ここにいるみんな、暇つぶしで来てるんだよ」
あまりにも軽くて、
あまりにも普通の答えだった。
「……そんなもんですか」
「そんなもん」
即答だった。
その瞬間、
ふっと肩の力が抜けた。
ああ、そうか。
人生を変えるとか、
何か意味を見つけるとか、
別に、そんな大げさなことでなくていいんだ。
ただ、暇をつぶす。
それだけでも、
人はどこかへ行けるのかもしれない。
「なんか、いいですね」
気づけば、そんな言葉が出ていた。
原田さんは、にやっと笑った。
「でしょ?」
サークルの説明を受ける。
週に3回、午後一時から五時まで。
来たいときに来て、相手がいれば打つ。
かなりゆるい。
「あなたが入ったら、紅一点だよ」
そう言われて、少しだけ戸惑う。
やっぱり、女性は私一人か。
——私、変わってるのかな。
そんなことを考えていると、原田さんが続けた。
「それとね、会費なんだけど」
少し間を置いてから、さらっと言う。
「年会費、千円ね」
——年会費で千円?安い。
思わず心の中でつぶやいた。
その瞬間だった。
「入会します」
ほとんど反射だった。
自分でも驚くくらい、迷いがなかった。
たった千円で、
この“よく分からない新しい世界”に入れるなら。
合わなかったら、やめればいい。
それだけだ。
「お、即決だね」
「はい」
気づくと、少し笑っていた。
こうして私は、囲碁サークルに入った。
——暇つぶしのために。
でも、このときの私は、まだ知らない。
この“暇つぶし”が、
自分の人生を、大きく変えていくことになるなんて。




